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アフガンで起きている本当のこと

中村哲さん
[医師/ペシャワール会現地代表]

飢餓で死に瀕する人々に
とどめさすことになる

 ペシャワール会は、約18年間、アフガニスタン現地の医療活動に関わっていますが、文字通り超党派で、支援してくれる人の中には、右翼から左翼まで色々な人がいます。今日の話は、むしろ、保守系の党の人に聞いてもらいたい。私は、まったくの政治オンチで政党の名前もよく知りませんので(笑)、その辺はひとつご了解ください。政治的な発言は避け、現地の実情をなるべく正確に伝えたいと思います。

アフガニスタンは山の国

 84年、パキスタン北西部の辺境ペシャワールに会の拠点となる病院を置きました。現在、70床あるこの基地病院を基点に、アフガニスタン側に八カ所、パキスタン側に2カ所の合計10カ所の診療所を併せて運営しています。現地スタッフは、医療職員だけで252名、そのうち日本人ワーカーが5名おります。昨年8月から干ばつに対して、医療活動の一環として水源(井戸・用水路)1000本を確保をすべく活動している水源プロジェクトの職員が74名、作業員を入れると約700名で進行しています。会の年間の運営費は約1億円、そのうち85%が4000人の会員からの会費、募金によるものです。集められた1億円近くのお金の95%以上が現地プロジェクトに使われます。会は専従のいないボランティア団体ですので、ほとんど手弁当で事務局を形成しています。
 決して他の組織を悪く言うつもりはありませんが、組織が大きくなるとどうしても組織のメンテナンスに金がかかります。ある国連の団体は9割が職員の給与に使われるという状態で、残りの1割の中から、ジュネーブに行く費用などを引きますと、寄付が現地に届くのは数パーセント以下、ということが珍しくない。私たちの会について、ODAのように額は大きくなくても、一桁倍する力を民間でも発揮できるという例を皆さんにお伝えしようと思います。
 現在、カイバル峠の麓、国境の町のペシャワールを拠点に、アフガニスタンの診療所、ヌーリスタン、ダラエ・ピーチ、ダラエ・ヌールの三カ所に診療所を運営しています。
 現在カーブル(カブール)は巨大な無医地区になっています。人口百数十万、あるいは200万人と言われる街が、干ばつ難民で埋め尽くされていて、カーブル市民といっても、裕福な層は外国に逃げて行っています。ですから今カブルに残っているのは国に帰ることもできないような避難民です。首都である100万都市が、無医地区に近い状態なのです。
 会では急遽、今年の2月から5カ所の診療所を運営しています。私は、アメリカのテロ事件が発生する直前までカーブルにいまして、財政の許す限り診療所の開設をやれといって、診療所を10カ所に増やし、来年はさらに増やす計画に携わっていました。そんな時にテロ時間が発生しましたが、今、5カ所のカーブル診療所と3カ所の東側の山岳地帯の診療所は平常通り運営しております。あまり公にはできませんが、カーブルとジャララバードでも現地のスタッフは平静に診療を続けています。
 アフガニスタンというのは日本の方々にあまり知られていない国の一つだと思います。アフガニスタンは、広大な山岳地帯で、面積は日本の約一・七倍、人口は2400万人と言われていますが、正確な数字は誰も知りません。1000万人という説もあります。そのあたりはいい加減といえばいい加減です。地理的にはパミール高原を中心にして東に延びるヒマラヤ山脈、西に延びるカラコルム・ヒンズークシュ山脈にあたるところで、この7000メートル級のヒンズークシュ山が国の真ん中に座っている。アフガニスタンは山の国と言えますが、とてつもない規模の山でして、日本列島がすっぽり入る山です。
 余談ですが、私は元来山登りが趣味で、アフガニスタンへはヒンズークシュ山脈遠征隊の隊員として20数年前に訪れたのが初めてでした。ともかく交通網もそうですが、山がある故に割拠性が非常に強い。私たちは山間の谷を歩いたり、馬に乗ったりして一番遠い診療所へは片道一週間かけて行きます。タリバン側が交渉を引き延ばしているというニュースが伝えられましたが、アフガニスタン全土から代表者を歩いて1週間、馬で3日はかかりますから、日本では一日で済むことも、無効では2、3週間かかることは普通です。時間の流れが違うといっていいでしょう。

地域によっては我々と数世紀の差

 住民のほぼ100%といっていいほどがイスラム教徒です。イスラムというのはある種の国際主義の色彩を帯びていて、たいていは国家的価値より宗教的価値のほうが優先するのです。しかもアフガニスタンは、世界で最も古風なイスラム社会が存在していて、各地域を底辺から支えているのはモスクです。金曜日になると、モスクで説教を聞く。色々な意味で、モスクは地域の共同体の中心です。だからといって彼らが、他の宗教の人を追い出すかというとそうではなくて、邪魔しない限り攻撃はしません。
 例えば、私は、ハンセン病の仕事に携わっていますが、ハンセン病の人が村で迫害されるときにどうするかというと、国に訴えたり、法律上の人権を主張するわけではないのです。私は金曜日にモスクに出かけて行きまして、みんなに呼び掛けました。ハンセン病への迫害はイスラムの教えに反するのではないか、みんなでハンセン病の人たちを大事に扱いましょう、と。
 決して力や政治で押しつけるのではなく、宗教的、人間的な気持ちに訴えて迫害を無くすことをしています。私自身はイスラム教徒ではなくてキリスト教徒です。キリスト教徒がモスクに行って話をすることも可能な社会です。
 外国人がアフガニスタンを見た、パキスタンを見たといっても、所詮点と線です。旅行者、あるいは失礼ですが新聞社が伝える情報は、庶民にとっては雲の上の情報で、庶民は国連機に乗って移動するわけではありませんし、偉い人と会って記者会見するわけではない。地域によっては、ラクダの隊商も見られます。流通の末端地区を握っているのはラクダの隊商です。これはシルクロードの昔から変わっていません。
 私たち医療関係者の立場から言うと、医療は人間を相手にする仕事ですから、相手の患者さんが何を考えているのか、どういうことが嬉しいのか、どういうことで怒るのか、悲しいのかということを知らずに診療活動はできません。地域によっては我々とは数世紀の開きがあるなかで、患者さんの考えていることを理解するのは非常に根気と時間がいるという社会です。
 一般的なことですが、アフガニスタンは、貧富の差が甚だしい。ジャーナリストの方には申し訳ないのですが、いきなり1週間の予定で現地に飛んで、情報を集めて外電で送ったって、まず実状は伝わらないでしょう。貧しい階層と一握りの指導的な階層、あるいは裕福な階層と極端に天地の差があります。それはますます拡大しています。医師の立場から言いますと、日本で行われるような医療を現地に持ち込んでも人々にはとてもお金が払えない。ちなみにうちの現地職員である門衛の給与の初任給が、月約7000円。これは、現地の物価も安いのでそのまま比較はできませんが、外国に逃げていくような金はない、まともな医療は受けられないのが実状です。私たちが気を配るのはいかに少ないお金で、いかに多くの人に恩恵を及ぼすかということです。日本から新しい技術を持って行けば持って行くほどそれだけお金のかかる医療になりますから、ますます医療の恩恵にあずかる人とあずかれない人の差が開くというのが現状です。我々の対象は貧民ですから、それに合った技術、やり方を模索せざるを得ない社会です。

その地域から逃れられない人のために

 私が現地に赴任したのは84年4月のことです。私たちの出発点は、ハンセン病根絶のための、ハンセン病コントロールセンターを充実させてくれという要求に応えたものでした。行ってみてびっくりしたのは、当時登録されていた患者2400名に対し、病床数がわずか16床。その後患者が増えまして、現在約7000名、最終的には2万名に達するであろうと思われます。医療用具もほんの少ししかなく、消毒をどうやったかというと、オーブントースターにガーゼを詰めた金属製のボールを入れて中に入れ、煙が出始めたらぱっと出す。きつね色に焦げているのは消毒済み、白いのは未消毒という見分け方をしました。そういう状態から始まって、物や金も大切だということで、ペシャワール会の活動もにわかに活発になってきました。
 現在では、うちの診療所に送りさえすれば何とかなるというというところまではきました。ハンセン病の治療は色々な局面がありまして、ただ単に薬を与えるということではなく、麻痺した手足を動かす手術や失明のケア、整形外科、形成外科、神経病学、皮膚科学という色々な分野が一緒になってできた一つの総合医学です。北西辺境州とアフガニスタン全土で、ハンセン病治療ができるまともな施設はうちの診療所1軒だけです。そのため登録している七千名の患者の大きな後ろ盾になっています。
 私たちは医療団体で医療活動をしているのですが、実際の活動は一見医療とは関係ないことに注がれてきました。その一つに、現地の文化が日本と見るもの、聞くことが随分違うわけで、これをいかに理解するかということです。私たちが対象とする患者さんは、ほとんどの人がその地域社会から逃れられずに、逃れたくても逃れるお金もなく、あるいは、地域社会に安住している人たちなのです。この人たちがその地域のなかで、いかにより幸せな気持ちで暮らしていけるかを考えないと本当の医療はできないんです。
 ここに私たちと、色々な外国からくる団体との相違がありまして、外国の団体に一番多いのは、女性にブルカというかぶり物をさせる習慣に対する反応です。
 これはハンセン病のコントロールの面からみても障害なんです。ハンセン病の初期症状は背中やお尻などの皮膚に表れますので、チェックする必要があるのですが、現地では女性の素肌を見るのは非常に失礼にあたるのです。
 ちなみに、日本で言うところのセクハラ、女性に対するいたずらや婦女暴行は死罪です。それも警察に頼るのではなく地域の慣習法によります。もしこの国会が一つの村だとしたら、国会で殺人事件が起きてそれを目撃した議員さんが犯人を射殺してもそれは黙認される社会なのです。しかしこれには厳格なルールがありまして、わけもなく人を殺したら住民の制裁による処罰を受ける。いわゆる法治国家ではないのです。しかし、そういった厳格な慣習法が犯罪や暴力の抑止力となっています。
 さて、女性がブルカをかぶるという習慣が世界で問題視されていますが、確かに自由であるというのはいいのですが、外国の団体の中にはこれを許すべからざる人権侵害であるといって、現地でトラブルを起こす人がいます。ある場合には追放になり、逮捕され、彼らが自分の国に送還されると、ロンドンやニューヨークで凱旋将軍のように迎えられヒーローになります。しかし、私たち医師の立場から言いますと、じゃぁこの人たちを連れて行ってください、最後まで面倒をみてください、と思わざるを得ないのです。
あなた方は自分の考えを主張できて満足するだろうけれど、私たちが対象とする患者さんをどうしてくれるんだ。私たちは、ここから逃れられない患者さんがその社会のなかでより幸せな状態になるにはどうしたらいいかという実際の面を考えざるを得ないのです。私たちは長いスタンスで活動していますので、外国人に荒らされたくない。現地の人も似たような気持ちであろうと思います。人権団体が入ってくる。軍隊が入ってくる。ソ連軍が入ってきて、アメリカ軍が入ってきて、ロシアが武器援助をする。アフガニスタンは外国人によって踏み荒らされたものであるという、攘夷論がアフガニスタン全体を民衆レベルで支配しているというのが事実です。
 ただ、こればかりは外人部隊に頼らざるを得ないのですが、ペシャワール会からこの10数年間の間にのべ20名前後の女性ワーカーが現地に赴きました。もちろん現地社会は女性にとってはヤワなものではない。言葉は悪いけれども、女子どもがうろうろするところではないのです。しかし、11年もいる強者もおりまして、彼女らの存在によって、それまでの考えられないような女性への診療の質の悪さが随分改善されました。これは我々がした仕事のうちで一番いい仕事の一つではなかったかと思っています。

ハンセン病治療だけでは間に合わない

 アフガニスタンは、1979年12月に、当時アジア最強、世界最強といわれたソ連軍が、ときの共産党政権を守るという理由で、大挙して押し寄せました。結果、この内戦で死亡した者は、戦闘員だけで数10万名、非戦闘員を入れると200万名はくだらないだろうと言われています。難民になって国外に流失したのはパキスタンだけで約300万名。ペシャワール周辺の北西辺境州に流出したのです。あとの200万名がイラン側に逃れ、合計約500から600万名が難民になって国の人口の半分が流出、アフガニスタンは壊滅的な打撃を受けました。
 私たちも医療の立場から自然とこれに巻き込まれていったわけですが、私たちが目にした光景は鬼気迫るものがありました。国境地帯に辿り着いた数百名家族が、冬は非常に寒いですから、一晩のうちに凍死してしまうこともありました。約1000人が一夜にして凍死するのです。
 我々は、初めは難民キャンプで細々と医療と医療活動をしていましたが、とても間尺に合わない。ペシャワール側でじっと患者を待っていてはだめだということに思い至り、方向転換しました。ペシャワールに逃れてくる難民はやがて帰って行くべき人たちであって、一時的な存在なのです。ハンセン病というのは非常に時間のかかる、数10年という時間のかかる仕事ですから、長い目で見ると難民が帰った後のことも射程に入れて考えなければならない。
 しかもハンセン病だけ診る診療は現地では成り立たない。ハンセン病というのは他の感染症と比べて非常に少ない病気なのです。そのために膨大なエネルギーを費やすことはできない。片やマラリアで死にかけているのに、あなたはハンセン病でないから診ないというわけにはいかない。しかもハンセン病の多い地区というのは、一般の感染症、腸チフス、結核、マラリア、デング熱というありとあらゆる感染症の巣窟なのです。我々は将来的にはアフガニスタンの山村の無医地区に一般診療所を開設して長く存在したい。ハンセン病は色々な感染症の1つとしてさりげなく診る、偏見も避けるという戦略を立てました。
 当時内戦が激烈な時期で、とてものこのこと診療にきましたなどと入れる状態ではなかったのです。我々はまず、ペシャワール側で人育てをしながら、やがてソ連軍が帰るだろうとふんで、地域の調査を始めました。人口はどれくらいでどんな病気があるのかもよく分からなかった上、地図を見ても書いていない村や道がたくさんあるのです。私たちは地域の実情を知るために、内戦をかいくぐって、国境沿いはとても通れませんでしたので、山越えをして歩きながら現地と接触を深めていきました。
 カーブルから飛来してくるソ連軍の爆撃が酷い時期でした。ソ連軍の戦略は近代化のためには保守的な農村を丸ごと葬ってしまって、人口を都市に集中させて管理するというものでした。そのために、女、子どもも容赦なく、一つの村を殲滅するということが普通に行われました。これに対して、住民自身が、各地域バラバラに抵抗しました。男たちは村に残り、女、子ども、お年寄りなど弱い人は難民キャンプに送って闘いを続けました。戦った男たちも猛々しい人ではなく、普段はお百姓さんなんです。簡単に言いますと、日本の刀狩り以前の侍とお百姓が分離していない社会のようなものです。
 話が脱線しますが、地域によっては外国人を見たことがないという人も珍しくないのですが、何故か日本人のことは、みんなよく知っているのです。世界で一番親日的な国はアフガニスタンだといってもいいでしょう。私たちが国境を通過する時に、外国人は通過禁止となっている時も、日本人だというと、「アフガン人ではないが外国人とは言えない」と通してくれるのです。日本人には特別な感情を持っているようです。どうしてか分かりませんが、彼らが知っているのは、日露戦争、それから広島・長崎の原爆はどこに行っても、どこのお百姓でも知っていました。アフガニスタンの知識人も含めて信じられている日本についての迷信があって、日本とアフガニスタンの独立記念日は同じだ、というものです(笑)。
 長い目で見た国際環境は日本とアフガニスタンに共通点があります。日本は島国であり外国の勢力が届きにくい極東である利点を生かして、北方からの驚異と南からの驚異のサンドイッチのなかで独立を達成し、明治維新で国民国家を作りました。アフガニスタンは、島ではなくヒンズークシュ山脈という、人が近寄りにくい天然条件を生かして、言語だけでも30以上の民族があるなかでアフガニスタンという同一性を作ってきた。彼らの誇りは、英軍が2年もアフガニスタン征服を企てましたが、その都度撃退したことです。
 そんなわけで日本についてはみんな知っているんだけれど、オランダの隣にあるらしいとか、出島の話がそんなふうに伝わったのでしょうか(笑)、歩いて何日かかるとか真顔で聞かれながら、我々は歩いて住民との親交を深めてきました。

マラリアの大流行をくい止める

 さて、ソ連軍が引き揚げて、難民が帰ることになると、ヨーロッパのNGOが押し掛けました。日本も竹下首相の時でしたか、数10億ドル出しました。今更いうのも何ですが、あの時の数百億ドルのプロジェクトで2、300万人難民で帰った人はほとんどいなかった。そのうちに湾岸戦争が始まり、ソ連が崩壊するというなかで難民を帰すプロジェクトは途中で撤退しますが、真っ先に逃げ出したのは、欧米諸国のNGOと国連職員でした。国連の中でも酷いことに、アジア系の国連職員を残して、欧米人はみんな帰ってしまったんです。そういういきさつのなかで、国連や欧米のNGOは決定的に信頼を失ってしまったんです。
 アフガニスタンの共産政権が倒れると、カーブルは昔の日本でいうと京の都にあたるので、カーブルを目指して各政治党派がわんさわんさと押し掛けました。その分地方は平和になりまして、戦場が農村部から都市部へ移りました。農民だった難民はそのような事情をよく読んでいて、自発的な難民帰郷が始まりました。それも国連は帰る家族に僅かな援助をしましたが、ほとんどは誰の力も借りずに難民200万人がひとりでに帰りました。このことはあまり報道されませんでしたが、恐らく国連や西側が恥ずかしかったんでしょうね。私たちは今から活動する時期がきた。私たちがやらなくちゃと猛烈に活動を開始しました。
 難民は帰ってきたものの、家は荒れ果て、畑は10数年間放っておいたので耕作できないので、我々は農村部に支援を集中させました。というのは一番困ったときに必要なのは食べ物です。電気製品は食えるわけじゃない。戦後の日本と同じように、飢餓状態のなか一番必要なのは食べ物です。しかもアフガニスタンは農業国ですから農村の復興を援助するかたちで猛烈な援助を開始しました。
 アフガニスタンの東部山岳地帯の3つの診療所はその時に次々建てられたものです。我々は、帰ってくる難民を待ち受ける形で診療所を開く、難民にしてみれば不安を抱えて帰ってみると、元々無医地区なんですが、といってもアフガニスタンのほとんどが無医地区で、医者のいる地区を探す方が大変だったんですが、帰ってみると診療所があるではないか。お医者さんがいて検査技師もいる。我々は医師一名、検査技師二名、看護助手2、3名というチームを組んでいました。ちゃんとした診療が受けられ、安心して村の復興に励める、ということで、日本の数県に匹敵する地域の人々の支えになりました。
 当時、忘れられないのはマラリアの大流行があったことです。92年に難民が帰り始め、93年にはすでに水田が復興してくる。すると蚊が発生し、マラリアが流行ります。この時大流行したのは悪性マラリアで、免疫がない状態でかかると死亡率が非常に高い。日本でも外国でかかって日本で死ぬのが年間三十名をくだらない。しかし、我々が頑張って対応できるのはせいぜい70万から80万名なんです。その中で、このとき明らかにマラリアで死亡したと把握できる人の数が約六千名。
 そのため人々がパニック状態に陥りまして、薬を取りに治療を受けに診療所へ押し寄せる。しかし我々は日の出から日没まで働いても、診ることができる人数は200名から300名がやっとなんです。すいませんが、明日の朝来てくれませんかと言わざるを得ない。ところが何日もかけて来た患者は家族のことが心配で、不安にかられて診療所を襲撃するということも起きました。
 私はちょうど、北部からの調査から帰ったところでダラエ・ヌールという場所にいましたら、診療所が住民から包囲されているという知らせを受けました。そのうち投石が始まり、投石ならまだいいけれども、内戦直後でまだみんな武器を持っていましたから、飛び道具が飛んでくる、ロケット砲が掠める。職員が二名殉職しました。当地の風習として、お客さんをもてなすのを重んじることと、目には目を歯には歯をという復讐法が徹底していて、地域の人間関係と治安を規定していました。2人殺されたのだから、我々も殺したグループから2人殺らないと我々の恥になるという社会です。
 職員約20名が、みんな私の命令を待っていました。「シンパを集めて抵抗せよ、二人を殺せ」という指令が出るかと思っていたようですが,「発砲しちゃいかん、絶対に発砲するな」。ある状況下では、発砲しないでいるより、発砲した方が遙かに容易であります。しかし、私が発砲するなと言ったものだから、みんな耳を疑いまして、「先生本気ですか」と聞くのです。「本気だ」「我々が皆殺しになってもですか」「そうだ、皆殺しになっても発砲しちゃいかん」。
 ちょうど、我々の診療計画がスタートしたばかりで、我々10数名が死んだところで、後に数10名がペシャワールに控えているじゃないか。彼らが後を引き継ぐ。攻撃した者は後で必ず後悔する。しかし、ここで我々が発砲すると全てが無駄になる、とみんなを説得しましたが、さすがにみんなびっくりしまして、呆気にとられて発砲しなかったというのが実状です。幸いその後、襲撃は夜が来たので止みました。
 翌日、その谷の長老会を開かせまして、私はあんまり人を怒鳴ったりしないのですが、席上、さすがに「君たちのこのやり方は何であるか。我々は朝から晩まで何の政治的な下心もなくみんなのために診療をしているのに。ともかく、村の治安を回復しろ」と怒鳴りました。若い者に診療所を守らせると同時に、「薬のことは心配せんでいい、俺がペシャワールに行ってどかんと持ってきてやるから」と約束をして、また山越えをしてペシャワールに戻りました。
 福岡の事務局に電話をして「おい、ありったけのゼニを全部送れ」と言うと、「先生、30万円しかない」というのです。その30万円でいいからみな送れと言ってぞっとしました。この30万円で人がどれだけ救えるか。その当時、悪性マラリアに有効なキニーネという薬の一人あたりの薬代が220円、マイルドセブンと同じ値段です。30万円割る220円が助かる人の数です。1600人位しか助けられないということなんです。
 その後ペシャワール会が新聞やテレビで訴えかけましたところ、日本人も捨てたものじゃない、数千万円の募金が寄せられたため、我々が各地を巡ってマラリアを潰して回りました。幸い冬がきて、蚊の発生が止まるという勢いに乗じて、それ以上の流行は収束しました。これによって地域のマラリアは慢性的には発生していますが、大流行はなくなりました。東部では、これによって私たちの会は、人々の信頼を得ました。
 そうやって診療してきましたが、車が行けるところはまだましで、本当に困っているところは歩いて行かなければならないのですが、アフガニスタンでは一番高地といわれるヌーリスタン、パキスタンでは北の最果てのワハン回廊の近くのバローギル峠まで、私たちの診療所は建っています。
 僻地の診療所に歩いていかなければならないなかで、国際地域医療とはいかにあるべきかなんて話を聞けば聞くほど虚しいんです。地域に行ってみなければ分からないと言うと議論は途切れますが、ともかく地域住民とともに歩んで、この地域の人にとって一番いいのは何かということをともに探っていく段階です。
 批判はできますが、では我々に何か代わるものがあるかというとなかなかない。時には、何も好きこのんでそんなところに行かなくてもとか、中村は山が好きだから行っているんだろうという人がいますが、とんでもない、そういう悪口を言う人が行かないから私たちが行っているのであって、私たちの方針は、人がわんさわんさといるところなら、我々がやらなくても誰かがやる、そうではなくて、人の行かないところに行く、人がしたがらないことをするというものです。
 今回の干ばつにさいしても我々は。国連機関や世界中のNGOが押し掛けてやっているようなことはやりませんが、昨年から本格的な干ばつ対策を開始しました。
 そうこうするうちに15年が経ちまして、とてもこれは、20年、30で終わる問題ではない、そこで第一期の区切りをつけて診療基地病院を3年前に立ち上げまして、第1期15年終了、今年は第2期30年の4年目に相当します。

世紀の大干ばつで400万人が飢餓に


 昨年アフガニスタンを襲ったのが世紀の大干ばつ。中央アジア全体、周辺諸国を合わせると約6000万人が被災しました。そのうちアフガニスタンの被害が激烈で、1200万人が被災した。昨年5月、WHO発表の数字ですが、1200万人が被災して、飢餓に瀕する者が約400万名、死ぬであろうという飢餓寸前の者が100万名という数字を発表しました。これが決して誇張された数字ではないというのが私の印象です。飢餓といってもお腹が空いてバタッと倒れるわけではないんです。末期は下痢にかかったり、色々な病気にかかったりして、栄養失調になって亡くなるんです。ですからそういう数も入れますと100万人というのは決して誇張された数字ではないのです。
 しかし欧米諸国にはアフガニスタンに対するネガティブなイメージがあって、救援がなかなかこない。我々は国際団体が押し掛けるときには引き揚げようと思っているのですが、なかなか来ないんですね。それどころか国連制裁で物資がますます途切れるというなかで、ものすごい干ばつで、診療所周辺で村が消えていくんです。耕作する農業用水が無くなるだけではなくて、飲み水が無くなり、家畜も売らざるを得ない。家畜を売るときは農民としての最後です。家畜を売り払って町におりてくる。次々と廃村が広がったわけです。
 こういう状態のなかで、私たちの診療所にはえらく人が多く、大半の犠牲は子どもでありまして、なかには……子どもを抱いた……母親が、外来で待っている間に体の冷えていく我が子を抱いている、という姿もたくさんありました。お医者さんがこんなことを言うと顰蹙を買うかもしれませんが、ともかく病気どころではない。病気は生きておれば後で治せる。ともかく村に健康な状態で留まれるように、そのためには水だということで、診療所周辺から飲料水確保という計画を始めました。現在、約600数十カ所で作業地を持っていまして、五百数十カ所で水を出しました。そのために村に留まって流民化しなくてすんでいる人が25万人から30万人にのぼります。
 ダラエ・ヌール診療所というのは、タリバン政権と反タリバン勢力の係争地になっていて、去年の8月、今日は派手にやってるなと思って目が覚めてみると反タリバンの人が治めている。それから2、3日たってみると今度は、またタリバンが取り返しているというなかで作業を続行しました。水路、現地ではカレーズ、カナートとも言いますが、水路の復旧にも着手しまして、その結果、砂漠地帯が、緑の麦の原っぱになるという奇跡的なこともおこりました。私は人から誉めてもらおうと思ったことはありませんが、これだけは誉めてもらいたいと思いました(笑)。緑の畑が戻ってきて、そのために村を捨てた難民1万数千人が帰ってきました。
 このように水源確保の作業地を年内に1000カ所に増やそうとしていたところに、ニューヨークのテロ事件が発生しまして、やむなく日本人だけは退去しました。しかし、現地の人は、「我々は潰れるまでやります」と、現在も作業を続行しています。診療所も平静に運営しています。町は非常に静かです。

日本で伝えられることの違和感


 世界で一番治安がいいところはどこかというと、戦闘地を除いてはアフガニスタンです。日本でこんなことを言うと、きっと報道管制があるのだろうと言われますが、報道管制をできるほど組織だった国ではありません。みんなが信頼を寄せているニュースソースはラジオのBBC放送で、現地のパシュトゥー語という現地語とアフガニスタンの国語であるペルシャ語と、パキスタンの国語であるウルドゥ語の3つに訳されて、国営放送は事実ではないことも発表するので、みなBBC放送を元にして判断しています。私は日本に帰ってきて、報道管制にあっているのはむしろ日本ではないかと感じました。現地は意外と冷静に判断していますし、民衆レベルでことの流れを知っていますが、それでも冷静に判断しています。
 私が見聞きしたところでは、ニューヨークのテロ事件にさいして、アフガンの民衆レベルの反応は、むしろテロの犠牲者を悼む声の方が強かった。というのも彼らは20年以上の内戦で血なまぐさいことに疲れ切っているんです。これ以上また騒ぎを起こして、人が死んで、まぁかわいそうに、と自分たちも肉親を亡くしていますからそれがよく分かるんですね。ところが、米国の報復が自分たちに向けられるということを知ってから、元々ある伝統的な反英感情が反米感情に転化して、鬼畜米英という声がタリバンの抑えを越えて、民衆レベルで沸き上がってきつつあるというのが現状です。
 そうすると日本で聞くのとは随分事情が違うと思うわけです。
 私たちの活動は医療を基本にして、後には井戸掘りなどの事業もありますが、公衆衛生も含めた医療活動を中心に展開して、それも記者会見に出てくるような偉い人ではなく、99%を占める一般の民衆のような声の届かない人たちと接してきました。英語がほとんど喋れず、外国人とほとんど接触できない、ましてや外国に逃れることなんてできない。こういう人たちの声はほとんど日本に伝わっていない。この活動を通して、向こうの一般の人々の声や考え方が伝われば、実状を知っていただきたいと思います。
 我々も戦時下でも活動を継続します。戦時下でもプロジェクトを継続する準備のためこうして一時帰国しましたが、細々とであるけれども、文化も顔も言葉も違った国の人々を理解していく民間の橋渡しになればという気持ちで今後も活動を断固継続していきたいと思っています。
 今、日本は何をなすべきいかという観念的な議論が多く、現地の情報がないままに状況が進んでいます。繰り返しますが、日本は報道管制でもされているのではないかと思うほどです。
 政治的なことは言いたくありませんが、とにかくアフガニスタンの正確な情報を知ってください。政治家の方たちは、それから判断してください。日本は、アメリカに追随して、この不況のなか、たくさんお金を使って、元々親日的なアフガニスタンの民衆に被害を及ぼすような武力行使の支援をするより、今は何をなさざるべきかということを冷静に考えてみることも必要ではないでしょうか。
 干ばつによって農業生産力の九割が打撃を受けているところへ報復攻撃が始まれば、100万人単位の人が死に、衆人環視の下でホロコーストと同じ状態を生むことは間違いありません。
 一握りのお金持ちは外国へ逃げていきましたが、今、首都のカーブルに集まっているのは飢餓難民。空爆があったときに死ぬのは国外へ逃れることさえできない貧しい人たちです。後で実状が分かったときに、報復攻撃をした人は必ず夢見の悪い思いをするでしょう。


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