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第141号(2002年11月28日発行)

【連載】
 やんばる便り 30
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)
 
 一九三七(昭和一二)年九月、宮里金吉さんは、新婚の妻・千代さんを伴って再びフィリピンの地を踏んだ。
  

 ここで、金吉さんと結婚するまでの千代さんの生い立ちについて触れておこう。千代さん自身、当時の多くの家族がそうであったように、決して平穏無事ではない子ども時代を経てきている。
 千代さんは金吉さんより八歳下の一九一七(大正六)年生まれ、旧姓も宮里だが、金吉さんとは同じ門中(ムンチュー)ではないという(久志グヮーは宮里姓が多い)。

 両親は、長女の千代さんと妹が生まれてまもなく、二人の子どもを置いて大阪へ出稼ぎに行った。千代さんはまだ幼かったので詳しくは覚えていないが、父は大阪でセメントの仕事をしていたらしく、帰郷するとき、井戸を作る道具を持って帰ってきた。帰郷後、彼はシマの井戸をコンクリートで次々に作り替え、以後、久志グヮーの井戸はすべてコンクリート製になったという。このエピソードは、出稼ぎによる外からの新たな技術や文化、意識などの流入がシマの近代化を促した一例として興味深い。

 千代さんに言わせると「父は非常に働き者だった」。そのせいかシマに落ち着いていることができず、千代さんが数え一三歳のとき(一九二九=昭和四年)、千代さん、妹、大阪で生まれた弟の三人の子どもを置いて、夫婦でブラジルへ渡ってしまった。父は当時、満三五歳。父の弟(千代の叔父)もいっしょに渡航した。なお、母の弟二人は、それぞれ一九二八(昭和三)年と一九三八(昭和一三)年にフィリピンへ渡っている。

 残された三人の子どもたちは別々に、シマの親戚の家に預けられた。兄弟をいっしょに養えるほど余裕のある家はなかったのだろう。千代さんは父方の祖父母の家に預けられ、田畑や山の仕事を手伝った。「当時はお金になるものは山にしかなかったよ」と、千代さんは言う。山から採ってきた薪を売店で品物と交換して生活していた。

 ブラジルに行った両親は、サンパウロ州の山を開墾して農業に従事していたが、生活が少し落ち着いた一九三四(昭和九)年、千代さんより三歳下の妹を呼び寄せた。「私はそのとき一八歳だったから、呼び寄せてもすぐ嫁に行ってしまうから労働力にならないと思ったんじゃないか」と千代さん。本人自身もブラジルには行きたくなかったという。両親の間にはブラジルでさらに五人の子どもが生まれたが、それらの兄弟も両親もブラジルに永住。戦後、千代さんは何度か遊びに行った。

 両親に加えて妹もいなくなると、千代さんはとても寂しくなった。当時、近隣のシマも含めて多くの娘たちが紡績出稼ぎに行っており、彼女たちが着物などをたくさん持って帰郷してくるのを、千代さんはうらやましく思っていた。ここで淋しい思いをしているより紡績に行ったほうがいいと思った千代さんは、紡績会社の募集人が回ってきたのを機に、反対する祖父母を説得してシマを旅立った。行き先は岡山県の倉敷紡績で、久志グヮーから四〜五人がいっしょに行った(一九三五〔昭和一〇〕年頃?)。


 行きたくて行った紡績工場だったが、慣れない仕事はきつく、楽しみもあまりなくて、シマが恋しかった。仕事がつらくて工場を逃げる人たちも少なくなかったが、千代さんは逃げずに我慢した。勤務しておよそ一年後、祖母が亡くなったという知らせが来たので帰郷した。憧れの着物は少し持ち帰ることができたという。

 帰郷してまもなく、宮里金吉さんの母親から、千代さんをフィリピンにいる金吉さんと結婚させたいという話があった。話が決まれば、金吉さんは妻を迎えに帰ってくることになっていた。千代さんによれば「昔は部落外の人とつきあったり結婚したりするのは禁じられていたんだよ。それを破った人には罰金があってね、青年会に罰金を払うの」。すべてを人力に頼っていた時代、若い労働力が流出するのを嫌った風習がまだ残っていたのだろう。千代さんは、金吉さんと結婚したらフィリピンに行かなければならないことはわかっていたが、それには抵抗はなかったようだ。シマからたくさんの人がフィリピンに行っており、とてもいいところだし、儲かるとも聞いていたからである。

 実は紡績に行く以前に、隣家の青年も千代さんを妻にしたがっていたが、千代さんは嫌だったので断ったという。彼の家は那覇からの寄留民でウェーキンチュ(金持ち)だったらしい。千代さんが結婚を断ったのと関係があるのかどうかはわからないが、この青年は一九三四(昭和九)年にブラジルへ渡っている。千代さんは、彼と結婚していたら、ブラジルへ行かなければならなかったはずだから、結婚しなくてよかったと語った。

 ブラジルに対する千代さんの忌避感には、家族を取られたという思いも混じっているのかもしれないが、実際に、熱帯性の熱病や伝染病に悩まされながら過酷な開拓に明け暮れたブラジル移民に比べ、気候が穏やかで土地の肥えたフィリピンは、はるかに条件がよかったのは確かだ。その情報がシマにも届いていたのだろう。「あんなにいいところはほかになかったと思うよ」と、千代さんも金吉さんも口を揃える。
 

 さて再渡航した金吉さんは千代さんとともに元の居住地(ラサン)に落ち着き、仕事に戻った。その後、ラサンから、もっと奥地のタモガン耕地に移り、麻を一万株ほど栽培したという。「相当な面積だったけど、数字は覚えていないさ。面積ではなくて麻の株数で計算していたからね」。株と株の間は一間(九〇センチ)くらい離して植えていた。

 麻の栽培は多くの人手が必要なので、金吉さん夫婦は常時一〇人ほどのフィリピン人を雇っていた。現地の言葉を覚えなければ人を使えないので、夫婦は一生懸命覚えたという。スペイン語が基本で、地方や部族によって少しずつ違っていたと金吉さんは語るが、部族ごとのもともとの言語が、スペイン占領時代を経て変容していったのだろうか。「当時は日常会話には不自由しないくらいだったのに、何十年も経って忘れてしまったさぁ」

 フィリピンは自然が豊かで、野山にはたくさんの果物が実り、働かなくても食べられるので、人々はゆったりと暮らしていた。「フィリピン人は安くで雇えた」というのも、彼らにはお金を稼ごうという欲望があまりないのをうまく利用したと言える。

 現地の人たちが川でのんびり魚釣りをしているのを、金吉さんはよく見かけた。塩だけを持っていって、釣った魚を切った竹に刺し、その場で焼いて食べていたという。また、彼らは遊ぶのが好きで、「よくトゥイオーラセー(闘鶏)をして遊んでいたよ。お金を賭ける博打だったと思う。鶏の脚に剃刀を着けて闘わすから、やられた鶏は死んでしまう。日本人はただ見ているだけだったね」

 金吉さんは毎朝四時頃に起きて、麻の糸を引き、それを干してから朝食を摂った。それからまた夕方まで働く。千代さんの主な仕事は、引いた糸を干したり、草取り、炊事などだった。耕地はとても広いので、隣の家までは遠く、同じシマの人でもあまり会うことはなかったという。「フィリピンには沖縄の人だけでなく、福島の人も多かったよ」と千代さんは言った。

 日曜日は麻の仕事は休むが、薪割りの仕事があった。燃料はすべて薪なので、一週間分の薪を割っておくのである。飲み水は天水を利用した。近くに川もあったが、泥水で飲めない。川には鰐が棲んでおり、毒蛇のいないフィリピンでいちばん恐いのはこの鰐だったという。天水は、屋根をトタンで葺き、雨樋を付けて、下に据えたタンクに貯めた。毎晩雨が降るので水には不自由しなかった。
 

 「ゆっくり生活できた」と千代さんが懐かしそうに語る暮らしの中で、長男、長女が誕生した。「フィリピンに来てよかった」と千代さんはしみじみ思ったことだろう。だが、その穏やかで幸せな暮らしはわずか数年しか続かなかった。

 一九四一(昭和一六)年一二月八日、日本軍によるハワイの真珠湾攻撃と同時にフィリピンも戦時態勢に入り、金吉さん一家も戦争に巻き込まれていく。家族はバラバラになり、千代さんは逃避行の中で、連れていた数え三歳の長女を栄養失調で亡くしてしまう。「戦争さえなかったら、と今でも思うのよ」と、千代さんは噛み締めるように言った。      
   (以下次号