「外務省報告書」について

1「外務省報告書」の作成過程と歴史的背景
 いわゆる「外務省報告書」は、具体的には「華人労務者就労事情調査報告書」(全5分冊)といい、日本外務省自身によって、1946年1月下旬に構想され、2,3月に中国人強制連行を実行した35社135カ所の事業所から出された報告書(「華人労務者就労顛末報告」いわゆる「事業所報告」)とともに、6月半ば過ぎに報告書として印刷されたものである。

作成に至る事情

@ 1945年8月15日の日本の無条件降伏以降、10月15日には、中国人強制連行と虐殺に関連して、鹿島組花岡出張所の河野ら7人が米軍に逮捕され、46年5月3日には極東国際軍事裁判が開始されるなど、戦争犯罪の追及は現実のものとしてあった。(花岡事件は48年3月1日に、横浜BC級戦犯法廷で絞首刑3人を含む有罪判決)

A 敗戦の翌日から、日本政府各官庁、各企業は関係書類の焼却と証拠隠滅をはかってきたが、外務省は、連合国の一員である中国側(蒋介石)からの「中国側俘虜及び抑留者等の状況調査」要求や、GHQ 対策のために資料を整理しておく必要があった。

B また、日本政府は、敗戦直後、外務省管理局の最大の業務の一つとして、在外邦人の引き揚げと、それとセットになっていた中国人朝鮮人の本国送還を課題としており、その場合少なくとも中国側に名簿を明らかにするが必要があった。

 外務省の報告書作成に関する経緯に関わる資料(「華人労務者送還関係文書綴」(Roll10),「華人労務者送還着信電信綴」(Roll3))によれば、その意図は、「近く来朝を予想せらるる中国側調査団への説明に備える」ため、また「不日連合軍側の取り調べも予想せられ居る」ので、その対策として「実状を精密に調査し」「更に広範詳細なる資料を準備」するのだ、とされている。


2、内容
 この外務省報告書は、連行された4万人の氏名、年齢、出身地、生存の有無が掲げられており、極めて重要なものである。
 しかし、その内容からみれば、当初から「戦争犯罪回避」を目的としたものであるがゆえに、その強制連行の人数、氏名、出身地や死亡者数については、正確さを期してはいるものの、「死亡診断書」がでたらめであり、「虐待による死亡」の事実を「病死」と偽って隠蔽するものである。
 たとえば、「事業所報告」のための調査員大友の「覚書」によれば、
「業者の提出せる死亡診断書及び死亡顛末書の正確度は極めて疑はしい。警察当局の指令に基づく死亡診断書の書替は、医療関係者の反感を買ってゐる」
 また粟飯原(あいはら)調査員は、
「概して言へば、業者及び出先警察は共謀して本調査に対し旧悪の洩れざる様取り計らひ……協力が十分ではなかった」と述べている。


3、「幻の外務省報告書」

 しかし、その後この外務省報告書は所在不明となり、日本政府はその作成は認めても、いまや手元にはないので中国人強制連行の詳細はわからないと、国会で答弁し続けてきた(1960年5月3日、衆院日米安保条約特別委における外務省伊関佑二郎アジア局長答弁、93年5月11日参院厚生委における外務省アジア局小島誠二地域政策課長答弁)。
 しかし、92年から93年にかけての民間の調査研究のなかで、この報告書の調査実施から作成過程の資料が、戦後日本を占領したGHQによって押収され、アメリカ、ワシントンDCの国立公文書館本館に保管され、GHQ/SCAP文書のRG331という登録番号が付されているもののなかに入っていることが判明した。それはすでにマイクロフィルム化されており、フィルム番号はM1722で全部で17巻(17Rolls)あり、全体は次のような名前がつけられている。
"Records Pertaining to Rules and Procedures Governing the Conduct of the Japanese War Crimes Trials, Atrocities Committed against Chinese Laborers, and Background Investigation of Major Japanese War Criminals"
(「日本の戦争犯罪裁判実施に関する法規ならびに中国人労働者虐殺に関する記録、及び主要日本人戦犯の背後関係調査」)
 その結果、日本政府もついに次のように認めざるをえなかったのである。
 94年6月22日、参院外務委において、
外務省川島裕アジア局長は、「一連の調査をやりました結果、本件報告書が当時外務省が作成したものであることは間違いない事実である」と認め、そこには「割当に応じ都市郷村より半強制的に供出せしめたるもの」という記述があるとの答弁を行い、また清水澄子議員の「企業に対しても私は政府に指導的な役割をしていただきたい」という要求に、柿沢弘治外相(当時)は、「政府としてそうした方向を勧奨するよう努力をしていきたい」と答弁したのである。
 外務省報告書本文は、別に東京華僑総会から明らかにされた。


4、政府も否定できない中国人強制連行の実態
 かくも、調査、報告の過程を通して、日本政府によって意図的に隠蔽、歪曲されたものであるが、それでもなお、『外務省報告書』中には、隠しおおせない次のような事実が載せられている。

死亡率17.5%、死亡者6,830名

『五 死亡事情 (14、15頁)』において、強制連行された中国人「総数三八九三五名ニ対シ実ニ一七・五%ト云フ高死亡率ヲ示シ」ていることを日本政府外務省は認め、その内訳が連行途中の船倉・列車内での死亡812名、事業場内死亡5,999名、日本敗戦後の「集団送還」途中でさえ死亡19名であることを確認している。さらに30%以上の高死亡率の事業場が14ケ所もあること、甚だしい場合には、連行された中国人のうち半数強の死亡者を出している企業があることを政府は承知している。
「花岡事件」を引き起こした鹿島建設は当時の花岡出張所内では、被連行者986名中の418名が死亡しており、その死亡率は42.3%にも及び、死亡率の高さで第5位を占めるほど過酷で残忍な事業場であったことが判明している。


5.「戦争犯罪資料は焼却した」外務省自ら国会に虚偽の答弁を繰り返す
 外務省管理局がどのように資料操作を行おうとも中国人強制連行を否定することはできなかった。中国人強制連行と強制労働が国際法に照らして戦争犯罪であることを明確に認識している日本政府は、戦後1994年に至るまで「外務省報告書」を焼却したと言明してきた。「非常に多数の」日本人関係者を戦争責任から逃避させることが日本政府の目的であった。


6.戦後いちはやく強制連行を行った当該企業に国家補償金を支払う
 この「外務省報告書」(要旨)には、戦争犯罪行為である中国人強制連行を実行した企業が損失を受けたとの名目で政府から国家補償金が支払われた事実が記されている。
(『八 移入成果 (27、28頁)』)
 これを「花岡事件」の責任を問われるべき現鹿島建設に例をとると、鹿島は花岡出張所以外に4カ所の作業現場をもち、1,888名を中国の港から乗船させ、船中死亡7名、下関から各現場に到着するまでにさらに7名を死亡させた。4つの事業場を合計した死亡者(行方不明5名をふくむ)は526名を数えた。即ち、1,888名中、実に540名の死亡者、28.6%もの高死亡率である。この死者の数・高死亡率を恥ともしない鹿島建設に対して、政府は1945年8月15日時点での中国人生存者数を換算して、当時の金額で3,461,544円もの補償金を支払ったのである。(「外務省報告書」第3分冊・126頁)
 戦争犯罪を公然と閣議決定し、戦争犯罪企業に国家補償金を支払った政府と企業の悪質極まりない癒着ぶりがこの「外務省報告書」より浮き彫りにされている。


7.49年ぶりに「外務省報告書」を認めた外務省
 1994年6月、日本政府外務省は、「外務省報告書」等が、外務省自身が作成した実物であることを認め、外務省資料館にコピーを置き、一般公開することを承認した。しかし、被害を受けた中国人への具体的な補償問題には一切ふれることなく居直っている。
 戦争犯罪が世界において、時効なく裁かれるべき平和の課題であり、人類の道義の問題であるべき筈なのに、日本政府は国際世論を無視しつづけている。


※,この書面は「外務省報告書」コピーとともに1998年8月にILOに提訴追加資料として提出された。