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山里紀行 W日本 <第143回>
あいまいな森
(平成15年3月5日発行の「山林・No1426」より転載)
内山
節
(哲学者)
現在の日本の森をみていると、林業活動をとおして森林管理ができる森は、せいぜい全体の十パーセント程度ではないかという気がしてくる。十パーセントという数字は調査にもとづくものではなく、私の感覚にすぎないのだけれど、それも林業によって森林管理ができているということではなくて、林業経営が可能なら、林業で森林管理ができる森という意味である。
もうひとつ、現状では保護を軸にして管理したほうがよい森が、これも乱暴な数字であるが、十パーセント程度あるのではないかという気がする。それは、いまでは貴重になっている原生的な森や、伐採すると回復に時間がかかる標高の高いところにある森、地域によっては景観林として大事な森、希少生物の保護のために必要な森などであって、そういう森は保護に軸足をおいた管理のほうが、今日では有効なのだろうと思う。
とすると、残る八十パーセントの森は何なのか。私はそれは、森林管理の方法が特に定まっていない森なのではない森なのではないかと思う。森林管理の目的があいまいな森といってもよい。
この割合は地域によって違いがあるのは当然であるが、私の暮らす上野村の森をみれば、大半が「あいまいな森」である。もちろん、かってはそうではなかった。一九六〇年頃までは、山のいたるところから煙が上がっていたといわれるほどに、上野村は炭焼きがさかんであったし、森はさまざまな面で村人の暮らしを支えていた。拡大造林時代には、希望をもって、木を植えた場所もある。
ところが今日では、どのような方向で管理したらよいのかが、私にも、村人にもわからない。幸い天然林率が高い村なので、しばらくこのままにしておこうか、というような感覚が村の平均的な意識である。人工林で間伐が遅れているところだけ間伐しておこうか、といった感じで、紅葉もきれいだし、動物も多いのだからいいではないか、といった程度である。
おそらく、全国をみても、小規模な山持ちは、人工林か天然林かの違いはあっても、同じような気持ちをもっているのではないだろうか。間伐の遅れは気になっても、林業によって森林管理をしようという気持ちは、すでにもっていない。林相が天然林ならなおさらである。
これまでの森林政策は、この「あいまいな森」に対しても、森林組合による働きかけや各種補助金をとおして、林業的な森林管理をするように誘導してきた。しかし、それが無理であることは、いまでは誰もが気づきはじめている。何よりも、所有者自身がそんな意識をもっていないのだから、うまくいくはずはない。
とすると、今日の森林政策の課題は、経営可能な条件があれば林業をとおしての森林管理ができる森と、保護を軸とした森林管理が必要な森に対しては、それぞれの条件整備をすすめながらも、森林の大半をしめる「あいまいな森」の管理方法をみつけだすことであろう。
ところで「あいまいな森」という表現を用いると、所有者の管理意思が薄弱で、多くの場合は管理放棄がすすんでいる森、というように、マイナスイメージでとらえられることが多い。しかし私は、それは、林業をとおして森林管理をすることが善であり、唯一の善でさえあると考えられていた時代の発想なのではないかと思う。確かに林業の視点からみれば、「あいまいな森」は管理放棄がすすみつつある森である。だが森と人との元々の関係にたち返れば、たえずあいまいさをふくみながら展開されてきたのが、日本における森林と人間の関係ではなかったか。
たとえば上野村の炭焼きといっても、全村的な産業になったのは大正時代に入ってからのことであって、歴史貫通的に炭焼きがさかんだったわけではない。よい産業になったので、数十年間炭焼きが広くおこなわれていた、というだけである。今日上野村の森林全体をもっともよく利用しているのは、冬の狩猟にたずさわっている村人であろうが、これほど「狩猟」がふえた時代は過去にはなかっただろう、と村の人たちはいう。それはシカ、イノシシがなぜか近年激増しているからでもあり、村でしかできない暮らしを楽しもうという雰囲気が、最近では村のなかにひろがっているからでもある。
そんなふうに、ある時期に何かがさかんになっても、歴史をとおしてみれば、大半の森は、はっきりした管理目的をもたない「あいまいな森」として展開してきたのであり、そのほうがむしろ、森と人との自然の姿なのではなかろうか
とすると大事な事は、この「あいまいな森」をあいまいなままに維持する所有のあり方や、森への手の加え方、管理主体などを確立していくことであろう。あいまいであるがゆえに多面的な能力をもっている森に、価値をみいだすことが必要だと私は思っている。
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