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山里紀行 W日本 <第136回>
木曽街道
(平成14年8月5日発行の「山林・No1419」より転載)
内山
節
(哲学者)
夏の村々を旅していると、どこに行っても、黒緑色の葉に包まれた森が目に入ってくる。藪山と化した天然林、間伐の遅れた人工林。それらが、日本の森の姿をいっそう黒緑色に変えている。
といっても、日本の夏の森は、いつの時代でもそんな表情をみせていたわけではないようだ。
私の手元に、広重と栄泉の手による浮世絵『木曽街道六拾九次』が置かれている。木曽街道とは、いうまでもなく中山道のことで、この作品が完成したのは天保十三年(一八四二年)のことだから、時代は幕末にむかっている頃である。
日本橋から板橋、大宮を経て高崎に至る。そこから軽井沢を抜け、佐久の岩村田、望月をとおり、和田峠を越えて塩尻へ、そのままいまも残る奈良井宿、妻籠、馬篭宿へ。中津川から関が原を経て京都にたどりつく。江戸時代の大動脈である。
みていてまず感じるのは、景色のなかに森の描かれている絵の少ないことである。それは驚くほどで、ところどころに木が描かれていても、街道や集落近くには森がない。山の裾野は森ではなく、草原として書かれている。
たとえば現在の長野県浅科村にある八幡宿付近の一枚。そこには竹薮は描かれていても、山は草原になっている。たとえば芦田宿はいまの立科町にあるが、そこには杉らしい木が点々と描かれているものの、まるで牧場のなかに点々と木が立っているような光景である。
いまでは誰もが言っているように、江戸時代の終わりには、集落近くには豊かな森は存在しなかったことを、この六十九枚の版画は示している。とすると、なぜ森がなくなっていたのか。そのことも『木曽街道六拾九次』は明らかにしている。
街道には道を行くたくさんの人たちが描かれている。その旅人たちにまじって、近くに住んでいると思われる人々も登場してくる。その人たちのなかでも多いのは、山から刈ってきたであろう柴を運んでいる人々である。背負籠に山の落ち葉を集めて、家に帰る途中と思われる子供も描かれている。柴を運ぶ小船と筏がすれちがう川の風景を書いたものもある。
当時の人々が、いかにしてしばしば山に柴刈りに行っていたのかが、みているうちに判ってくる。その柴は、太いものは燃料にも使っていたのであろうが、大半は農業用に用いられたのではないかと思われる。水田に柴をすきこむ農法は、当時はごく普通のものであった。そうすると、速効性はないが、肥料として長持ちしたらしい。
当時の農業は、山の恵に支えられながら展開していた。農と林、というより、農と山は一体のものであった。だから、これほど多くの柴を運ぶ人の姿や、落ち葉を運ぶ様子が、あたり前のように描かれているのであろう。
こうして山の木=柴が、集落の近くから刈りつくされ、山は草原状になっていった。その草原にぽつぽつと残っている木に針葉樹が多いのは、建築用材として残しておいたからであろう。
とともに目をひくのは、描かれている馬の多さである。農耕用と思われる牛や馬もいるが、大半は輸送用の馬である。当然、農耕用の馬や牛を飼うには草がいる。一定の面積の採草地が必要になる。その採草地から刈られた草は、肥料としても用いられたことだろう。だが、農耕用の牛馬は草で刈られていても、輸送用の馬のえさは草ではない。草も食べたかもしいが、主なえさは米や大豆で、そうしなければ、長距離輸送を可能にする体力はつかなかったらしい。
その豆を確保するために、当時の山の裾野には、粗放農業的に大豆などが栽培されていたはずである。その様子は『木曽街道六拾九次』にみることはできないが、豆がえさ用商品作物として有効なものだったことも、山の木を減少させた原因のひとつだったのではないかと考えられる。
こんな視点から『木曽街道六拾九次』をみてみると、伝統的な森の景色とは何かが私にはわからなくなってくる。幕末の集落近くの森が刈りつくされた姿が、伝統的な森の景色なのか。それ以前の日本の森はどんな姿をしていたのか。
もちろん、奥山の大半の地域には、かっては深い天然林がひろがっていたことだろう。伐出できないような山奥の森を、当時の人々が大量伐採したはずはない。
現在の私たちは、森から人が離れた結果森が荒れてきたと考えている。もちろん、人工林については、そのことは明確にいえるだろう。しかし、それでは、人々の暮らしと森が深く結びついていた時代には、森は荒廃していなかったのか。おそらく、「森の荒廃」という人間の下す価値判断もまた、森と人の関係の模索のなかにしか成立しないものなのであろう。
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