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山里紀行 W日本 <第139回>
転換期の意味
(平成14年11月5日発行の「山林・No1422」より転載)
内山
節
(哲学者)
かって落人たちが山奥に身をひそめたのは、隠れ家として有効だったからだけではないのだと思う。山に入ることは、日本では森の中で暮らすことであり、その森には逃げてきた人々を養うだけの生産力があった。森に入れば何とか生きていける、そういう気持ちがあったからこそ、落人たちは山奥にのがれたのではなかったか。
私の村、上野村では、昭和二十年代の頃まで「山上がり」という習慣があった。いよいよ困ったら山に小屋をつくって暮らせばいい。そうすれば一年や二年、何とでもなる。こんな思いが村人にはあり、そして実際「山上がり」をした人もいたのである。
森は人間にとって、困ったときに逃げ込む場でもあり、救済の場でもあった。
振り返ってみれば、昭和の農村恐慌のときにも、農村より山村の方がダメージが少なかった。森が助けてくれる分だけ、厳しいときには山村の方が安定していたのであろう。さらに、森とともに生きる人々の技の多彩さも役立ったに違いない。
山形県金山町の杉沢という山奥の集落に暮らす栗田さんは、若い頃、雨が多くて日照時間が不足し米が不作になる年は、その分だけ杉がよく育つ、と教わったという。だから単年度でみれば不作でも、長い目でみれば同じになると。その栗田さんがよく言っていたのは、農家林家にとっては山は貯金と同じだということであった。農家として余裕のあるときは、その余力で森を育てる。そして農家として困ったときには、貯金を一部おろすのと同じ感覚で、山の木を切らせてもらう。ここでも森は、いざというときに人の暮らしを助けてくれるものだったのである。
日本の歴史のなかでは、森はつねに、一面ではこういう性格をもっていた。個人も、社会も、困ったときには森に助けを求め、そして救済されてきた。ある意味では昭和に入って炭焼きがふえたのも、また戦後の拡大造林も、社会政策、あるいは地域の雇用対策的な役割をも担っていた。その点では、このときも、森は人と社会を助けた。
ところが今日になると、この森と人との関係がこわれてきたのである。もちろん精神的には、人はときに森に安らぎを求めたりするだろう。そのかぎりでは、森は人々が何かからのがれて逃げ込む場であり、助けてくれる場所でもある。しかし、人々の生活自体を支える場としては、森の役割は縮小された。
この変化をみていると、森と人の関係は、有史以来の転換期にさしかかっているのかもしれない、という気持ちをいだく。これまでの価値基準でものごとを考えるかぎり、森は人々が困ったときに逃げ込む場でも、助けを求める場ではなくなった。そして、もしもそうであるとするなら、私たちは今までの精神の習慣を清算して、新しい森と人との関係を構想しなければならない時点に、立たされているのではないだろうか。
困ったときには、森は経済的にも所有者を助けてくれる。この思いがあるかぎり、それが幻想だと感じた所有者は、森への関心を薄めていくだろう。それに、経済的な面からみるかぎり、社会にとっても森を良好に維持することは、負担を必要とするものにさえなっている。
もちろんこう述べれば反論する人々もいるだろう。水源としての森の機能や、炭素の固定化作用、人間に対する精神的役割などを計算すれば、森はいまも人々を助けていると言われるかもしれない。それに現在は森の経済的価値が低くても、世界の森林の現状を考慮すれば、将来にわたって同じ状態がつづくことはない、と考える人もいるだろう。
もちろん私はそれを否定しているわけではない。しかし、そうやって、これまでの精神の習慣と何とか整合性を保とうとするより、困ったときにも助けてくれるとは限らない森とともに暮らすには、どんな発想が必要なのかを議論したほうが、建設的なのではないかという気がするのである。
たとえば森を所有し、良好に維持していることが社会貢献であると認められるような社会風土や、それを社会化する税制などをつくることができないかを議論してもよい。たとえば、森林ボランティアのための有給休暇制度を検討してもよい。あるいは所有者を経済的に助けてくれないにもかかわらず、所有者にとって価値のある森をつくるには、どんな森林再生の方法や森の姿が好ましいのかを、みつけだす努力をしてもよい。
クマザサに覆われていれば、山の崩落防止や土砂の流出防止、水源の機能はかなり果たされるだろう。にもかかわらず、クマザサではなく森である必要がどこにあるのかを、私たちは議論しなければならないだろう。
森と人との有史以来の関係が変わろうとする時代を迎えている。そういう感覚が、私の気持ちのなかで、だんだん大きくなっている。
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