「うちの理事さん」

大分県・ 林業家・田島山業株式会社

田島信太郎さん

2001年1月号掲載・紹介者:足本裕子

 

 1年程前から、何を思われたのかお髭をはやされた。ヒゲといっても「森の人?」たちに多い?やぎさんや熊さんヒゲではない。筆者が一時期大好きだったクラークゲイブル(年が分かる?)の様に鼻の下に形よく蓄えるそれ、実業家風なのである。ヒゲの形でも分かるように、田島さんの意識は山の林業家と言うよりは都会のビジネスマンに近い。

 

◆田島さんの略歴は異色だった

 田島さんは現在、大分県の日田で林業を営む。以前甲子園で大活躍した日田林工のあの日田である。従業員は9名。2人を除いて全員がIターンかUターン組だという。そういう僕もUターンですから、という田島さんは、東京で勤めたあと日田に帰られた。「ビジネスマンをやっていました。」(サラリーマンとは言わなかった!)という言葉の背景には、大学卒業後、イギリスに語学研修1年、アメリカに2年留学してマーチャンダイジング(商品管理構成)を学ばれた後、西武に復職、(なんと入社式翌日から休職扱い)社長秘書という立場で前途洋々、世界をまたにかけてビジネスをこなしてきたという自信がのぞく。

 昭和60年、そんな田島さんが、28才の時、お父様が突然なくなられた。58才だった。その半月後におじいさまも88才で亡くなられた。Uターンを余儀無くされたわけで、以来、独特の林業経営で知られるようになった。林業を継ぐという漠然とした義務はもっともっと先と考えていたため、林業経営はほとんど知らない。小さい頃から山にはしょっちゅう連れていかれていたこともあって、林業そのものは好きだったけれど、時代の状況はどんどん悪くなるばかり。お父様から譲られた山の維持がこのままでは無理と判断した時、15,6人のそれまで勤めてくれた方々に悲壮な決意で1軒1軒頭を下げてまわられたという。

 昭和63年会社を設立し、最初は3人で始めた。田島山業株式会社という。資本金1,000万円。所在地は、大分県日田郡中津江村鯛生(たいお)

 

◆台風での大被害とその後の頑張り

 平成3年9月、台風19号で大分は大変な被害を受けた。中でも田島山業は最大の被害者と言われた。というのも元々田島山業の管理山林は、植えつけ後30年以下の幼令林がほとんどで、収入が少ない上に、台風で倒れた木の片づけ、新たな植え付けのための支出は想像を絶するものがあった。おまけに広葉樹にこだわっての植栽には、苗木代がよりかさむ。田島さんの会社のホームページを覗くと、これだけ大変なダメージを受けているのに、えらく威勢のいい言葉が飛び出してくる。『この田島山業株式会社は、森林と林業が死ぬ程好きです。よって現在管理している山林を「何がなんでも守り通す」ことはもとより「21世紀において我が国の森林を守るのは田島山業である」と本気で考えています。田島山業は森林を単なる「木材生産の為の工場」とは考えていません。むしろ都市住民を含め人々の生活にとっての「森林の新たな役割」を模索しています。』

 風倒木を捨ててしまうのでなくもう一度命を与えたい、と工房「山村工芸館 木 木」も活動している。「木の葉皿」が人気商品。ネット販売もしている由。

 しかし当たり前のことをキッチリやっているといいきる彼等が、これだけ頑張っていながら成り立たなくなるのなら、日本林業は、まさに救いがたい。

 

◆森林ボランティアの受け入れ

 台風19号で大ダメージを受けるちょっと前の8月、環境教育の名目で福岡の小学生を受け入れた。その後の大被害に、翌春、小学生やその親達が植林にくるようになった。夏には下草刈りにもきた。以来福岡のYMCAが主になってこのイベントは毎年続いているが、ボランティアを受け入れる林業家と言う点でも、田島さんは先駆的である。

 フォレスト・キーパーズ・キャンプと言う催しも主催している。このキャンプは植林(春)、下草刈り(夏)、除間伐(秋)、炭焼き(冬)といった林業の一連の作業を体験してもらいながら、毎回、林業関係者を囲み林業の現状を参加者と話し、考えていこうというもの。今年の秋の3回目では、チェーンソーを使った除間伐が主な作業だった。

 しかし、植林ボランティア100人を受け入れる為に、10人のプロが、一日かけて準備をするという。自分達で植えれば、半日で終わることを、と笑って言われると、市民側としては申し訳なく耳が痛い。こういった素人の林業体験では、ボランティアしているのは実際は山側の方が多いかもしれない。それに気が付かない一般市民もいるのだ。ボランティアと林業家のあり方に関しても、ボランティアのレベルが問われるなど、様々な場面を経て今日に至っているが、やはり林業経営がここまで苦しくなると、受け入れる方は大変だ。

 でも、田島さんなりのやり方は、魅力があるのだと思う。キャンプやボランティアで山を尋ねた後、また遊びにきて就職してしまった人もいる。Iターン、Uターンの若者達が「死ぬ程安い給料なんだけど、良い職場と思ってくれる」という。ホームページからは、自主的に運営される様子が、楽しそうな雰囲気でこちらに伝わってくる。社長をもう少し尊敬してもいいではないかという田島さんのぼやきまで入っている。

 

◆林業を支える我々は、生え抜きのサラブレットである、 という自覚。

 一概に仕事がきついという理由ばかりではないと思うけれど、若者達が定着しないといわれる森林組合や既成の組織、村社会のマイナス部分がここ田島さんの山にはないのではないか。これからの林業や山村社会に何が必要で何が排除すべきものなのかのヒントが、ここ田島山業にはあるような気がする。

 「ワシらには先祖伝来の林業魂がある」「ワシらこそが森林を創造し、守り育てるサラブレッドじゃい!」という言葉を臆せず発信する田島山業の人たちって凄いと思う。田島山業の人たちが共通して持っているものは、自分達が環境に負荷をかけていないという自信である。給料を稼ぐために、必要以上に山の木を伐ることは、森林を破壊すること。環境を破壊するために自分達が存在するのなら自分達は辞めた方がいいとする考えが共通認識であると聞く。経理もすべてオープン。田島社長は、指針を示し、時速を表示するのが自分の仕事という。方向性とスピードメーターさえちゃんとしていれば、後は社員が自分達で考えてくれると。自主性を重んじる会社らしい。

 

◆「補助金ってなんだ?」

 しかし本当に苦しくなった、さすがに落ち込むという田島さんが呼び掛けて、先日、「(社)日本林業経営者協会」の青年部会で研修セミナーを開いた。現在、青年部会長でもある。タイトルは、「補助金ってなんだ?」

1.公的資金を受ける必要性は? 

2.効果的な公的資金のありかた 

3.より多くの国民理解を得る為、公的資金を受ける森林の取り扱いと管理・経営する側の義務は? 

 といった内容。我々税金を納める市民側からいうと放置林の所有者にこそ、こういう管理者の義務などを考えて欲しいところだけれど、そんな人たちはこういうセミナーにも出ない。今の林業を取り巻く情勢では補助金を組み込んでしか成り立たないと聞く。それでも田島さんは、補助金をもらうことに抵抗感があると悩む。ビジネスと割り切るにはその仕組みがいま一つ納得できないのだろうと推察した。

 

◆家庭での田島さんは

 北海道出身の奥様とは、留学したニューヨーク州立大学で同じゼミをとっていて知り合った。帰国して3年後に結婚し、10歳を頭に3人のお子さんがいる。結婚後10年間日田で暮らしたが、最近福岡に住所を移された。家族のことを考えて、である。こどもの話をし始めると子煩悩ないいお父さん、本当に楽しそうだった。ちなみに昭和31年生まれと言う。このインタビュー中、横に座っていた香川の松下氏とは同年令である。70年安保闘争をもろにかぶった団塊の世代とは、また違った世代観を持つ、とのこと。

 時代は俺が創る!との気概ある言葉を聞くのは嬉しい。こんな前向きの人が我が森づくりフォーラムの理事ということに我々はもっと啓発され、動かされなければと思ったのでした。

田島山業のホームページ:http://www.culture-dome.or.jp/TAJIMA/mess2.htm

 

◆「俺にもいわせろ!」 本人からも一言

 クラーク・ゲーブルといえば当時ハリウッド一のプレイボーイで有名だった(こっちも年がばれたか)。あんなヤサ男と一緒にされては困る。自慢じゃないがこっちはデブである。先日、東京で開催した「補助金ってなんだ?」というセミナーが、新聞で取り上げられた。暗い内容のはずなのに、何故か満面笑み(というよりバカ笑い)の顔写真が出てしまった。それを見た多くの人から「謎の中国人」と揶揄された。そう言えば田島山業という会社もやたらと笑いが多い。かつて台風災害の折、悲惨な状況を取材に来ているのに、5分おきにバカ笑いになってしまうので取材にならないとNHKに怒られた。

 当社は大分県日田郡中津江村鯛生(たいお)というところで林業を営んでいる。日田市内から車で1時間。日田市民はもとより中津江村民からも「あそこは違う」と後ろ指を差されるほどの「ド田舎」である。東京や大阪からやって来た社員たちに「よくもまあこんな所に住めるなー」といったら「当社は好きなことが出来るから」といわれた。ショックだった!徹底的に締め上げている積もりだったのに・・・・・

 やっぱり当社では社長が尊敬されてない!いやむしろないがしろにされている!こんな奴らが21世紀の森林を守っていくなんて「絶対許せない!」

 

 

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