85.  (すが)秀美「革命的な、あまりに革命的な――『1968年の革命』史論――」( 作品社 2003.05.)(2004/03/14搭載)

 本書は、「1968年の革命」を中心に、日本のニューレフト運動を、思想、理論、文化、運動などの面から記述したものだが、ベ平連運動については、構造改革派コミュニストとの関係で触れている記述が大部分で、ベ平連運動それ自体についてはほとんど論じられていないといってよい。その構改派コミュニストとベ平連との関係の論述も皮相的で、以前「ベ平連への批判的文献」欄に掲載した岡留安則 vs 松岡利康『〔闘×論〕スキャンダリズムの眞相』(鹿砦社 2001年 )にある評価と共通していると言っていいだろう。以下に、ベ平連に関連した記述の部分の一部を紹介しておく。本書の定価は\3,200+税。
 著者、絓(すが)秀美さんは、1949年生まれ、文芸評論家、近畿大学国際人文科学研究所教授。「日本読書新聞』編集長、日本ジャーナリスト専門学校講師などを経て、2002年より現職。

絓秀美『革命的な、あまりに革命的な――「1968年の革命」史論』( 作品社 2003.05.)より

……今日、カルチェラル・スタディーズやポストコロニアリズムといったアカデミズム「左翼」の左翼性を保証している、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論が最初に脚光を浴びるのは、このようなコンテクストにおいてであった。それは、トリアッティひきいる当時のイタリア共産党の理論として、現実的な参照先をもって日本にも輸入された。
 日本共産党内の「構造改革派」(構改派)と呼ばれるソ連派を含む諸グループがそれである。そこには戦前からのコミュニストのみならず、いいだもも、武藤一羊、吉川勇一といった戦後派も含まれていた。彼らは六〇年代において、『何でも見てやろう』(一九六一年)のベストセラーで知られていた作家・小田実を象徴的存在とするべ平連(「ベトナムに平和を! 市民連合」、当初は「市民文化団体連合」を担い、六人年の一端にコミットすることになるだろう。……
 ……六八年革命時において、構改派は、俗に「コウカイ(後悔=構改)先に立たず」(理論的にもデモにも、いつも遅れてやってくるの意)と言われ、日和見主義の代名詞としてあったといってよい。それは潜在的には、スターリン批判とハンガリー革命に対して、あいまいな対応しかできなかったインテリゲンツィアに対する侮蔑を意味していた。構改派は共産党内の知識人グループを代表してもいたからである。鶴見俊輔、小田実、久野収といった非コミュニスト系の知識人は、べ平連の実質を担う構改派系知識人の、「大衆向け」の隠れミノと見なされたとさえ言える。……(
1718ページ)

……六〇年安保後から六八年へといたるまでのあいだ、少なくとも三派全学連等による六七年一〇・八 羽田闘争までは、ニューレフトの混迷・模索期であったといわれる。そして、そのなかから、六八年 革命が立ち上がってくる。……
 ……日共内構造改革派も、六〇年代初頭の党からの除名を経て幾つかのセクトを形成し、その多くの部分はニューレフト運動に参入していく。世界的なヴェトナム反戦運動と連動して、小田実、鶴見俊輔らべ平連(一九六五年八月結成)の動きも活発化しつつあった。べ平連には多くの知識人も参画し、六八年におけるニューレフトの大衆的なヘゲモニー形成に寄与したといえよう。……(
93ページ)

 ……全共闘運動で掲げられた「戦後民主主義批判」なるスローガンは、今日にいたるまで、その概念が曖昧にされてきたのみならず、その曖昧さゆえにもはや思想的には顧みられることの少ないものとなり果てている。多くの場合、それは社共・旧左翼の「欺瞞的な」民主主義に対して「真正の」民主主義を求めることと捉えられてきた。しかし果たして、そのような理解で「戦後民主主義批判」の内実は汲み尽くされるのだろうか。これは、今日、六八年を直接に体験していない若い左派系論客の多く(過半はカルチュラル・レフトといいうる)が、戦後民主主義への回帰を標模している今日、重要な論点である。……
 ……しかし、社共ら旧左翼の欺瞞性ということであれば、それはすでに六〇年安保において明らかになっていたことであり、六八年的な課題とは言いがたかったはずである。そして、もしそのようなレヴェルで全共闘の「戦後民主主義批判」を捉えるのであれば、憲法九条に象徴される反戦平和主義それ自体への批判は不可能であり、ニューレフトは実質的には旧左翼と同一化してゆくほかはないだろう。……
 ……「欺瞞的」反戦平和主義に対して、「真正の」それを掲げるムーヴメントとして、六八年時において大衆的な支持を得ていたものに、作家・小田実らのべ平連がある。実際、べ平連は六八年革命にあってはニューレフト・アクティヴィストの予備軍をプールし養成する機関でもあった。べ平連から出発して六八年のアクティヴィストとなつた多くの活動家の存在に徴せば、全共闘の「戦後民主主義批判」とは真正の反戦平和主義=民主主義を求めるものであり、実態として、戦後憲法の実質化を求めることに収斂されていくほかはない思想ということになろう。
 たとえば、学生時代には六八年革命に天沢退二郎と北川透へのシンパシーをもって「詩的」にコミットした加藤典洋が、後に鶴見俊輔(いうまでもなく、べ平連の中心メンバーの一人)に親しく接することで、戦後憲法の「価値観を否定できない」(『敗戟後論』)とする立場へと旋回してゆくことも、そのことをあかしているのかもしれない。……(
224225ページ)

 ……また、一九七一年三月には関西部落研(後述)がべ平連の指導的人格であった小田実の長編小説『冷え物』の差別表現を糾弾したことを契機に、べ平連内でも若年層からの年長インテリゲンツィアたちへの批判が激しくなっていく。学生べ平連は七・七以前から入管闘争=反差別闘争を担った有力部分であったが、ヴェトナム戦争の終結を控えて、彼らの運動もそちらの方にシフトしていくことになる。これらは、六八年革命の世界的傾向に連なる必然的な転換であると同時に、日本のニューレフトが敢行しなければならなかった「去勢」にほかならない。あるいは逆に、六八年革命のアクティヴィストたちが「他者」を見いだし、また自らも「他者」となること、すなわち、社会に刻み込まれた多数多様な「襞」として自らが生成変化する「偉大な時」が七・七であったと言えよう。しかしそこには、今なお宙吊りのままに残されているところの、さまざまに問われるべき問題も存在している。……(317ページ)

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