花岡事件の背景


中国侵略と中国人強制連行
 1894〜95年の日清戦争に勝利した日本は、下関条約で中国(清国)から、台湾及び軍費賠償金2億3千万両(当時の日本の国家予算の5年分に相当)を奪い取り、これを礎にして近代的国家を建設したが、台湾はこの時以降50年間、日本の植民地として蹂躙された。10年後の1904年、日本は「満州」(中国東北)の権益を巡り、ロシアとの間で日露戦争に突入した。この戦争にも勝利した日本は、朝鮮を支配下におくとともに「満州」の権益を掌中にし、南満州鉄道株式会社(満鉄)を橋頭堡としてその権益をさらに拡大していった。
 1931年9月18日の柳条湖事件、32年の日本の策略による偽「満州国」(傀儡政権)樹立、37年7月7日の盧溝橋事件を契機として、日本の全面的中国侵略へのレールが敷かれ、華北では、日本軍によって中国人が偽「満州国」へ強制連行される事件が続発した。
 1941年、アジア太平洋戦争が開始されるや、「満州」は「大東亜共栄圏」建設の兵站基地とされ、華北での抗日救国闘争で捕らわれた八路軍兵士や国民党軍兵士、日本軍の三光政策(奪い尽くし、殺し尽くし、焼き尽くす)によって実施された労工狩り(「兎狩り作戦」)で捕らえられた中国農民が偽「満州国」へと強制連行され、日本企業により経営される鉱山や工場で過酷な労働を強いられた。その総数は1945年までに800万人にも達するといわれる。
 1941年度の鹿島組の請負高のうち16%の3200万円が満州鹿島組のものである(なお、京城支店、満州鹿島組、台湾支店、北京営業所の請負高が全体の57%を占める)。

 一方、アジア太平洋戦争の開始以降、日本国内における労働力不足が深刻化し、政府は企業からの強い要請を受けて、1942年11月に「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定した。日本への中国人強制連行を国家政策として採用し、「満州」で味わったウマ味を日本に持ち込もうとしたのである。44年2月「華人労務者内地移入ノ促進ニ関スル件」という次官会議決定を経て、日本への中国人強制連行を本格的に開始し、これによって総計約4万人の中国人が日本国内135の事業所に強制連行され、うち約7000人が殺されることになった。
 日本への中国人強制連行は、「満州」への中国人強制連行の延長線上に、企業の要望に基づき、政府により立案され、日本軍によって実行された、三者総ぐるみの国家的犯罪であった。


花岡事件
 秋田県の花岡鉱山は軍需生産に必要不可欠な銅鉱山であり、1944年「軍需会社」に指定されるや、乱掘が繰り返された。このため1944年5月、七つ館鉱の上を流れる花岡川が陥没するという大落盤事故が発生し、花岡川の付替工事が要請された。その工事を鹿島組(現在の鹿島建設)が受注し、44年8月以降、鹿島組花岡出張所に強制連行された986人の中国人は、主に花岡川の付替工事に従事させられた。
 彼らは「中山寮」という名の強制収容所に入れられ、粗悪で少量の食料と過酷な労働、補導員と呼ばれた鹿島組職員の虐待の中で次々と殺されていった。
 45年6月30日、耿諄大隊長を中心とする彼らは、民族と人間の尊厳を守るためについに死を賭して蜂起し、日本人監督4名と日本人の手先となった中国人1名を殺害して中山寮から逃亡した。しかし直ちに鎮圧されて再び捕らえられ、共楽館に集められて凄まじい拷問にさらされ、蜂起の後の3日間で実に100名を超える人々が虐殺された。
 敗戦後の45年9月にまで及ぶ強制労働によって、最終的に鹿島組花岡出張所に強制連行された986名のうち418名が殺された。

 花岡への連行者986名の年齢構成と死亡者の年齢構成をみると、
 15歳以上20歳未満 連行者数 50人 内死亡者数 5人
 20歳以上40歳未満 連行者数596人 内死亡者数209人
 40歳以上67歳    連行者数340人 内死亡者数209人
 (閣議決定によれば、年齢は「概ね40歳以下」となっているが、41歳以上が307名、全体の約30%を占めている。手当たり次第の連行であることがわかる。41歳以上の62%が死亡している。)
 (なお、135事業所総計では、連行者数38,935人 内死亡者数6,830人 死亡者比率17.5%)

 日本の戦後処理を象徴するかのように、現在中山寮は鉱泥の底に埋められ、共楽館は取り壊されてしまった。


秋田判決とBC級戦犯法廷で裁かれた鹿島
 敗戦後の45年9月11日、秋田地裁は、強制連行に対してやむなく決起した耿諄大隊長を初めとする12名に対し、無期懲役他の有罪判決を下した。それは敗戦国が解放国民を裁くという奇妙なものであった。

 しかしその後,強制連行・強制労働の事実が連合国に知られるところとなり、事態は逆転し、鹿島組職員、地元警察官ら9名が巣鴨プリズンに拘束され、1948年横浜BC級戦犯法廷で裁かれるのところとなった。
 鹿島組職員ら3名に絞首刑、河野正敏鹿島組花岡出張所所長に終身刑、警察官2名に20年の懲役刑が下されたが、後に絞首刑3名のうち2名は終身刑に、1名は40年の懲役刑に減刑され、それも56年までに全員が「仮」出所している。いずれにしろ、鹿島組花岡出張所は、中国人が強制連行された135事業所のうち、戦犯法廷で裁かれた数少ない事業所となった。


強制連行企業に国家補償金
 また、鹿島組など「華・鮮労務対策委員会」の10社連名による構成団体(のちに大手建設業=ゼネコンとして「高度成長」した各社)は、46年、戦時中に中国人・朝鮮人を強制連行して使役した「損害」として、「国家補償金」を得るために政府に働きかけ、商工省から金545万円、厚生省から3200万円等、総額4595万円余の交付を受けた。
 強制連行をした企業は、戦争関連事業で儲けたうえ、戦争で敗けた後も、受けられる道理があるはずもない「補償」を国からいちはやく受けているのである。


日本政府の対中国戦後処理問題の基本姿勢
 強制連行されていた北海道の明治鉱業昭和鉱業所から1945年7月末に脱出し、戦後も13年間にわたり、北海道の山地で厳しい逃避行を続けた劉連仁さんが、1958年2月に発見された。劉氏とその家族への陳謝の申し入れに、当時の愛知官房長官は、「劉連仁さんは『華北労工協会』との契約で日本に来た契約労働者だ」と開き直った。この愛知発言は、強制連行問題に関する戦後の日本政府の基本姿勢を象徴している。
 60年安保闘争の渦中の60年5月、衆議院日米安保条約特別委員会で「華人労務者就労事業報告書」(「外務省報告書」)の存在を問いただされると、伊関外務省アジア局長は「(昭和)21年3月に外務省管理局がそういう調査の作成をいたしたそうだが、戦犯問題の資料に使われると非常に多数の人々に迷惑をかけるのではないかということで全部焼却したそうだ」と答弁した。
 この安保国会の会期中、今度は岸信介首相が、中国人強制労働者に関する質問への答弁書で「戦時中の中国人労務者が国際法上捕虜に該当する者であったか否かについては、当時の詳細な事情が必ずしも判明していないのでいずれとも断定し得ない」と述べた。戦時中の商工大臣として強制連行の首謀者であった岸首相自身の、歴史の事実にすっぽり頬かむりをしたこの答弁もまた、戦後一貫して政府が堅持してきた態度であった。
 中でも、鹿島組中興の祖といわれる鹿島守之助参議院議員の1965年1月の代表質問は、特別に注目すべきものである。中国との国交回復の条件は、対日賠償請求権を放棄することだというのである。

 1972年の「日中共同声明」には、この対日賠償請求権の放棄が盛り込まれた。
(これはもちろん「民間の個人請求権を放棄した」ということではない。1975年3月7日、当時の銭其シン外相は、「共同声明が放棄したのは国家間の戦争賠償であって、個人の賠償までは含まれない」ことを認め、「民間賠償を求める国民の動きを阻止しない」という立場を明らかにした。)


幻の「外務省報告書」の発見と政府の対応
 中国人強制連行を考える会は、92年2度にわたって米国での調査活動を行った結果、多数の未発表資料を手にできた。その中の1つが「外務省報告書」の作成を決めた内部文書であった。
 それは、「本邦移入華人労務者就労事情調査ニ関スル件。昭和21年1月26日起案。2月12日決裁。外務省管理局長」と表紙に記されたもので、調査の目的を「華人労務者ニ就キ、ソノ招致ヨリ送還ニ至ルマデノ諸般ノ実情ヲ精密ニ調査シ、内外各般ノ説明資料、殊ニ近ク来朝ヲ予想セラルル中国側調査団ヘノ説明ニ備エル目的ヲモッテ概ネ別添要領ニヨリ之カ詳細調査ヲ実施致可然可哉」としている。「考える会」が提供したこの資料に基づいてNHKが調査を行った結果、「外務省報告書」を保管していた大友福夫氏が見つけだされ、93年5月17日に、NHKが「幻の外務省報告書発見」を放映して強制連行の記録が白日の下にさらされた。更に93年6月7日、参議院予算委員会で清水澄子議員の質問に答え、政府は「当時外務省がこのような調査を行ったのは事実」で、「(これが『外務省報告書』だという)蓋然性の高いもの」だと答弁せざるを得なくなった。1年以上の調査期間を経て、94年6月22日に至り、参議院外務委員会での清水議員の再質問に対して、政府は戦後49年目にしてようやく中国人強制連行と「外務省報告書」の存在を認めた。


花岡事件生存者・遺族の闘い

花岡裁判と鹿島建設との和解成立

ILOによる日本政府への勧告

 1997年12月8日、花岡裁判支援連絡会議が参加する強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワークと連携する日本の労働組合74(最終的には約230労組になった、連絡先は全造船機械労働組合関東地協)が、日本の第二次大戦中の中国人朝鮮人の強制連行が、ILO29号(強制労働の禁止)条約違反であるとして、ILOに提訴した。
 ILOはこれに対して、1999年3月、ILOの条約勧告適用専門家委員会の98年度報告において、中国人朝鮮人強制連行・強制労働を、軍隊「慰安婦」制度とともにILO29号条約違反であるとして、日本政府に対する「被害者の納得する解決をもとめる」意見・勧告を行った。以降、2001年、2002年と引き継いで日本政府の誠実な対応を求める勧告を行い続けている。
 しかし、日本政府は、二国間条約(日韓条約、日中条約)で解決済みという主張を繰り返し、誠実な対応をしようとしていない。二国間条約で解決済みという論理は日本自体がシベリア抑留日本兵の捕虜労働請求権については、「(日韓条約は)両国が外交保護権を放棄しただけで、個人の請求権まで消滅させたものではない」(91年外務省柳井条約局長)と個人補償権を認めているのであるから全くの詭弁であり、拒否する理由とはならない。