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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
これまでの情報ログ

ムミア・アブ・ジャマル氏の再審請求に新証拠

 5月22日、ペンシルバニア州最高裁に再審を請求中のムミア・アブ・ジャマル氏の主任弁護士レナード・ワイングラス氏が記者会見を行った。その中で、ジャマル氏の一審の際に、彼に不利な証言をしていたヴェロニカ・ジョーンズという女性が、警察からの圧力で偽証をしていたことを明らかにしたと述べた。この証言は、ジャマル氏の再審請求に向けて、大きな意味をもつものと考えられている。

以下に、ムミアの支援組織International Concerned Family and Friends of Mumia Abu-Jamalからの電子メールを掲載します。
ヴェロニカ・ジョーンズさんの詳細な証言内容も明らかにされています。

   英語の原文を読む


ムミア再審に向けた新局面

ワイングラス弁護士が記者会見 
5月22日 フィラデルフィア

 1996年5月22日、アブ・ジャマルの弁護士レン・ワイングラスが、フィラデルフィ ア・シティ・ホールで記者会見を行った。会見では、1982年のムミアの裁判でムミア に不利な証言をしたヴェロニカ・ジョーンズが、当時の証言は、警察からのひどい圧 力によって強制されたものであることを告白した宣誓証言をしたことが公表された。  これは、きわめて大きな局面の転換と言える。ワイングラスは、最高裁が、この事 件をセイボ判事にやりなおさせるように要求している。セイボ判事こそ、きちんと証 言を調べ直す責任を負うべきである。
 以下は、1996年5月22日に、ムミアの代理人から提出されたドキュメントの概要お よび、ヴェロニカ・ジョーンズが署名した文章である。

ペンシルバニア州最高裁判所殿

控訴人
ムミア・アブ・ジャマル (ウェズリー・クック)

No.119 App.Dkt. 1995

 控訴人ムミア・アブ・ジャマルは、ヴェロニカ・ジョーンズの追加証言を聴取するように求める。
 ジョーンズの証言は、新証拠として、きわめて大きな意味をもつものである。彼女が1982年の裁判で、弁護側目撃証人として法廷に立つ前に、フィラデルフィア警察の警官が拘置所に彼女を訪れた。当時彼女は、武装強盗容疑という重罪で起訴される恐れがあったが、そのことをネタにして、証言を変えるように脅迫された。
 警察の脅迫に屈して、ジョーンズが裁判で証言を変え、射撃のあった直後に2人の男が現場から逃走したのを見た、という本当の証言を否定したことで、ジャマルの弁護にきわめて不利な状況が生まれた。
 以下にヴェロニカ・ジョーンズが署名した文書を添付する。


(INTRODUCTION)

(1)

 ヴェロニカ・ジョーンズは、ジャマルの1982年の裁判の弁護側目撃証人として喚問された。しかし、射撃事件のあった直後に、現場から2人の男が走り去るのを見た、という自分の最初の証言をひるがえして、弁護側を驚ろかせた。(Tr. 6/29/82)
 以下に詳細に述べられているように、ジョーンズが弁護側に不利になるように証言を変更したのは、警察に強制されたからである。ジャマルの裁判の当時、ジョーンズは強盗、武装襲撃などの重罪容疑で逮捕されており、10年から15年の刑をうける可能性があった。 彼女が弁護側証人として法廷に立つ直前に、フィラデルフィア警察の私服警官が拘置所を訪れ、もし彼女がジャマルが射撃犯であると嘘の証言をすれば、自分の容疑に関して手心が加えられるだろう、ともちかけた。
 警官たちは、もし彼女がジャマルの弁護を利するようなことを何かしたら、何年も刑務所で服役することになる、という印象を彼女に与えた。

(2)

1.
 この警察の脅迫のために、ジョーンズはジャマルの裁判で嘘の証言を行い、射撃のすぐ後に2人の男が現場から逃げるのを見たという,彼女の本当の証言を引っ込めた。

2.
 ジョーンズの新証言は、いくつかの理由によって、決定的に重要である。
 2人が逃げるのを見た、という証言は、射撃犯が現場から逃走した、という弁護側主張にたいする強力な証拠である。
 以下に述べるように、検察側立証は、フォークナー巡査が撃たれたとき、現場にはフォークナーのほかにはジャマルと彼の弟ウィリアム・クックの2人だけしかいなかった、という主張の上で成り立っている。この検察側の主張とは反対に、何人かの目撃者が、1人もしくはそれ以上の人間が、現場から逃げ去った、と警察に話している 。だが、そのことを陪審員の前で証言したのは、デシー・ハイタワー証人ただ1人であった。
 別の目撃者であるタクシー運転手ロバート・コバートは、(82年の)裁判では、射撃犯が逃走するのを目撃したという主張を引っ込めたが、1995年の再審請求公判においては、停止中の運転免許を回復できるように手を貸してやるという約束を検察から受けていたことを明らかにした。
 確実に現場にいたことが明らかな証人であるウイリアム・シングレタリー証人は、現場から射撃犯が逃げたという彼の証言に警察が圧力をかけ、嘘の目撃証言に無理矢理署名させられたことを明らかにしている。
 デシー・ハイタワー証人は、だれかが現場から逃げるのを見た、と主張したために、警察から5時間も尋問を受け、へとへとに疲れさせられ、ポリグラフテスト(嘘発見器)にかけて従わせようとされた、と述べている。
 また、やはり射撃の直後に誰かが逃げるのを見た、と証言していたデボラ・コダンスキー証人は、裁判で弁護側証人として喚問すらされなかった。なぜなら、裁判所が、彼女の住所を弁護側に教えなかったからである。
 さらに、ジョーンズの証言は、検察側の最重要証人であるシンシア・ホワイトに対して、警察から同様の取引がもちかけられ、そのせいで彼女がジャマルを射撃犯であると嘘をついたのだという、弁護側の主張をも補完している。
 警察によるジョーンズへの脅迫行為は、検察の不法行為と証人脅迫というジャマル側のあらゆる主張を強く支えるものとなっている。

 これらの点について、次にジョーンズさん自身の声明を見てみよう。


ヴェロニカ・ジョーンズ

 以下に述べることは、私が知りうる限りで、真実であり正しい事実であることを確認します。

1.
 1982年6月29日、私はジャマルの裁判に、弁護側の目撃証人として召喚されました。そして、1981年12月9日早朝に起こった出来事、つまりダニエル・フォークナー巡査がフィラデルフィアの中心部12番街と13番街の間のローカスト通りで撃たれた事件の目撃者として証言しました。
 私が目撃したことに関する証言は、虚偽を含んでいました。なぜなら、もし私がジャマルに警官殺しの罪を着せれば、私がその時に直面していた重罪容疑について、「心配しなくてもよい」、と事前に2人の警官から告げられていたからです。
 裁判で、私はとりわけ、射撃のあった直後、そして警官が倒れ、警官隊が到着するよりも前に、2人の人間が犯行現場から走り去ったのを見た、ということを繰り返し否定しました。その証言は、嘘でした。実際は、(裁判より)前に私が警察に述べて署名したように、私は2人が現場を慌てて立ち去るのを見たのです。

2.
 どうしてこうなったのか、という事情は、次の通りです。
 1982年6月12日、つまりジャマルの件で私が証言する約2週間前、私は重罪容疑(強盗、武装襲撃など)で逮捕されました。保釈金は、私にはとても払えない額でした。裁判に証人として出廷したとき、私はまだフィラデルフィアで拘留中の身でした。私は、もしそれらの容疑で有罪となれば、10年から15年服役しなければならないと告げられていました。
 私が証言するおよそ1週間前、拘置所に2人の白人の私服警官が私を訪ねてきました。看守が、私の弁護士が訪れて来ると話していたので、最初、彼らを見たときびっくりしました。警官たちは、私の事件についてではなく、いきなりジャマルのことを話し始めました。もし私がジャマルに不利な証言をし、射撃犯として、ジャマルを識別すれば、私の処分未定の重罪容疑については、心配する必要がない、と彼らは私に言いました。
 私は、射撃を目撃はしていないこと、たんに銃声を聞いただけで、その後2人の男が走り去るのを見たのだ、と繰り返し警官に話しました。しかし、そういう話では、彼らは満足しませんでした。警官たちは、私が銃の件で15年くらいの刑に直面していることを思い出させることで、私を脅しました。そして、彼らの言うとおりの証言をするように、しつこく迫ったのです。
 私はおびえて、私の弁護士を呼んでくれ、と彼らに頼みました。彼らが立ち去った後、私はもし自分がジャマルの弁護側に有利なことを何か言えば、刑務所で刑期に服さなければならなくなるだろうと悟りました。
 それは、私が法廷に出されるほんの2、3日前の出来事でした。私はてっきり自分自身の裁判だと思いこんでいましたが、驚いたことに、出廷してみると、私はジャマルの裁判のまっただなかにいたのです。私を脅した警官は、2人とも私の目につくところにいました。法廷の後ろに立っていたのです。私が警察に最初に話した証言--銃声が止んだ後、現場から2人の男が逃走したこと--についてジャマルの弁護人から確認を求められたとき、弁護側を助けることで処罰されるのをおそれて、私は、そのことをはっきりと否定してしまいました。その時、私はまだ21歳で、3人の小さな子供がいました。

3.
 ジャマルの裁判で証言した後、私は保釈されました。拘置所から釈放され、全ての容疑に対して、最終的に執行猶予を与えられました。

4.
 以下のことが、私が射撃のあった夜に実際に見たことです。

 私が3発の銃声を聞いた時、私はローカストと12番街の交差点の北西のコーナーに立っていました。
 私は、コーナーの建物と、銃声の聞こえたローカストの13番街方向に目をやりました。私が地面の上に倒れている警官を目撃し、さらに2人の黒人が最初は歩いて、それから走るようにして警官が倒れた場所から去るのを見たのは、そのときです。
 また、別の黒人がローカストと13番街の南東のコーナーのSpeedlineの入口付近に立っているのも見ました。
 何が起こったのかもっとよく見ようと思って、私はローカストの北側を13番街方向へ歩きました。そして、途中まで行ったところで、近づいてくるパトカーのランプが目に入ったので、12番街の方へ引き返しました。そこから現場を迂回して12番街を南へ歩き、パインの方へ行きました。さらにパインの西からブロードへ、さらに西のブロードとローカストの交差点まで行きました。その場所からは、ローカスト沿いの東方向に、警察がやっていることがよく見えました。この間に、私が「ラッキー」という名前で知っていた売春婦を目撃したことは一度もありません。彼女の本名は、シンシア・ホワイトといいます。

5.
 事件の後、1週間たたないうちに、2人のフィラデルフィア警察の警官と1人のCamdenの警官が、私に話を聞くためにCamdenにある私の母の家を訪ねてきました。1981年12月15日の夜9時を過ぎていました。そのうちの誰も、以前に会ったことのない人でした。彼らは、前もって電話しなかったので、彼らの訪問は突然のものでした。私は話をすることを承諾しました。母もその場にいました。彼らは、私に質問すると、自分たちで、5ページにわたる供述書を作成しました。彼らは、図面も作りました。私は、両方の書類に署名しました。
 すでに述べているように、私が事件の夜目撃したことに関して質問に答えて作られた書類--裁判では私はその内容を否定したのですが--は、正確で偽りのないものであり、とりわけ現場から2人の男が走るようにして去っていったという点について、間違いはありません。しかしながら、私が法廷で証言する際に訂正しようとした図面には間違いがありました。私を証人申請したのは弁護側であったにも関わらず、私は裁判の前に弁護側の誰とも会ったことも話したこともありません。

6.
 地方検察官補による反対尋問の間、「あなたが供述書で述べたことはみんな嘘ですね」と彼が言ったことに追従しました。(page 147 of the transcript of 6/29/82)その証言は、嘘です。
 弁護側の尋問を受けたときにも嘘をつきました。現場から2人の男が走り去るのを見たのではないか、という質問を否定し、まったくのうそを言い、「誰も、走り去っていない」と証言したのです。(page 99 of the transcript of 6/29/82).

7.
 私は事件の後、あわせて3回、警察あるいは警察官と接触しました。
 最初は12月15日に母の家で供述書をとられたとき、次は第6区の制服警官に逮捕され、何時間も尋問を受け、ジャマルを射撃犯だと識別すれば、売春容疑による再逮捕は勘弁してやってもよい、と取引を持ちかけられたときです。この取引は、シンシア・ホワイト(ラッキー)にも持ちかけられていました。最後は、私が重罪で逮捕された後、拘置所に私服警官2人が訪ねてきたときで、証人として出廷する少し前に、私の証言を変えさせ、弁護側に有利な証言をしないように圧力をかけたときです。

8.
 私は、逮捕された当時、Rhonda HarrisとかLouise Tatumといった偽名をいくつか使っており、警察には嘘の住所や誕生日、社会保障ナンバーを告げていました。釈放された後、私はフィラデルフィアとCamdenの近郊を去り、それ以降、ほとんどペンシルバニアには近づきませんでした。私の電話番号も、電話帳には載せていません。

9.
 私は、ジャマル氏の代理人からの連絡を受けた後、私自身の意志にもとづいてこの文章を書きました。誰もそれを私に強要した人はいません。また、いかなる利益供与をも約束されたことはありません。
 私が、今回この文章を書いたのは、単にそれが真実であり、私が裁判で行った偽証を訂正したいという理由のみにもとづくものです。

署名:
ヴェロニカ・ジョーンズ