APFS子ども会議報告

 8月27日浜松町の船員会館にて「APFS子ども会議」を開催しました。
 これは6月30日に在留特別許可が不許可になり収容されている3家族の父親たち、2月2日に不許可となり半年以上収容されているビルマ人Mさんの仮放免が1日も早く認められことを訴えると共に、超過滞在の子どもの現状を同世代の子どもたちに広く伝え、理解してもらうことを目的にAPFSのメンバーの子弟が中心になって開いたものです。
 当日は6月30日に在留特別許可が不許可になった2家族の長女や7月12、13日に出頭した子どもたちを中心に外国籍の子どもたち13名が参加しました。
 会議はそれぞれの自己紹介から始まり、日本の学校では外国人というだけでどうしても他の人より目立ってしまい「ワル」と思われ、ずっとイヤだったといった日常の不自由さや、国へ帰ることができないので母語を覚えるチャンスがないのがとても悔しい、もし在留特別許可が認められ母国と行き来できるようになったら、母語を学び、通訳になって日本と母国の交流に役立ちたいといったそれぞれの将来の夢など、活発な意見が交わされました。
 また、2月の裁決によって同じような境遇の子どもたちに在留特別許可が認められたことで自分たちにも希望が出てきたことはうれしいけれども、日本に住んでいる期間はさほど変わらないのに子どもの年齢が一つか二つ違ったことで在留特別許可が認められた家族と、認められなかった家族がいるのはとても不平等で納得がいかないとの声が多く寄せられました。さらには、日本人は景気の良いときには外国人の受け入れをだまって認めていたのに、不景気になると追い出そうとするのは差別だと思うし、自分勝手だといった声や超過滞在は悪いことだけど、どんな人でも人権が尊重されるべきだから、超過滞在外国人の人権を尊重するような策を望む声、超過滞在外国人が合法化されるような法律を作ってほしいなど、率直な意見も寄せられていました。
 残念ながら事前の準備不足のため、日本人の子どもの参加は引率者の大人を含めて4名となってしまいましたが、超過滞在の子どもたちそれぞれの思いに耳を傾けていました。
 会議の後半では、参加者の中で学齢前の2人をのぞいた小学5年生から高校3年生までの11名が「法務大臣様」宛てにそれぞれの思いを手紙に書き、翌28日の申し入れの際に提出しました。
 この日は翌28日の法務省前行動があったため、大半の子どもたちはそのまま宿泊。「もっと良いホテルに泊めてくれ」などと冗談まじりの不満の声もあったものの「学校の林間学校のようにあれダメ、これダメを言われないからラク」と夏休み最後の週末を修学旅行気分で楽しんでいました。普段は同世代の日本人か、日本に住む同国人の友人としか接する機会のない子たちですが、年齢や国籍がバラバラでも、違和感なく交流し、親交を深め合えたことも大きな収穫だったようです。

<子ども会議の発言の一部>

私たちのことをもっと知ってほしい!

 私は、7歳のときに日本に来ました。小学校にはいる年でしたが、近所の人に日本語の読み書きを教えてもらう程度で学校には行かせてもらえませんでした。それは、母が日本の学校に行ってしまうと、私が日本の生活に慣れてしまい、イランに戻れなくなると心配し、反対したためです。でも、近所の人たちが「学校に行かせたほうがいいよ」と言ってくれ、3年生から日本の小学校に通わせてもらいました。最初は、足算も掛算もできなくて苦労しましたが、いまは普通の中学生と同じ学力があります。高校は学区でもちょっとレベルの高い高校を志望しています。
 でも(母国語である)ペルシャ語はあまりうまくありません。私の出身地は、トルコ語なのですが、なんとなく聞けばわかるけど、話せない。ずっと日本に住み、「不法滞在」だから、国に帰れないので母語を覚える機会がまったくなかったためです。それがとても悔しいです。家族みんなで自分の国と行き来できるようになったら、母語を勉強し、通訳になって日本とイランの交流の役に立ちたいです。今は、私は本国でのことを忘れてしまっていることも多いのですが、自分の国に帰り、国の人たちと心が通いはじめれば、ちゃんと思い出せるようになれると思っています。日本とイランだけではなく、いろいろな国へ行って、いろいろなことを学びたいです。
 日本人は私たちのことをあまり知りません。こういう子どもたちの存在を多くの人にもっと知ってほしい。この間、あるテレビの取材を受けましたが、私は自分の顔を出してほしいとテレビの人に頼みました。友達はそれを見て、(「不法滞在」を知り)みんな驚いていました。身近にそういう外国人がいるとは思ってもいなかったそうです。私への見方が変わったという友だちもいました。
 でも、私はいろいろなことを主張して、知ってほしいと思います。知らないと何も変わらないと思うからです。たしかにいけないことをしているけど、人権はだれにでもあるので、それを認めてほしいです。 

             (イラン国籍・中3女子)

外国人というだけで「ワル」と見られるのがイヤだった

 ぼくは小学校4年で日本に来ました。最初は日本語がわかりませんでしたが、ブラジル人の友だちが通訳をしてくれたおかげで、覚えることができました。
 学校では勉強をまじめにやっていると思います。でも、いつも悪い風に見られていました。日本の学校では外国人はどうしても目立ってしまい、先生たちからも「ワル」と見られてずっとイヤだと思っていました。
 今は高校で建築を勉強しています。学校では仲の良い友だちもできたし、友達も「このまま日本に残っているほうがいいよ」といってくれています。ぼく自身も日本の生活に慣れていますし、このまま日本にいたいです。
 せっかく始めた建築の勉強を卒業まで続けて、卒業後は大工になり、将来は親に楽をさせたいです。

(コロンビア国籍・高1男子)

このまま日本で勉強を続けたい!

 私は8歳のときに日本に来ました。最初は、日本語がわからなかったのでたいへんだったけど、隣のお姉さんが日本語を教えてくれました。最初はビザがないので、学校には入れないと思い、学校にはいっていませんでした。日本語を教えてくれていたお姉さんが、日本の学校に行ったらいいんじゃないと言ってくれ、学校に行けるようになりました。
5年生のはじめから学校へ行って、勉強をしています。友達がみんな仲良くしてくれるのでうれしいです。漢字はあまりとくいじゃないけど、日本で勉強をしていきたいです。

(バングラデシュ国籍・小6女子)

日本と世界中の国とが仲良くなるために役立つ人になりたい

 親の事情で日本に5才できました。6才で保育園に入りました。小学校に入って3年生くらいのとき、母方の祖父母が死んでしまったのですが、イランに帰ったら二度と戻れないと聞いてなんでかなと不思議に思っていました。5〜6年で父方の祖父母がなくなってそのときも、なんでうちは帰らないの? 祖父母の葬式にも出られないのはなぜだろうと悲しくてたまりませんでした。死んだという電話のとき、泣いている親を見るとよけいに悲しくなりました。中学に入って、いろいろなことを勉強し、「不法滞在」だから帰れないとわかったときには、ショックでした。イランには帰りたいけど、ここで帰ったら、イランでは小学1年生に戻らなくてはならないのがいやだった。
 日本人は外国人を人間として扱っているのかなと思います。景気の良いときに外国人を国に入れて景気悪いと追い出そうとするのは自分勝手だと思う。もし、ビザがもらえたらペルシャ語をきちんと勉強して、イランのことも勉強して通訳になりたい。日本と世界中の国の仲をふかめてほしいし、そういったことに役立つ人になりたいです。

(イラン国籍・中2女子)

「不法滞在」なのでやりたいことを

すべて捨てざるを得ませんでした

 小学3年生のとき日本に来て、ずっと日本で生活しています。長い間日本にいて、すっかり日本の生活に慣れています。出歩くとき、すごく安全感を感じる町だと思いました。日本に来る前、体が弱くてあまり外を出歩いたことのない私にとっては(母国である)中国上海は本当に知らない町です。
 私の友だちはすべて日本で知り合い、みんな私にすごく良くしてくれて、力になってくれました。日本での10年間は、みんながいてくれたからこそやってこれました。私はみんなと離れ離れになりたくないと思っています。
 私はもう高校3年生になりました。日本の大学で勉強したいと思いますが「不法滞在」のままで、何をやっていけるんだろうと不安です。今までやりたい事はすべて「不法滞在」という理由で捨てざるを得なかった。私はやりたいことをしたいです。夢を捨てたくないと思い、父と一緒に入管に出頭しました。在留特別許可を認めてもらったら、夢に向かって堂々と歩き出せます。  

(中国国籍・高3女子)


<法務大臣にあてた手紙>

 法務大臣様へ

 私は6月30日にビザがもらえるか、もらえないかの答えをもらいました。
 私と私と同じ年の子と、1才と3才の子のいる家族がビザをもらえませんでした。
 なので、お父さんが収容所に入ってしまいました。
 私は本当にショックでした。お父さんなしではちゃんとした生活ができません。
 私は今すぐビザがほしいのではなく、とにかくお父さんが出てきて、いっしょにビザがもらえるまでがんばりたいです。なので仮放免をみとめて、お父さんを出してください。
 法務大臣様、よろしくお願いします。

 保岡法務大臣様
(前略)
「(在留特別許可を)みとめられません」といわれたとき、私は何がなんだかわからないような感じで、ボーゼンとしてしまいました。私はビザがもらえなかったことも信じられなかったけど、本当にお父さんが収容されると聞いたときのほうがよっぽど信じられませんでした。だって、お父さんは何も悪いことをしていないのに、ただ、ビザをもらって家族全員でしあわせに日本で暮らしたいだけなのに収容されるなんて、信じられませんでした。私は涙が止まりませんでした。
 妹はお父さんがいないのでおちつかなくていつも泣いてばっかりいます。
 私も今では勉強する気分はありません。
 面会をする時、お母さんは私に「お父さんに涙見せちゃダメだよ」と言いました。
 お父さんと話している時、私は涙があふれて来て今にもこぼれそうだったけど、なんとかこらえました。私はお父さんがうる目になっているのをきがつきました。
「みとめられません」の一言が私の家ぞくの人生をかえたのです。
 しつこいと思うかもしれませんが、もう一度、おねがいします。どうかお父さんのかりほうめんをみとめてあげてください。おねがいします。

(6月30日 在留特別許可が不許可になった二家族の長女が書いた手紙の一部。8月28日 APFSの代表者が法務省入国管理局へ提出)

在留特別許可一斉行動の詳細はこちらへ


■ □ ■ 相談の現場から ■ □ ■
労働相談担当者より会員の皆さんへ


 
 会員の皆さんから受ける労働相談は、大別して3つあります。
1 まずは労災。 これは就業中や通勤途中でケガをしたり、仕事が原因で病気になったりした場合、原則として治療費や休業保障を請求できるというものです。これについては、会社の協力を得られなくても、ケガや病気の事実があれが、基本的には解決できます。ただ問題点は時間がかかることです。お金が支給されるまでどうしても数ヵ月はかかります。中には半年以上かかったケースもありました。労災の相談にきた会員のうち、殆どの人が働くことができずに生活に困っていますから、こちらとしても何とか早く解決したいのですが、現実にはなかなか難しいです。人道的な立場からも、非協力的な経営者や一部の労働基準監督署職員に対しては、徹底的に抗議して彼らの意識を少しづつでも変えていく努力をしたいと考えています。
2 次に、不当な解雇や賃金未払いなどです。この場合は、まず社長と交渉します。交渉が決裂した場合は裁判などの手段をとるわけですが、そうなるとやはり時間がかかってしまいます。あまり時間をかけたくない人は、条件的にもある程度妥協をして交渉をうまくまとめるほうが有利な場合もあるでしょう。会社と争う時に一番大切なのは、皆さんも我々スタッフと一緒にたたかって欲しいということです。「もし警察が来たら怖い」「社長はやくざみたいだから怖い」などの理由で交渉の場へ行きたがらない人がいますが、それではお話になりません。まずは皆さん自身が、横暴な経営者とたたかう姿勢を持たねばならないのです。そうでなければ、本当の意味での権利をかちとったことにはならないのです。
3 最後に、税金問題や経営者からの暴行など、前記以外のもろもろのケースです。これらのケースは、多岐にわたっているので、いちがいには言えませんが、中には警察に相談するしかない場合や、日本の法律ではどうしようもない場合もあり、残念ながら解決不可能なものも多いのです。そうした時でも、出来る限りのアドバイスはしたいと思っていますので、困っていることがあれば、とりあえず相談してみてください。

 

 


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