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駐留軍用地使用裁決申請事件に係る公開審理(第11回)

日時:2005年5月30日(水)13:30
       場所:自治会館大ホール




○渡久地会長 
 定刻となりましたので、これより那覇防衛施設局長から使用裁決申請及び明渡裁決申立てのあった駐留軍用地使用裁決申請等事件に係る第11回目の審理を開催いたします。

 本日の審理は、土地所有者の意見陳述を行います。なお、途中で15分程度、休憩をとります。

 まず、審理進行についてお願いがあります。意見陳述者は私から指名しますので、指名された方のみ意見を述べてください。

 また、審理記録作成のため必要ですので、マイクを使用し、ご自分の権利に係る施設名及び氏名を述べてから、意見陳述を行ってください。

 審理会場におきましては、携帯電話の電源を切っていただき、定められた場所以外には立ち入らないでください。また、報道関係者以外の写真撮影はご遠慮ください。

 入場時に審理会場における注意事項を配布してございますので、ご確認ください。

 あらかじめ通知しましたとおり、本日の審理は午後4時までとなっておりますので、審理がスムーズに進行され、多くの方が意見陳述できますよう、各自10分をめどにご発言いただきますよう、ご協力をお願いいたします。

 それでは発言をいただきますけれども、当委員会に届いておりますメモによりますと、まず中村文子さん。順番として中村文子さんでよろしゅうございますね。

 それでは、ご発言をお願いします。

○中村文子(土地所有者) 
 中村文子でございます。ご苦労様でございます。

 1913年(大正2年)9月28日、月の美しい夜、沖縄本島の北部のある村の貧しい夫婦に女の子が生まれました。女の子は、戦争の正義とかソテツ地獄と皇民化教育の時代とか、受難な世紀とかと言われる大正、昭和、平成の17年の今に至る91年と9カ月を生きて、こんな姿でここに立っております。

 すっかり媼になりましたけれども、私はもっと長く生きたいと努力を続けております。それは、空に一機の軍用機も飛ばない、地上に一台の戦車も走らない、海に一隻の軍艦も浮かばない、本当の沖縄を取り戻したいという願望があるからです。本当の沖縄を取り戻しましたよと、沖縄戦で命を落とした同胞に報告したい。人殺しの練習をする基地など一坪も要らない、一坪も置かない、豊かな自然の沖縄を子供たちへの遺産にしたいという念願を持っているからです。

 さて、私は数え年8歳で小学校へ上がりました。入学したのは字の集会所、机を並べただけの分教場でした。そこで最初に覚えた歌が「白地に赤く 日の丸染めて ああ美しい 日本の旗は。朝日の昇る 勢い見せて ああ勇ましい 日本の旗は」、私は7分ばかりの我が家まで声に出して歌い、手を振って「ああ美しい 日本の旗は ああ勇ましい 日本の旗は」と歩調をとって帰ったものです。

 3年になると、坂道だの、石ころ道だの、5キロを歩いて、本校へ通いました。本校へ行っても、3年生はまだ茅葺き教室でした。3年に上がって国語読本の第一は八・七調の美しい韻文でした。「大日本、大日本、神のみすえの天皇陛下、われら国民八千万を我が子のようにおぼしめされる。」二連、三連と続きました。いち早く覚えた私は、よく先生に指名されて、教壇で暗誦しました。家へ帰る道々も口ずさみました。でも、その後で、私の小さな胸にさざ波が立ちました。8,000万人も我が子のように、私なんかも一度も顔を見たこともないのにと、さざ波は揺れました。でも、そのさざ波は間もなく跡形もなく打ち消され、かき消されてしまいました。

 それは本校では四大節というお儀式がありました。木造校舎の一棟の4教室の仕切り戸を取り払って、そこに3年以上をびしっと並べました。一張羅を着た私たちは、緊張して並びました。そして、正面に飾られたご真影に向かってまず最敬礼をします。そして君が代を歌いました。教育勅語を拝聴した後で、お儀式の歌を歌いました。お儀式は新年、紀元節、天長節、明治節の四大節でした。天長節の歌は、「今日(きょう)の吉(よ)き日は大君(おおきみ)の 生(う)まれたまいし 吉き日なり、今日の吉き日は御光(みひかり)の、さし出(で)たまいし吉き日なり」を歌いました。その後で、校長先生の訓話を聞いて、授業はなくて家へ帰りました。

 教科書では、「国語読本」で英雄や修身の生涯を韻文でも盛り込まれて、それが美しい韻律で、最後は表現されていました。音読をすると、悲壮感のようなものが幼い胸に沁みました。

 一つ、一人一人について言いたいんですけど、10分で喋れと言われていますので省きます。

 そして、それが小学唱歌になってまた歌いました。一層胸に沁み込みました。修身では、日露戦争の戦場で敵弾にあたって倒れたラッパ主の絵が書かれたページがありました。そしてそこに、「木口小平は死んでも口からラッパを離しませんでした」と。幼い胸はものすごく感激しました。

 また、次のページに、一人息子が出征するのを見送ろうと、5里の山道をわらじ履きで駆けつけた軍国の母の話が出ていました。母は出て行く船に向かって「一太郎、一太郎やーい」と大きい声で、その場面が絵になっていました。

 靖国神社は学年を迎えるごとに詳しく表現されていました。5年生から国史を学びました。

 大正15年、大正天皇が亡くなりました。12月25日。すぐ昭和と元号が変わりました。昭和元年は1週間ばかりの短い期間でした。明けて昭和2年2月7日、御大喪の日がきました。天皇のお葬式を御大喪と言いました。私たちは、校庭に整列して、皇居のほう東へ向かって御大喪の歌を歌いました。「地にひれ伏して 天地(あめつち)に いのりしまこと いれられず 日出ずる国の国民(くにたみ)は あやめもわかぬ 闇路ゆく 御大喪の きょうの日に 流るる涙 果てもなし きさらぎの空 春浅み さむ風いとど 身にはしむ」沖縄でもあられの降りそうな寒い日でした。涙を浮かべて私たちは歌いました。小国民としての御大喪への参列でした。

 翌年の昭和3年4月、私は沖縄県女子師範学校へ進学しました。4月29日、まだ学校になじめずおどおどしているときに、天長節のお儀式に師範学校の女子学徒として参列しました。そしてそこで教育勅語を拝聴した後に、勅語奉答歌を歌いました。一段と緊張しました。「あな、たうとしな、大勅語(おうみこと)。みことの趣旨(むね)を 心に彫(え)りて、露(つゆ)もそむかじ、朝夕に。あな、たうとしな、大勅語(おうみこと)」、それこそ学徒としての決意と誓約の歌でした。

 昭和5年3月6日、地久節として女子学徒だけお儀式がありました。女子学徒だけは五大節になりました。皇后陛下のお生まれになった日は「畏く光る天つ日の神の御末のくわし姫、后の宮の生れませる、今日のよき日はめぐり来ぬ」と、皇后のご誕生日を祝福しました。

 そして昭和6年、満州事変が起きました。私は師範学校の4年生になっていました。那覇のまちにもカーキ色の軍服姿が増えました。皮の長靴を履いた青年将校が颯爽と那覇のまちを歩きました。この人たちが国を守るんだ、私たちはその後姿を振り返って見ました。

 そんなある日、地理の先生が「君たち、軍人の妻にはなるなよ」私たちは「あんなに格好いいのに、国を守ってくださる人だのに」という顔をして先生を見ていました。

 明けて上海事変が起こりました。廟行鎮の鉄条網を3人の兵士が爆弾を抱えて突っ込み、破壊して、そこに日本軍の進路を開きました。それがどの新聞にも大きく報道されました。歌にもなって、入場行進の曲にも使われました。そして、その新聞記事を私たちが集まって読んでいると、歴史の先生が入って来られました。「お、みんな読んでいるな。日本人て恐ろしいことをする国民だと世界中が見ているだろうな」独り言のように言われました。「先生、軍神じゃないの、日本人の鑑じゃないの」という顔をして先生を見つめていたと思います。でも、お二人の先生は結論はおっしゃいませんでした。お二人の先生のおっしゃりたかった真意は、沖縄戦が済んだ後に本当に分かりました。そのときは既に治安維持法ができて、さらに改正されて、厳しくなっているときだったんです。

 1933年、昭和8年です。私は、師範学校を卒業して母校の教師として教壇にあがりました。戦局はますます拡大して挙国一致だとか、大東亜共栄圏だとかという用語がぼんぼん出ているような時世でした。

 少女期から青年前期まですり込まれて、すり込まれた私たち。よい日本人。忠君愛国。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。お儀式のたびに、それから教科書を通してすり込まれたことを、教師になってまた子供たちにすり込みました。やがて日の丸の小旗を振って出征兵士を送る日がしきりにきました。私たち教師はその日の丸の旗を振らせて、「わが大君に召されたる 生命光栄(はえ)ある 朝ぼらけ 讃えて送る 一億の歓呼は高く 天を衝く いざ征(ゆ)け つわもの 日本男児」と天に響くような大声で子供たちに歌わせて出征兵士を送りました。

 満州事変から10年、アジアの国々で戦い続けて、人も物も使い尽くしそうになった頃、日本は真珠湾を奇襲攻撃して英米に宣戦布告をし、太平洋戦争に突入しました。そして5カ年戦って1945年米軍は太平洋戦争最大の陣容で沖縄に襲ってきました。3カ月も鉄の暴風が吹き荒れました。私たちは肉親を失い、財産も貴重な文化財も大事な自然環境も徹底的に破壊されました。20年に満たない学徒隊、小学校を出てばかりの少年兵、その教え子たちを数多く戦場で亡くしました。彼等や彼女たちは卒業の喜びも、就職の喜びも、結婚の喜びも、子育ての喜びも知らずに逝ってしまったのです。

 去る5月13日、私は本土から平和学習に見えたちょっとご高齢のご夫婦を案内して、ひめゆりの塔へ行っておりました。たまたまそこに平和行進の一団がひめゆりの壕の前で小休止をして参拝されました。

 ひめゆりの後輩の1人が行進団に証言をすることになりましたので、私は前に、にじり寄って彼女を激励しようと思って彼女と目が合うところまでにじり寄りました。そして、彼女の証言の一節に6月16日、18日、壕の中にいた私たち、軍から解散命令が下りました。私たちは重傷の学友を残して壕を出ました。というくだりがありました。私の胸にまた突き刺さりました。その重傷を負って残された学友の中に、私の教え子の2人がいたのです。壕の中で傷の痛みに耐えて、暗い壕の中で死に向き合って過ごした彼女たちを忘れることができません。

 壕を出た彼女たちも、それこそ敵の真っただ中ですから、たくさんの犠牲が出ました。解散命令が出た後でひめゆりの後輩たちもたくさん命を落としました。

 そして今、そして今年、沖縄戦を母親に抱かれて、あるいは兄や姉たちにおぶられて戦場の弾雨の雨の中を逃げ延びた赤ん坊が、そろそろ定年退職を迎える年になりました。戦争を知らない世代です。戦争をどうしても語り継ぎたいと思っている体験者もどんどん世を去っていきました。こんな中で憲法9条が揺さぶられたり、教育基本法が揺さぶられたり、国民保護法などというものが出てきたりしています。こんな社会の情勢だからこそ、私たちは未来永劫にわたって、私たちは沖縄戦を繰り返すことはありません。沖縄の平和、日本の平和を築くために最大限の努力を尽くします。と誓い合いたくて語りました。

 失礼いたしました。

○渡久地会長 
 それでは、次予定されていらっしゃいます謝花悦子さんでしょうか。謝花さん、どうぞ。

 着席したままで結構ですよ。

○謝花悦子(伊江島土地所有者) 
 私は謝花悦子と申します。

 戦争に対して軍備に対しては、言葉や行動で表わせないぐらいの怒りをもっております。時間が限られておりますので、私は文書を読み上げたいと思います。

 強制的に土地を取り上げられて50年になりました。反戦地主の訴えを防衛庁の皆さんは耳にたこが出来るぐらい聞いてこられたと思います。この世の宝は命であります。病気をしても治療をして元気になりたい。死にたくない命であります。その命を守り、共通する願いは幸せであると思います。戦争が終わって60年にもなるというのに、自分の土地が使えない、その土地は戦争準備のために基地として使われ、地主の意思を無視して強制的に使用されています。戦争は天災ではありません、人災であります。軍備は国を滅ぼすものであります。武器では国民を救うことはできません。犠牲の出ない戦争はありません。国が勝手に使用する権利はないと思います。

 法律に基づいて使用するということでありますが、だれが何のためにつくられた法律ですか。国民のために地主のためにつくられた法律はないのですか。国の目的を果たすためにつくられた法律がほとんどではないでしょうか。法律はわかりませんが、わかるのは道理だけであります。反戦地主に対する行動は、全く道理に合いません。反戦地主の土地に対し、国や県の特別援助がもしあったものであれば、言い分もあるかもしれません。

 私が訴える土地は、命をかけて集められた阿波根昌鴻が、人生をかけて用意された土地であります。その土地はデンマーク式農民学校をつくるために集められたものです。その学校も80パーセント完成させてありましたが、60年前の戦争によって破壊されました。戦争に対する憎しみと悔しさはますます募り、生産に励む農民、平和をつくる人間の教育の必要さを強く感じ、戦後、再び学校をつくる計画をされましたが、いくら開放を訴えられても土地の開放は見えず、今日に至っております。土地が開放されたならば、学校をつくる時間はありましたが、その思いは本人は果たせず亡くなりましたが阿波根昌鴻の意思と計画は実行したいと思いますので、一日も早く開放してください。
 
 こうした地主の意思も通ぜず、今日まで国は勝手に使用され、さらにこの先もということは許されたものではありません。土地は人間が生きるために必要なものです。殺すためのものではありません。人間としての権利、地主としての権利は全く無視されてきました。これ以上、人道に反することはやめてください。

 国民の幸せのもとは自然であります。海も山も田畑もあって生きられるのです。金は国の定めた法律によって税金で絞り上げられ、毎日恐怖と不安の中で生活している人の立場も知ってほしい。人間として大なり小なりの良心は持ち合わされていると思います。戦争に犠牲者の出ない戦争はありません。人間だけではありません。自然や海や山に住む生き物までも殺し、奪いつくす戦争は二度とあってはいけない。そのための基地はいりません。基地を開放し、危険な演習はやめてください。恐怖のない安心できる社会づくりに国は予算をつくり、知恵と力をすべての国民に与えてください。これから生まれてくる子供たちを平和で安全で安心できる社会を迎えるために軍備をやめ、基地を開放されることを訴えます。以上です。終わります。
○渡久地会長 
 これから発言なさる方、もしずっと立ち続けてご発言するのがきついということであれば、着席のままでも構いませんので。
 次、平安山良友さん。
○平安山良友(伊江島土地所有者) 
 平安山良友です。

 伊江島真謝区の地主の1人です。私たち伊江島の土地は、接収されて50年になりますけれども、私たちの土地は飛行場をつくるためにもっと前から接収されております。その接収された土地が軍の飛行場になり、飛行場を管理するために兵隊がだいぶおりました。そして、そのために私たち伊江島の村民は去った戦争で兵隊とともに壕を掘り、飛行場をつくって戦争に参加しました。そして危うく私たち村民は1,500名の戦死者を出し、兵隊が2,000名だと言われておりますけれども、兵隊と同じような戦争に参加させられております。ですから私たち「伊江島の土地を守る会」の1人でもありますけれども、それを土地を取り返すまでは、私ももう70を超しましたけれども、まだまだ頑張っていかなければならないなと思って、きょうもこっちに来ました。先ほどから申されておりますとおり、戦争のために私たちの土地は一坪でも貸さないという念頭の中からあらわれてくるものでありますので、一日も早く私たちの土地を返していただきたいと思います。終わります。

○渡久地会長 
 次、知念忠二さん、よろしいでしょうか。
○知念忠二(伊江島補助飛行場土地所有者) 
 こんにちは。私は、伊江島補助飛行場すなわち伊江島の演習場内に土地を持ち、そこで少年時代育った者であります地主の知念忠二でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 私は、11月4日の求釈明の際も、伊江島のこの土地がどのようないきさつで演習場となり、米軍の人殺しの戦争のための訓練が行われているか、この実態を申し上げましたけれども、きょうは意見陳述でございますので、多少親の時代から振り返ってみたいと思います。私の土地の歴史でございます。

 私の父母は、伊江島の貧農の生まれで、二十歳までは下男として、あるいは下女として大きな農家に働いていた身でございました。そこで晴れて二十歳、自由になったときに、関西大阪や岡山あたりに出稼ぎに行き、そしてそこで稼いだお金を貯めて、生まれ島の伊江島、真謝に来まして、母の言葉によりますと「スンカンマカイティーチカラ、二人で力を合わせて働いている」、すなわち爪に火をともしながら働いて、そして買い集めた土地が私の現在の所有している土地でございます。

 もう少し申し上げますと、父は、昼は大きな大地主のところで働いて、夜、月明かりなどで自分の畑はやっておりました。そこで私はお父さん子でしたから、帰りが遅いのを待ちかねて、うんと泣いた記憶もございます。

 こういう形で買い集めた土地が私の所有している土地でございます。そして、それがいわゆる沖縄戦までの間、子供7名、夫婦合わせて9名家族を育て上げてきたところの私の土地、すなわち先ほども謝花さんからもありましたが、土地はやはり命の泉、命綱ですね。そういう経過がございます。

 それでは、あの戦争によってどうなったか。こういうふうに働いて働いて、土地を大事にし、農耕してきた私の土地は防衛隊にとられ、そして16歳の兄も青年護郷隊にとられて、結局戦死をいたしました。そして戦後、私たちは15歳の姉を頭に、いわゆる女手一つで母が育ててまいったわけでありますけれども、それが2カ年の難民生活の後、私たちは今の土地を耕しまして、立派な農地にしたことはこの前もお話し申し上げたとおりであります。すなわち、1955年3月のあの米軍による強制接収でございます。

 私の母は、以来、土地を取り戻すために契約を拒否し、いわゆる復帰前からです。そしてほかの真謝部落の先輩の方々、仲間の皆さん、部落民、そして指導者の阿波根さんをはじめ一緒になって、場合によっては琉球政府のピロティーで座り込みをし、あるいは全島乞食行脚をしたりして、真謝の区民一緒になって、こういう闘いをしてきたのが私の母でございます。

 今から16年前、84歳で亡くなりました。私の母は、亡くなる前に言っておりました。この土地は絶対に米軍に戦のために使わせてはならん、こういうふうに言っていたわけであります。その理由は、父、自分のクサキですね、夫と長男を奪った戦争が憎い。この戦争のためにまたこの土地を使うのが、許せない。戦争のために使わすわけにはいかんので、ずっとおまえも反戦地主を、契約拒否地主を貫いてくれと、死の一週間前までこういうことを言っておりました。それが私の母の思いであります。

 私も、もちろんこの思いを胸に、現在まで生きてきたことはいうまでもありません。というのは、この前の求釈明のときも、申し上げたかもしれませんけれども、私自身、沖縄戦の生き残りであります。九死に一生を得て、現在に至っております。というのは、祖父と15歳の姉と10歳余りの私3名が、あの沖縄戦のときに、伊江島の北海岸にあるガマから這い出て、未明に食糧確保のために自分の屋敷に行ったところ、米軍に発見されて、空からおもいっきり爆撃を受けました。土くれを体に受けましたけれども、幸い破片を受けずに3名とも命を助かることができたわけですけれども、これは本当に紙一重、偶然でございます。

 だから、私はそういう体験を、自身子供であったけれども持っておりますので、母のあの、自分の夫を奪った、あるいはかわいい息子を奪ったこの戦争のために土地は貸せない。こういう思いは私も共有しているわけであります。このことを私は申し上げたい。このことは、今伊江島で闘っている契約拒否地主、真謝部落民、西崎区民、そして私のように普天間基地などのある沖縄本島の宜野湾市に住んでいるような、沖縄本島にあるもの、日本のどこにあっても私はこの思いは一つだと思います。そういう意味でも、私たちはこれ以上この土地を米軍の爆撃演習場にさせるわけにはいかない、こういうふうに思うわけです。

 この伊江島の爆撃演習場となっている私たちの土地の現状については、多くは申し上げませんけれども、死亡事故、あるいは重症事故、軽症事故、そういう事故を含めて、事件事故があの強制接収以来、実に20数件起きているんです。これはみんなきわどい、私はあのときに申し上げたとおりです。しかも、つい最近、4月27日にも、伊江島の真謝のウクトンヤーというところの屋敷からわずか200メートル、フェンスから200メートル、この地点にまたパラシュートが落ちているじゃありませんか。

 こういうことを見ますと、私たちの伊江島の土地は、まさに私たちの命をこれまでも奪い、そして脅かし、そして人権を無視し、蹂躙してきた土地であることは間違いないのであります。そういう意味からも、これは一日も、もう置くわけにはいかんというのは当然の成り行きではないでしょうか。

 ところが、あの求釈明のときもはっきりしましたように、私たちの政府、日本政府の態度はどうでしょうか。私は、こういう事態は人道に反する。そして、何よりも憲法に反する、私たちの日本憲法。そして他国を爆撃するために訓練する伊江島の演習場、これは人道に反するし、国連憲章に違反する、国際法に違反する。こういうことを申し上げて、防衛施設局に質問をいたしました。

 そうしましたら、一言も答えない。何と言ったか。権利取得のため、つまり、強制使用裁決申請には関わる事項ではない。そして、知念忠二の質問は、土地明け渡しに関する事項には関わらない事柄であるので、審議になじまないと、こう言いましたね。これが私たちの政府のとる態度ですか。私は、この場でもこういういう政府の、小泉内閣の、また歴代内閣の責任を追及し、ここで私たちの土地は速やかに返してもらうように強く主張をしたい。こういうふうに思います。

 ところで、あれから中村先生もおっしゃっていたように、沖縄戦から60年、そして伊江島における銃剣とブルドーザーによる、あの武力による土地接収から50年です。この間、こういう人権蹂躙、人命を奪ったり、人権を蹂躙したり、いろんな事件が起こって憲法に違反する存在の基地を、これ以上置いておくわけにはいかないではありませんか。

 そこで、これを我が政府にお願いすることはもう無理。あの求釈明のときの答弁からもはっきりしていると思います。皆さん、そう思いませんか。しかし、私たちは訴え続けなければなりません。この時点において、私どもは沖縄県土地収用委員会の皆さんの良識を心から信頼をして、このような不当不法、そして人権蹂躙の事態が戦後60年、あの伊江島の土地取り上げから50年以上も続けるわけにはいきませんので、そこではっきり強制使用の裁決申請並びに土地明け渡しに関する裁決申請はきれいさっぱり却下していただいて、私たちに生きる道を、胸を張って、不安のない、死の恐怖を怯えないで暮らせるこういう道を開いていただきますように、きょうの陳述において私心から収用委員会の皆さんにお願いを申し上げたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
〇渡久地会長 
 次、久保田一郎さん。ご意見いただけますか。
〇久保田一郎(伊江島補助飛行場土地所有者) 
 私は、愛媛県松山市の久保田一郎と申します。伊江村字西江上真謝原2667番地に土地を所有している地主でございます。

 防衛施設局の皆さん、伊江島補助飛行場と名前のついた米軍基地に向かって建っている団結道場をご存知でしょうか。伊江島の契約を拒否する地主から土地を取り上げて、米軍に提供するための仕事に従事している皆さんは、現地の事情や沖縄戦の歴史は十分ご承知のはず。

 1945年4月、わずか1週間の戦闘で伊江島は占領され、木の皮1枚も残らないほどに焼き尽くされ、何の罪もない非戦闘員の4人に1人、1,504名の尊い命が奪われた。「思い出すだけでも気が狂いそうだ」と証言されている伊江島の戦争の歴史を知らないはずはありますまい。さらに、日本兵・米兵合わせて4,500余名の血が染み込んでいる小さな島の私たちの土地を、日米安保条約第6条を根拠に取り上げ、米軍に提供し、ここで訓練された兵士がアメリカの国益のために、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン戦争、そしてイラク戦争と、いつのときも一方的な理屈をつけて、沖縄は出撃の基地となり、住民をも無差別に殺す殺人軍団の根拠地となる基地を提供する日本は、直接手を汚さずとも加害者の側の重大な罪を犯していると私は理解していますが、間違っているでしょうか。

 伊江島米軍基地の正面ゲートに向かって立っている団結道場の正門の壁に、「米軍に告ぐ。一つ、土地を返せ、ここは私たちの国、私たちの村、私たちの土地だ。一つ、侵略者伊藤博文、東條の悲劇に学べ。汝らは愛する家族が米本国で待っている。一つ、聖なる農民の忠告を聞け、ならば米国は永遠に栄え、汝らは幸福に生きのびん。一つ、剣を取る者は剣にて滅ぶ(聖書)。基地を持つ国は基地にて滅ぶ(歴史)。1955年5月、伊江島土地を守る会」と大きく書かれている文字を読まれたことがあるでしょうか。

 1970年9月、長い時間をかけて農民たちの手で完成したこの団結道場は、人々によってその後、守り抜かれ、フェンスで固くガードされた基地に向かって今も厳然と立っています。まさに生きるか死ぬかの戦いのとき、先人たちは人間として命の尊厳をかけて妨害にもめげず、つくりあげた誇りある反戦の歴史遺産であります。

 私はこの地を訪れるたびに、小泉首相にアメリカブッシュ大統領を伴わせ、この前に立たせたい。人間の心を持つならば必ず己の間違いに気づくはずだと強い衝動にかられます。相手が鬼ならば私たちは人間になろうと誇り高く生き、非暴力で強大な米軍に立ち向かい島の63パーセントを取り上げていた土地を72パーセントまで取り戻した阿波根昌鴻さんをリーダーとした農民たちの不屈の精神力、行動力は今も人々に受け継がれ、辺野古の基地反対の戦いへと連綿と続いており不滅であります。

 しかし、戦いに敗れてから60年、戦争と軍隊を放棄した平和憲法を持つ日本に沖縄が復帰してから33年の歳月が流れましたが、沖縄米軍基地の整理縮小は遅々として進まず、勇気ある一少女の行動に県民が立ち上がり国を動かし、普天間返還が決まってから10年が経つというのに今も変わらずアジア各地への攻撃・出撃基地となっている。県民多数の反対を無視して辺野古に代替基地をつくる執拗な攻撃が続いており、伊江島ではその間、ハリアー基地、落下傘訓練が増設され、米国のあくなき国益のための野望と、それに追従する日本政府の主体性なき外交、権力と富を手中にする人々、いわゆる戦争屋の心の中に人間の命の尊さを第一義とする基本的な精神が欠落していることを私は心の底から憂います。

 4月上旬、沖縄の地方紙は「普天間ヘリ部隊伊江島へ」と一面トップで大きく報じました。私はついに来るものが来たのかと思い、落ち着かず、すぐに島に渡りました。村長は直ちに声明を出され、「子供たちの未来のためにこれ以上の基地は断固拒否する」と表明され、村議会は全会一致で反対を決議されました。私たちは急遽、立看板を設置し、次のような文書を書いて設置いたしました。「私たちはこの島で人殺しのための訓練をすることをだれに対しても望みません。暴力は暴力しか生み出しません。これから巣立つ子供たちの未来のためにも、戦争をつくり出すどんな部隊もどんな基地もいりません。今、私たちの思いと村長・議会の思いが一つになりました。島ぐるみで反対の声をあげましょう」と書きました。

 四季折々、可憐な草花たちが咲き誇る真謝湾の地に9割近く完成していた働きながら学ぶ農民学校が、土台ごとあとかたもなく破壊され、最愛の1人息子を沖縄の地で殺され、その遺体さえ郷里に帰らず、息の根をとめられかけた阿波根昌鴻さんですが、終生その思いに変わることはなく、再び夢の再現に百歳を超えるまで全精力を注がれましたが、高齢と病魔には勝てず、2003年3月、101歳の偉大な生涯を閉じられました。

 生前に私に贈与された土地は、農民学校建設地の中にあります。米軍によって変形され原型をとどめず、当時の姿は跡形もありません。図面に地番と面積が付されただけの権利書が私に渡されましたが、地主ですら立ち入って確認することを許さない。これが私たちの国、日本政府の基本的人権に対する答えであります。当然のことながら法に基づいて強制的に収用するならば、地主である私を伴って基地に入り、立ち会わせるのが法治国家の当然のあるべき姿ではないのか。

 日本国憲法第29条は、財産権はこれを侵してはならないとあります。そして、3項に私有財産は正当な補償のもとにこれを公共のために用いることができるとあります。この3項を楯にとり、日米安保条約6条とも絡み合わせて、問答無用で全部取り上げられたままであります。一方的な強制収用で正当な補償などできるわけがなく、憲法で戦争を否定している以上、公共とは平和が前提であり、戦争準備のための基地づくりを公共、福祉と混同解釈する行為は論外であります。

 1960年1月19日発効した日米安保条約の第6条は、アジア各地においてアメリカが仕掛けた戦争のたびごとに米軍に都合よく拡大解釈され続け、返還が決まっている普天間基地は10年近い歳月が過ぎた今に至っても手放さない現実と考えあわせ、明らかな憲法違反であると私は考えます。戦争を放棄し、一切の軍備を持たず、国際平和を誠実に希求し、基本的人権を永久の権利として国民に与えた世界に誇る独立国の最高規範である日本国憲法よりも、日米安保が優先する現実は、「この紋章が目に入らぬか」で有名な、時代遅れのアメリカは水戸黄門であります。

 11月4日の公開審理において、私の意見陳述で阿波根さんから私に土地の一筆を贈与された経緯と、今はこの世にいない阿波根昌鴻さんの無念の思いを申し上げました。農民の命の一部である土地を他県に住む私に遺贈しようと考えられた深い思いを、時が経つにつれてさらに重く受け留めています。

 2002年の年が明けてまもなく、入院中の阿波根さんから「すぐに来てほしい」と電話を受け、私はすぐ飛んでまいりました。確実に徐々にそのときが迫り、記憶が薄れかけた中で、私の手を固く握り締めて、ゆっくり一生懸命に語りかけられた最後の言葉は、「久保田さん、1日でも早く県内外から安らぎと平和を求めて、わざわざ来てくださる人々のために家をつくる準備にすぐとりかかってください。お風呂も広くしてトイレも三つつくりなさい。材料は那覇の私の行きつけの問屋で仕入れ、伊江島行きの貨物船で運びなさい」。この会話が私に対する遺言となりました。今はもうそのような材料問屋も船便もありませんが、阿波根さんはこのとき、ベッドの中ではなく、魂は現実を越えて本部の海を渡り、平和で争いのない昔の友人たちの住む伊江島真謝原の土地に帰って、長い悪夢が消え、米軍はアメリカ大陸で待つ家族のもとに帰り、フェンスも何もない開放された豊かな草原で牛たちが草を食み、草花たちが咲き誇る静かな故郷に立ってプランを練り、木の枝でつくった杖で体を支えて土のぬくもりを全身で味わい確かめながら、私に指図されていくだろうと思います。そのことを時間の経過とともに気づきました。人間が人間を殺す、愚かしい戦争の実態を私たちは十分学んだはずです。

 私は軍国少年として天皇のためにいつでも死ねる教育を叩き込まれ、それを信じて生きてきた少年期を持っております。そしてその後、唯一の地上戦の現場となった沖縄とのかかわりあいの中で、軍隊は決して国民を守るためにあるのではないことを強いられました。天国で見守る阿波根昌鴻さんと、そして決して魂を売り渡さない反戦地主の人々、広く平和の世をつくります人々ともに歩み良心の命じるままに、たとえ戦争屋から非国民と呼ばれようと、人殺しのためなら一坪の土地も使わせない。そのために契約を拒否することを改めて表明し、1日も早く土地を返してほしいと要求し意見陳述を終わります。
○渡久地会長 
 次の発言予定者、伊佐真政さん。
○伊佐真政(嘉手納基地土地所有者) 
 こんにちは。反戦地主の伊佐真政であります。

 私の土地は米軍基地嘉手納弾薬庫にあります。この土地は祖先から受け継いだものでありまして、私のおじいさんの苦労が実ってやっと手に入れた大事な田んぼでありました。私は三代目でありますが、代々稲作をつくって生活の糧にして暮らしてまいりました。

 朝鮮戦争の直後でしょうか、1952年あたりまではその田んぼを使って稲も植えておりました。小学校の3年生でしたのでよく覚えています。

 ところがその頃、突然米軍がその土地を囲いまして立入禁止になりまして、そして僕の田んぼは土砂で埋められまして、その上に弾薬庫がつくられました。米軍の軍用道路、道もたくさんつくられました。

 その頃で言いますと対日講和条約ができまして、そして安保条約が取り交わされて本土の米軍基地が次々と沖縄に移されてきた頃であります。沖縄ではといいますと、布令・布告が乱発されて米軍の基地となっていきました。いわゆる銃剣とブルドーザーによる県民土地財産の強奪であります。私の土地も例外ではありませんでした。私はこのような一方的な米軍の土地強奪に対しては賛成できません。

 それから、もちろん戦争のために土地を貸すことは反対であります。私自身が沖縄戦のときには3歳ではありましたが、かすかに覚えております。やんばるに避難してきた苦しみですね。先週もやんばるルートを回ってきましたが、よみがえってきました。

 そして、成長していくにつれて、戦争の本質が何であるかを知ってきました。私の父は、米軍との南部の迫撃戦の中で負傷して、生還はしましたが、眉間に傷を負って、相当その後遺症で苦しんできました。戦友はみんな死んでおりますので、そのことが脳裏にありまして、酒を飲むごとにそういう無念な気持ちといいましょうか、生き地獄がよみがえって非常に苦労してきました。結局それが原因となって41歳で亡くなりました。

 それから、私の母は、母の父親、おじいさんが南洋でまた亡くなっております。母の実家を継ぐしっかり者の長男、弟も徴用に取られまして首里のナギラあたりで米軍の空襲で命を落としております。

 そして、僕の家は戦前は篤農家でありましたが、その家、屋敷もみんな壊滅的な状態で壊されていました。もう戦後の苦しい生活も始まっております。このように戦争による犠牲というのは、私たちの家族だけではありません。沖縄県民が大変な、想像を絶するような犠牲を蒙っていることはご承知のとおりであります。

 そういった意味から戦争に関係する土地にはさせないというのが信念であります。戦争は、本当に人の命を軽々と奪う悪魔の行いでありますし、また、生きていてもそのものから夢や希望、青春、心、魂などを奪っていきます。財産や人間性を奪っていきますので、そういうことは絶対に許すことができません。

 それから、戦後終戦60年になりますけれども、ご承知のとおり世界には様々な戦争がありました。朝鮮戦争から始まりまして、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争とありましたがそのたびごとに沖縄の米軍基地は利用されております。この関係する国々に攻撃に行きまして、その国の国民といいましょうか、人々を無差別に殺していく。そこの自然も破壊していく。そういうことを考えた場合に、私自身の戦争体験からも分かりますが、本当に許せない行為であります。

 そういう意味で、この沖縄の基地は、こういった戦争の状況から見ても分かりますとおり、極東から次第に東南アジア、中近東、世界に広がってきて、日本がアメリカの戦略基地に組み込まれている状況があります。そういうことからしても、これは許されない行為だと思っています。

 それから、米軍の支配27年、復帰して33年、戦後60年になりますけれども、この間に、沖縄の米軍基地というのは本当に沖縄の発展を阻害していると思います。そのことはこれまで返還されてきたところを見ればはっきりします。例えば、具志川のみどり町です。北谷の美浜とか、那覇の新都心、そういうところを見れば、土地が返還されましたら間違いなく発展しております。

 日本の中で汽車が通らないところは、沖縄だけですね。そういうことからも分かりますが、とにかく米軍基地は沖縄の経済的な、平和的な発展を阻害しているわけであります。そういう意味でも、私は軍事基地はないほうがいいと思っています。

 それから、これもよく分かりますが、米兵の犯罪とか事件事故、爆音による騒音の被害、あるいはまた米軍演習による火災、自然破壊、それからヘリコプターや米軍機の事故など、これは言わなくても分かりますが。こういうような、本当に沖縄県民の人命というのは保障されてないです。危険にさらされております。

 沖縄の米軍基地の根拠は安保条約と言われますけれども、しかしそれは日本全体の基地の75パーセントも集中するような、一方的な負担になる根拠になるでしょうか。沖縄だけが被害を蒙っているような感じがいたします。

 そして、米軍は日本の軍国主義復活を抑止するんだとか、あるいはまた日本を軍事的に守っているとか、そう言う人もいますけれども、本当にそうでしょうか。今回の自衛隊のイラク派遣見た場合に、むしろ日本は危険なアメリカの世界戦略に組み込まれていくような印象を受けております。

 安保条約の下で沖縄が平和的に守られているという論理もありますが、むしろ逆ですね。被害、本当にいっぱいあります。私は沖縄のこの実態、あるいは歴史的な背景、こういったことから、沖縄の米軍基地は諸悪の根源といいましょうか、沖縄の平和的な発展を阻害するものとして、また人権を無視するものとして、以上のような立場から糾弾します。

 そういう意味で、私は米軍基地に土地は貸しません。以上であります。
○渡久地会長 
 それでは次、照屋宏さん、ご発言いただけますか。
(発言する者あり)
 予定表では照屋宏さんとなっているんですが。
(発言する者あり)
 それでは内間清子さんのご発言ということでよろしいですか。
○内間清子(牧港補給地区土地所有者) 
 こんにちは、私は内間清子と申しまして、浦添の城間に住んでいます。私の家族ですけど、母がいて、母も亡くなりまして、長男は基地にハウスボーイとして働いていましたけど、長男は事故に遭いまして亡くなりまして、今は私と姉と2人おります。

 私がいつも考えていることなんですけど、公開審理って私たちも希望をもって来るんですけど、10分に話しなさいと言われて、いつも私は2時間半ぐらい話すんです、こういう話になると。この2時間半を10分に縮めるということは、口下手と文才のない私にはとっても至難の技なんです。だから、公開審理というのは、本来私たちの訴えをよく聞いてもらって、この土地の何々しようとか決めると思うんですが、私たちはいつも早口で、自分の思いを十分に伝えられなくて、それで終わってしまうんです、私のほうは。

 それで、きょうは、前に述べたのもあるんですが、ちょっと残った、言い残しというんですか、前も7分ぐらいで話しなさいということで、随分カットしたんですけど、きょうはその続きということで……
〇渡久地会長 
 ちょっとよろしいですか。2時間何分というのは、ちょっと不都合ですが、きっちり10分でなければいけないということではありませんので、そのつもりでどうぞ。そして、もう少しマイクを近づけてご発言いただければ聞きやすいかなと思いますので。
○内間清子(牧港補給地区土地所有者) 
 きょうは私も、前もって連絡を受けたんですが、私の家の事情でちょっとまとめてないので、あちこち飛ぶと思うんですが、そちらのほうは我慢して聞かれてください。

 私は、牧港補給基地キャンプ・キンザーに、母から受け継いで、私が今、反戦地主として契約を拒否していますけど、このキャンプ・キンザーの中に昔の墓地、スクグチというんですけど、その地番名ですね。そして、あとは畑、トーガマーというんですけど、そこに土地を所有しているんですが、ずっと契約してくださいというふうに、防衛庁の方が時々見えるんですけど、私はこれにとっても不信を持っているんです。

 私たちは、未契約軍用地地主ということで組織があるんですが、そこを飛び越えて個人の家に契約を迫りに来るということは、どういうことなのか。一応そういう組織を通して個人に連絡があるなら分かるんだけど、時々ぱっと見えて、1分でいいですから話してくださいとか、そういう契約の強要というのはやめてほしいと思います。それは来るほうは分かりませんけど、来られるほうとしては、とても頭にカチンとくるんです。1分で何が話し合えるんだと思うんです。こっちの思いが契約を拒否している。目的が伝わらない。

 それで、今からは契約をお願いしたいんでしたら、未契約地主の組織のほうにも連絡して、そこから許可もらうようにして私の意見を聞きに来ればいいんですけど、一方的に契約してほしいと何回も来られて、とても困るんです。私のほうも忙しいです。

 そして、この牧港補給基地のキャンプキンザーなんですが、普段はとても静かで、あんまり米軍も見えない。とっても平穏に見えるんですが、中はとっても危険なんです。いろんな毒ガスが入っているとか、そういうのもあって、一旦どこかで戦争が始まったら、その動きというのはすごく激しい。

 それで、私はこの軍用地に貸すというのもできないんですけど、基地内で6〜7年前に火災があって、そこに次亜塩素カリウムと。加熱したらこのガスは人体に有害というのがあって、そこのほうはこのガスが漏れたときはこっちから通らないようにという知らせが自治会とかからあったんですけど、それはとっても危険ですから通らないようにと言われても、私たちはここを通らないと家に帰れないですよと言いたくなるくらいなんですけど。そういうガス類があるというのもあるんです。そして、有毒ガスが発生して、自分の家にも来るなとか言われたって、私たちはここに住んでいるからどうすればいいんですかと言いたくなる。

 それで、一日も早い撤去をしてほしいということと、あとは、この牧港補給基地はアメリカの戦争にいつも使われている。朝鮮戦争からベトナム戦争、そして今のイラク戦争。補給基地ですから、使用されるというのは、よその国に行って人を殺すということですね。殺戮、これ私たちが一番聞きたくない言葉なんですが。沖縄戦で父も兵隊にとられて亡くなって、今私は、父親がいない、姉もいない、母もいないということで、とっても時々寂しい思いをしますけど。そういう基地の使われ方、いつも玄関を出たら基地が見える。そういう生活はもう二度とごめんですと言いたいぐらいなんです。

 新聞にもあるんですけど、これもベトナム戦争のこと、遺体を洗って生活のために、軍雇用員だけどそこに働いていた、感覚が麻痺していたというふうに載っているんですが、私もその頃、64年から基地従業員として働いていたんですけど、思い出しても、私たち地主はそういうのはやってないんですが、やってないから見逃すというようなことはできないんです。

 そして、その補給基地自体が戦争が起こったら華々しく動くということを、私自身も働いていて分かりますので、一日も早い返還をしてほしいということです。でも、あんまりまとめてもないですので、いろいろと話したいことはいっぱいあるんですけど、あっちこっち飛んでいるんです、これ。

 私がそれ以外に感じていることなんですが、基地に立ち入らせてほしいと言っても、いつも拒否されているんです。髪の色、目の色まで書いて、それじゃあ入れるんだと思ったら、入らさない。地主としては、自分の土地がどういうふうに使われているか、それがとっても知りたいんです。それはもう、もうちょっと入らせてほしいというときは、防衛庁でも、あんたの土地だから、ここだから、入ってよく見なさいと言われるなら分かるんですが、髪の色、目の色、背の高さ、肌の色まで書いて、それは入らさないというのは、もう本当これはどうなっているのよって頭にくるんです。

 なぜですかと言ったら、安保条約があるからと。安保条約といったって、日本の法律をよけて安保条約優先で私たち地主を閉め出して、どういうふうに使われているかと言っても中に入れてくれない。確認させてもらえない。そういうのはとっても地主たちは耐えられない。税金も払っておりますから。

 だから、次からは地主入りたいんですと言ったら、あなたたちはこっちですよ、どうぞ見てくださいというぐらい、広い気持ちをもって、米軍に入らせないと、この人たちが地主なので入らせなさい、それぐらいの強い力で立ち入らせてほしい。私はいつもそう思っています。何てだらしがない防衛庁なんだと思っています。もうちょっと厳しく米軍に言うべきことは言いなさいと。どこの土地なんだと言いたいんです。ここはどこの国ですかと言いたい。アメリカの国ではない、沖縄なんだと言いたい。そこを防衛庁さんもよく聞いて、次から入らせてくださいと言ったら、入らせてください。そういうことなんです。

 それから次は、契約なんですが、これは個人にはこないでほしい。一応未契約軍用地というか、会に入っていますので、そこを通して私のほうに連絡してもらってください。勝手に来られたら困るんです。以上です。

 キャンプ・キンザーの返還なんですが、前は平成17年頃でも聞いているんですが、いつ頃になるんですか。1日も早い返還をお願いしたい。いろいろ使いたいことも私も契約していますので、もう殺戮に使うのはやめてほしい。

 土地というのは植物を育てて、それを私たちは食べて食事にして取り入れて命をつないでいますので、地産地消というんですか、アメリカからの輸入品が毒入っていても食べたくないなと思っていても食べるのがないと、食べないといけませんのでね。なるべくアメリカの製品は買わないようにしていますけど。沖縄県産を買っていますけどね。だから安心して食べられる野菜とか芋とか、そういうのは私たちの命をつなぐものですから、そういうふうに土地は有効に使いたいです。

 だから1日も早い返還を。そして、地主が立ち入って自分の土地を見たいと言ったら、こっちですよというのは確認してほしい。どういうふうに使われているか、とても気になります。玄関を出たら基地が見えますし、そこの基地をいいように使ったらいいんですけど、殺戮のためにその補給基地が使われていると。

 そして、那覇の軍港が浦添に移設されるというのを聞いて、私なんか絶対反対しますけどね。一つの、いまでも基地というのは鳥肌が立つぐらい嫌いなんですよ。それに軍港が来てしまったら、もう補給基地というのは永遠に返ってこないというか、自分の土地ですよ。だからもう軍港なんかとんでもない、アメリカに持っていけばいい。今の補給基地もアメリカに持っていってほしい。私はいつもそう思っております。反戦地主の1人として。以上です。
○渡久地会長 
 次、予定されていますのは島田善次さんでしょうか。
○島田善次(土地所有者) 
 私は、宜野湾市嘉数に住んでおります島田善次と申します。

 生まれは1940年8月3日に生まれました。太平洋戦争の始まる1年前で、最後の44年、45年はほとんど覚えております。

 現在、職業は宜野湾告白教会の牧師をしております。そして、ご存知の普天間爆音裁判の原告団長をしております。

 1974年に那覇に帰り、自給開拓伝道を始めました。その間、長男が与えられ、生活していたんですけれども、環境が悪く強度のぜんそくに罹って、医者から転地療養するほかないと勧められまして、現在の地に移ってまいりました。今の地は座っていて海の見える日当たりのよいところでありました。ここならば子供たちを安心し豊かに育てることができるだろうと思ってきたのですけれども、大変なところでありました。

 土曜日に引越ししてきたものですから、その土曜日と日曜日は爆音はありませんでした。ところが、3日目の月曜日から爆音の雨あられにさらされる状態が始まったんです。私たち夫婦の喜びはたった2日しか続きませんでした。そういうようなことで、今、私が住んでいるところは嘉数ですが、進入路にあたっていて、ヘリコプターの乗務員の顔が見えるぐらい近いところを飛んでおります。

 そういう状況の中で越してきたばかりでしたので我慢しておりましたけれども、その地において2番目の娘が与えられました。その娘が生まれたときに1人で寝かせておりますと、爆音で驚いて飛び起きて壁にぶつかるようになりました。しまいにはひきつけを起こして母の乳を吸わなくなる。もう限界でした。私はこの状態をなんとか改善しなければならない。一体こういう状況が人間の住む地であろうかということで行政のほうに行きました。当時の市長に会いまして、この状況を改善するようにと。

 ところが、当時の市長は、「基地は金のなる木」だと言って全然話にならないんです。次の選挙で落としてやりましたよ。やむなく私は基地司令官に直々に会いに行きました。司令官の第一声が「どうして牧師がそんなことをするのか」と。そして、「君は赤か」と言われました。「私は色は黒いけれども赤くはないよ」こういう珍問答をして帰ってきたんですが、最後に、「最後までやりぬくから腹をくくっておきなさい」と。それが1989年の4月。つくづく思いました。物言わぬ民は滅びると。

 そこで私は行政も頼りにならない。米軍もどうにもならない。友人たちと一緒に市民の会を立ち上げました。何とかしてこの爆音、あるいは普天間基地を撤去しなければならないと。普天間基地を撤去する市民の会というのを立ち上げました。その間に一坪反戦地主会の運動が起こりまして、私は喜んで入会しました。牧師の仕事は何ですか。命を守り育むことじゃないでしょうか。一坪反戦地主の方々が、この土地を、基地を取り戻して生産と、生活の場に生かしていくという、まさに私の理念と一致したものだったからです。そういう中で2002年に普天間爆音裁判を起こしました。400名の原告をもって今争っております。ご存知のとおり、ここはもう人間の住む状況ではありません。

 私は、きょうは時間がありませんので、普天間基地の歴史や数々の事件については申し上げられませんが。

 ところで、収用委員会の皆さん、私は皆さんに重大なことを一つだけ刻んでほしいと思っております。

 そのことが明確になるならば、普天間基地の爆音も基地に悩む沖縄県民の思いも達成されると思います。あるいは危険性も無条件に解決されると思っております。

 それはどういうことかと。今回の皆さんの立場です。今回の皆さんの立場はこれまでの収用委員会の立場とは異なるということです。どのように異なるか。どういうふうに異なるのか。これまでの収用委員会は、私たちがどんなに普天間基地の危険性を訴えて、使用申請を却下してくれと言っても聞く耳をもちませんでした。しかし、今回の使用申請に対する皆さんの決定は、沖縄国際大学へのヘリ基地墜落で、だれもがこの普天間基地が危険であるということは承知したはずです。そのような状況下で判断を下す皆さん方、その決裁というのは責任は重大と言わざるを得ません。基地の危険性が明らかになっておりながら、たとえ使用期間を短くして認めるにしても、その間に今回のようなヘリ事件が起こったならば、これは明らかに皆さん方の責任であります。すでに久米島でまた同じような事件が起こっております。

 私は皆さんに聞きたい。このような目に見える危険が発生している中での決裁です。その責任をとれますか。万が一皆さんが認めるようなことがあって、その間にあのような事件や事故が起こったときに責任がとれるかどうかをお聞きしているんです。宜野湾市民や県民だけの問いではありません。基地をもっているところの不安であります。

 あのヘリ墜落後の国際大学グラウンドにおける3万人余の抗議集会。去る5月15日の普天間包囲網の人。皆さんの目にも焼きついていると思っております。どうでしょうか。皆さん方の今度の決裁は責任重大です。私から申しますと、責任をおそらくとれないと思います。とれないならば即刻、却下するほかないではありませんか。即刻、却下してください。

 このようなタイトルの冊子があります。(冊子掲示)このタイトルが目に入ると思います。この紋所が目に入らぬか。「最後の警告」という冊子です。これが今皆さん方が直面している決裁の状況なんですよ。世界のどこを探しても市のど真ん中に基地があるところはない。

 私は教会関係で牧師の友人がドイツにもいます。イギリスにもおりますけれど、沖縄だけだと。こう言っているんですね。

 そして、もう一つは5月24日のタイムスの夕刊に県政与党である者たちまでが、辺野古への見直しを、あるいは普天間の県外移設を主張している。県民世論10パーセントにしがみついていた彼等さえも、いかに普天間基地が危険であるか。こういう状況の中で一刻も早くこの普天間基地を返してほしい。米国防省も言っておりました。事故が起こらないのが不思議だと。もう日本政府もここまで来て見ぬふりはできません。だから、あのようにあわてているわけです。

 収用委員の皆さん、このような現実を見て、このような状況の推移の中で使用を認めますか。責任とれないことはやらないでください。大人は責任がとれることをするものなんです。

 そして、ここにさらにもう一冊の冊子があります。「爆音と住民」という本ですが、この冊子の中に、宜野湾市内で学ぶ子供たちの声が記されております。飛行機がまたいつ落ちるか分からないと勉強も手につかないと叫んでいるんです。この叫びにもどうか耳を傾けてほしいです。

 さて、次は防衛庁の方々に聞きたいと思います。このような危険や事故が起こり、市民の生命財産が危機にさらされていることを知りながら、なお使用したいと申請するという。私たちは糾弾いたします。同時にまた聞きます。危険が明白でありながら、またもや申請しているこのことに対して、新たな事件が起こった場合には責任がとれるのかどうか。

 どうですか。金で解決のつくような問題ではないんですよ、沖縄の今日は。

 先ほど言いましたように、私は進入路の下ですので、爆音が非常に激しい。窓が泣きよるんです、ガタガタガタ。そこで私のところに、防音工事させてくれというふうに何度も来ました。しかし、防音工事では解決しないということで、私は拒否し続けている。ところが、あまりにも爆音が激しいゆえに、防衛庁に抗議しましたら、何と言ったと思いますか。防音工事してやったじゃないかと。これが現実なんですよ。

 もう一つ、SACO合意のことです。5年や7年で返すと言った。もう何年になるんですか。どうして約束を守りませんか。鉄面皮で、それでもまだ申請するんですか。もう何年になりますか。あなた方の都合によって、我々がこのような危険な目にさらされているわけですよ。先ほどから言いますように、基地は公共の福祉のためになっていると。公共の福祉であるのはいいけれども、それがどうして宜野湾市民や沖縄県民だけ犠牲にならなければならないんだ。それに答えてくれ。

 そういうことには誠心誠意答えようとしないで、なじまない、なじまないということばっかり言っている。己のことばっかり突き通そうとする。

 どうですか、建設部長。施設部長かな、どこの部長でもいいけど。こういう現実を目にしておりながら、なお使用申請するという。こういうことも併せて、収用委員の皆さん、どうか勇気を持って却下してほしい。

 これ以外に、先ほどからるる述べられているような人たちの思い、あるいは県民の思いというものは伝わらないと私は思っております。そういう意味で、どうか皆さん方の正しい判断をお願い申し上げて終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
○渡久地会長 
 15分程度休憩いたします。3時20分から再開いたします。
 休憩いたしましょう。
(午後3時4分 休憩) 


資料提供:安里秀雄さん


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