10/22 「横山好夫さんを偲ぶ会」が開かれた

 10月22日夜、東京で4月末に突然事故死された横山好夫さんを偲ぶ会が開かれた。彼の所属した全石油ゼネラル石油労組はじめ石油3単組や彼が関わった『労働情報』や10月会議のメンバーなど友人たちと洋子夫人など70人ほど集まった。
  偲ぶ会と同時に追悼集も発行され、その呼びかけ人を代表して元『労働情報』編集人の樋口篤三さんが、日本で初めて発生源企業の労働者が公害を告発した1970年に始まったゼネ石闘争の歴史的な意義を話した。またベトナム戦争反対や三里塚闘争など政治的な闘争に積極的に関わったことも高く評価した。そして、若い世代が担ったゼネ石闘争は新しい反独占の闘争として70年代以降日本の労働運動に大きな影響を与えたと指摘した。
  横山さんと一緒に闘った多くの人が彼について発言した。横山好夫さんは常に冷静であり、時に激しい情熱で闘ったが、仲間たちには優しく温かであったと多くの人が語った。多くの人が彼から多くのことを学び、勇気付けられたと話した。最後の挨拶で元東京東部労組委員長の足立実氏は「彼は決して死んではいない。ここにいる皆が横山さんの理念と闘いを語り続ける限り、彼は生きている」と結んだ。(高幣真公)

  * 追悼集『追悼・横山好夫』(72頁)をご購入ください。頒価1,000円、申込先:電話047-467-1925、FAX 047-467-1966 Eメール takaheim@jca.apc.org)

 横山好夫さんを偲ぶ会のご案内

 横山好夫さんが4月27日に急逝してから、早5ヶ月近く経ちました。5月1日にご家族・親族による密葬が、5月15日には勤め先だったゼネラル石油の同僚や退職後に横山さんが取り組んできたボランティア活動の大勢の仲間たちに見送られて「お別れ会」が行われました。
 横山さんは全石油ゼネラル石油労組の事務局長として、解雇撤回闘争や第2組合との闘いをやり遂げるかたわら、全国労働運動活動家会議(全労活)、全国労働組合会議(全国労組連)の事務局を担い、「季刊労働運動」や「労働情報」の編集長を歴任し、退職後も「協同センター労働情報」と「日中労働者交流協会」などの監査役を続けました。また横山さんの活動領域は三里塚闘争から反公害闘争、反戦平和の闘いに至るまで広範にわたりました。
 今回、横山さんが30数年にわたり関わりと交流のあった多くの人々にお集まりいただき、横山さんの往時を偲ぶ会を開催したいと考え、僭越ながら下記の7名が呼びかけ人となり、ご案内させていただきました。
 また、偲ぶ会までに彼が書いた論文や紀行文・エッセイなどの中から一部を収録し、仲間たちによる追悼文を添えて文集を作成し、当日皆様に配布します。横山好夫さんを偲ぶ会へご出席を心からお願い申し上げます。

2004年9月17日
<呼び掛け人>樋口篤三、足立実、前田裕晤、林充孝、渡辺勉、大崎二三男、高幣真公

横山好夫さんを偲ぶ会
日時 2004年10月22日(金)午後6時〜9時
場所 ホテル・ラングウッド(JR日暮里駅前 TEL 03-3803-1234)
会費 7000円(追悼文集代込み)

事務連絡先  〒274-0063 千葉県船橋市習志野台6-7-2-408 高幣真公
TEL 047-467-1925 FAX 047-467-1966 eメールtakaheim@jca.apc.org

<追悼集掲載予定の横山好夫プロフィール(抜粋)>
横山好夫の横顔を、『現代人物辞典』(朝日新聞社刊、1977年)から紹介する。執筆は作家の鎌田慧氏である。ここでは、1965年の組合結成から1970年の争議の敗北までが取り扱われている。鎌田氏の人物紹介に含まれていない部分は、佐藤克彦氏(元ゼネラル石油労組委員長)による闘争史を掲載する。

横山好夫(よこやま・よしお)
全国石油産業労働組合協議会(全石油)ゼネラル石油精製労働組合本部事務局長。1940(昭和15)年3月24日東京生まれ。58年東工大付属工業高校卒業後ゼネラル物産入社、のち石油精製部門の別会社ゼネラル石油精製に移る。70年7月、ゼネラル石油精製川崎・堺製油所とともに突入した全面ストライキは、当時新聞では「反公害スト」として報道されたものだが、そのもつ意味はそれだけにとどまらない。60年、65年にそれぞれ操業を開始した近代的合理化工場に働く若い労働者を中心に結成された同労組は、結成直後から要員闘争と職場の安全闘争をからませながら展開してきた。70年2月の四エチル鉛混入現場の火災事故を契機に職場と工場外との安全性をめぐる問題を提起し、「公害追放」「加鉛ガソリン追放」のスローガンをかかげ横山を含む5人の解雇にもめげず企業の経営方針そのものと対決したことにも大きな意味があった。この長期ストそのものは「完敗」し、職場の多数は第二組合に移ったが、横山らはその後も百花繚乱的に新聞を発行、地域住民の要求も入れて闘っている。同じく解雇された小野木祥之との共著『公害発生源労働者の告発』(71年)がある。(鎌田慧)

<全石油ゼネラル石油精製労働組合闘争史>
1961年 従業員会結成。
1965年 正式に労働組合が結成される。
1967年 石油産業の労働組合連合体である全石油(中立労連)に加盟。
1968年 春闘で堺製油所の72時間火止めストを行う。同時に、川崎、堺両製油所の装置新設計画に対し要員要求を提出。
1969年に入り、各職場ごとに職場闘争を展開、また反戦反安保闘争への取り組みも強める。
1970年2月、川崎製油所で四エチル鉛火災発生。川崎支部は、会社のおざなりな安全対策を批判、組合要求を提出して闘争に入る。
1970年5月、「安全教育を妨害した」として当時川崎支部長であった横山好夫が懲戒解雇される。川崎、堺で不当解雇への抗議行動。
1970年6月、第2次大量処分(解雇4名、出勤停止10名)。これらの処分に対して、7月、堺製油所全面ストライキに突入。8月、会社がロックアウト攻撃、「第2組合」のでっち上げ。連日、執拗な切り崩し攻撃が加えられる。
1970年9月2日、組合の全面敗北で「就労協定」(1年間の平和協定、分割就労、不当配転)を結ぶ。
1971年、春闘で赤腕章着用、反撃開始。これに対し会社より第3次処分(解雇4名)が行われた。横山、労組本部事務局長に就任、争議解決まで継続。地域の労働者とともに、「京労会」(公害と闘う京浜労働者会議)を結成し、中心的活動をになう。
1972年 沖縄闘争で2名不当逮捕(半年後解雇)。同年、川崎で四アルキル鉛・有機溶剤中毒闘争開始(75年に業務上認定勝ち取る)。
1974年から、毎年、春闘時ピケストで闘う。
1976年末から和解交渉開始される。
78年2月、和解協定調印(全員の解雇撤回・復職、不当配転撤回など)横山、職場復帰。

<全石油ゼネラル石油労組の「行動規範」と「組合綱領」>
綱  領
われらはつぎの合言葉で組合の旗の下に団結する。
一 「能力」による労働者管理に反対し、お互いに競争しない。
一人ひとり、すべての仲間のためになるかどうかを、職場で常に判断しながら行動する。
二 労働者の連帯を強め、農民、漁民の闘いにも触れて、支援に努める。より多くの人たちと知り合い、そのきずなを全世界に押し広げていく。
三 あらゆる差別を生みだす風土を憎み、その変革を非差別者とともに目ざす。質素な中に健康で創造的な生活を打立てる。四 国家および資本の名による一切の侵略と抑圧に反対し、労働者人民が主体となる社会編成を追求する。

行動規範
@ 天下国家を論じよう A よく学びよく識ろう B 外へ出よう、すすんで語ろう C いかなる差別もするな、許すな D 互いに助け合い、批判し合おう E 他者のための活動を F 心に赤腕章を G 質素であれ