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山里紀行 W日本 <第148回>
シオジの森
(平成15年8月5日発行の「山林・No1431」より転載)
内山
節
(哲学者)
上野村を流れる神流川(かんながわ)にはたくさんの沢が流れ込んでいて、かってはどの沢も岩魚のよい釣り場であった。西上州の森の下をくぐり抜けながら、水が岩場をつたっていく。
その沢のひとつに北沢がある。北沢と神流川の合流点付近には、三岐(みつまた)という戸数五、六戸の小さな集落があって、ここは上野村の中では、比較的新しい集落だといわれている。どこの山村でもそうであるように、川沿いの集落よりは、山の中腹の集落のほうが古い集落であることが多い。
北沢は、めずらしく、岩魚よりも山女の多い沢である。どうみても岩魚が好きそうな沢なのに、竿を伸ばすと山女が釣れるのである。もっとも源流付近には岩魚が棲んでいて、村の人たちはここの岩魚はその一画だけに昔から棲んでいる岩魚で、純粋な「北沢岩魚」の表情をもっているのだという。氷河期が終わり、源流に閉じ込められて以来、そこだけで暮らしてきたという人もいる。岩魚も山女も歴史をもっているのである。
六月も終わりに近づいたある休日、十人ほどの村人と一緒に私はその北沢にでかけた。北沢の奥にはシオジの保護林がある。上野村の私たちのグループは、七月にこのシオジをみに行くという企画をたてていた。定員二十人という募集に、五十人ほどの申込みがあり企画は成立していた。私たちのグループは、年に何回かこういう自主的なツアーを実施している。
今回は北沢沿いのルートで歩く予定になっていた。ところがこのルートでシオジの保護林まで行ったことのある人が、私たちのメンバーにはいなかったのである。私も別の峠越えのルートで入ったことはあるけれど、北沢ルートはよくわからない。それで、十人ほどの村人と一緒に下見に行くことになった。
シオジの保護林までは、行きが三時間、帰りが二時間ほどの行程であった。村の人間が無理せずに歩いての時間だから、都市の人だともっとかかるだろう。ツアー企画の申込者たち全員を、目的地まで歩かせるのはむずかしいかもしれない。もっとも、だからこそこのシオジの森は守られてきたともいえるのである。
北沢に入って三、四十分歩くと「屋敷跡」がある。石を組んだ跡があり、その辺りだけ里の草がいまでもはえている。
「昔は北沢には十五、六件の家があった」と一緒に行った村人が言った。炭焼きの人たちがこの沢にも暮らしていたのである。
「毎日、大勢の子どもが北沢から学校に通ってきていた」。私だけでなく、一緒に歩いていた村人のほとんども、そのことは知らなかった。「昭和三十年だったね」と当時を知っている一人が言うと、もう一人が答えた。「そうだった。あの年に全員が沢をおりて、長野のほうに引っ越していった」。
それ以降、北沢には人はすんでいない。さらに三、四十分歩いたところにも「屋敷跡」はあった。その辺りには野生化した桑の木がたくさんはえていたから、たぶん養蚕もしていたのだろう。
「いま歩いている道もね」と、当時を知っている村人が言った。「その頃は四尺(一メートル二十センチ)ほどの幅があって、ソリ道として使われていたんだよ」、「炭俵を十五、六俵積んだソリが山から降りてきていた」、「ソリが滑りやすいように、枕木のように木が並べられていた」。
集落跡はその後もいくつかあった。おそらく集落といっても、二、三軒の家があったのだろう。
二時間ほど歩くと北沢は大きなふたつの沢に分かれる。私もここまでは来たことがあった。この辺りから北沢も山女の沢から岩魚の沢に変わる。そして、その沢を包む木もサワグルミよりシオジのほうが多くなる。サワグルミとシオジは、幹も葉も実によく似た木である。そのサワグルミやシオジと一緒にトチの木の大木があって、ときどき大きなモミの木が立っている。他に、ブナ、イタヤカエデ、ホオ、カツラ、ミズナラ、クリ、…。
そのふたつの沢に分かれるところで左沢に道をとり、さらに三十分ほど歩くとまた集落があったらしい「屋敷跡」に出た。そこは、驚くべきことに、北沢の「分教場」の跡だった。「北沢の奥には学校に通えない子供たちがいて、私設の寺子屋みたいな「分教場」があったとは聞いていたが、ここにあったとは」。当時を知る村人も「分教場」の場所までは知らなかったらしい。
それから三十分ほど歩いて、私たちは、シオジの保護林に到着した。
いまではここは、シオジの原生林と紹介されている。といっても、五十年ほど前までは、その近くまで北沢の人々が暮らしていた。そんな、ひとつの歴史が終わり、いまシオジの森は、原生林へと近づく新しい歴史を歩みはじめていた。
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