[HOME]

 act@jca.apc.org

[トピック]
[ACT新聞社の紹介]
[最新号]
[記事検索]
[募集]
[お申し込み]
[“緑”のページ]
[リンク集]


[バックナンバー]ページに戻る


『ACT―市民の政治―』227号(2004年10月11日)

Line Up

  ◆インタビュー
     父・石井紘基は誰に、なぜ殺されたのか
     石井ターニャさん(政治文化研究所代表)
  ◆いずみ(編集長コラム)
  ◆9・30臨界被爆事故5周年行動
  ◆「もんじゅ」を廃炉に! 10・1署名提出
  ◆読者のページ
  ◆ザ・主張  一連のプロ野球騒動を斬る!
  ◆住民投票津々浦々
  ◆こうして成功しました!――市民団体、NGO/NPOのメディア術――
      アースデイ東京@
  ◆9・12新潟県大潟町議選
  ◆支局だより
  ◆新作映画情報 『本流』
  ◆特集・憲法と向きあうB
     ・インタビュー 今井一さん(ジャーナリスト/真っ当な国民投票のルールを作る会)
     ・私の憲法観 星野ゆか(表現者)
     ・憲法NEW WAVE
  ◆Activists Board
  ◆話題の本・著者インタビュー
    『新聞社の詐欺商法』(リム出版新社) 黒藪哲哉さん

インタビュー

真相の究明を!

 石井 ターニャさん
(政治文化研究所代表)

父・石井紘基(衆院議員)は誰に、なぜ殺されたのか

10・25暗殺事件から2年
権力と裏社会が結託すればそれは十分に可能なこと

Tanya Ishii
1972年5月15日(沖縄返還年月日)生まれ。NHK教育テレビロシア語会話レギュラー出演(94〜95年)。ロシア語通訳(エリツィン大統領来日時、サッカーワールドカップ海外遠征時テレビ局通訳等)。衆議院議員公設秘書など務める。2002年10月25日、自宅前にて父、石井紘基衆議院議員が暴漢に襲われ命を奪われる。その後、裁判傍聴と同時進行で、63箱に及ぶ父の調査資料を整理調査している。父が調査分析した日本の現状と改善のためのプログラムを引き継ぎシンクタンクへの協力や総選挙において候補者に政策協力を行う。現在、政治文化研究所代表。
●石井ターニャ ホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/tanya/


10月25日、石井紘基衆議院議員が東京・世田谷の自宅で何者かに殺害されてから、ちょうど2年。特殊法人などの受け皿になっている日本の裏予算=特別会計にメスを入れつづけた故石井議員の志を引き継ぐ最愛の娘、ターニャさんにお話を伺った。【インタビュー:大野拓夫/構成・写真:大島正裕】
 父が殺されたのは2002年の10月25日です。それから2年、3回忌を迎えようとしています。「犯人」とされる被告に対して無期懲役の一審判決が今年6月18日にありました。残念ながら、裁判で事件の真相が明らかになることはありませんでした。
 今、一番悔やんでいるのは、最後の一年、私は民間企業で働いていたので、父の側にいることができなかったこと。私が秘書を続けていたなら、事件直後に何者かが奪っていった大切な資料のことや、誰かに狙われていたことに気づけたかも……という自責の念があって、今でも私の心的外傷(PTSD)の一つの要因になっています。
 肉親の凄惨な姿とその痛みを目の当たりにすると、自分の痛みとして受け止めてしまいます。同時に自責の念からも逃れることができない。記憶を閉じ込めたりする症状も起こり、この2年間、母も私も言葉では言い表せないほど複雑な思いで生きてきました。「犯罪被害者」という当事者になって、私自身、初めて実感していることです。
 亡くなった父が事件の直前まで調査していたことは@闇金を含めた金融問題、Aパチンコ問題、B産業廃棄物処理問題、C警察の特殊法人の問題、D歴代首相の裏口入学斡旋問題や大物政治家のマネーロンダリングのことなど。いずれも我が国でタブー視されている問題ばかりで、その中には「日本がひっくり返る問題が含まれている」と母には話していたようです。「これで小泉首相と取り引きできる」って。実際、何かの取り引きに行ったようですが、詳細は調査中です。取り引きというと何か悪いイメージがありますが、父の場合、その材料と引きかえに他の資料を出させたりすることがあったそうです。
 事件の1週間前の10月19日、父は経済に詳しいある知人のところに足を運んでいます。その時の父は「まさにすごい形相で駆けこんできた」のだそうです。父は「車につけられている。追い回されている」と言っていたそうですが、父を殺したということで逮捕された被告人は、原付のオートバイしか乗っていません。ですから、被告とは別に父を狙っていた人たちがいた可能性も感じます。


以下、本紙をご参照下さい。
                  


いずみ

  早すぎる二人の死

 格別親しかったわけではない。また、仕事上しょっちゅう会っていたわけでもない。なのに気になる人はいるものだ。機会があれば一献傾けたいと思うが、こんな間柄に限って、なかなかそんな機会はない。本紙前号で訃報があった佐々木成君と右島一朗君は、ぼくにとってそんな人間だった。
 佐々木君は、ぼくがかって所属していた統一社会主義同盟のメンバーで、学生時代は東大フロントで活躍した。左翼というものは組織を辞めた人間に対しては、人民を裏切ったわけではなく、利敵行為を働いたわけでもなくても、親の仇のように扱う。辞めること自体が人民を裏切り敵を利すると考えるのだ。まして60年代はそんな時代だったが、佐々木君はそうした左翼ではなかった。飄々とした風貌そのまま精神も軽やかで柔らかかった。「人民の敵」の家に平気で泊まり酒をねだった。「この閉塞状況に何とか風穴を開けたい」と叫びながら、ガンに全身を蝕まれ、58歳で逝ってしまった。
 右島一朗君は、日本革命的共産主義者同盟中央委員で、機関紙『かけはし』の編集長であった。編集長といっても、ぼくと違ってほとんどの原稿を一人で書き、写真まで撮るという八面六臂の仕事ぶりだった。高島義一の筆名で政治経済文化スポーツに至るまで、それも長い長い論文を書きまくった。本人はどう思っていたか知らないが、彼の本領は時事問題や文化スポーツの論評を通して、この世界の本質を剔抉(てきけつ)するところにあった。原理主義者であっても、教科書で現実を裁断するのでなく、現実から原理をひきだすことに長けていた正真正銘の理論家であった。
 「いずみ」で赤軍派の重信房子逮捕について書いたとき「甘い」といってかみつかれた。たまたま会ったとき「ぼくは昔、赤軍派にいたんですよ。だからかみついたんです」と、人懐っこい笑顔で、しなくてもいい言い訳をする礼儀正しい好漢だった。ようやくできた休暇に単独登山し滑落して死んでしまった。
 ああ、無理にでも酒を酌み交わすのだった。

                                                     小寺山康雄 


[バックナンバー]ページに戻る



[HOME]

 act@jca.apc.org

[トピック]
[ACT新聞社の紹介]
[最新号]
[記事検索]
[募集]
[お申し込み]
[“緑”のページ]
[リンク集]