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『一坪反戦通信』
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 第142号(2003年1月28日発行)

【連載】
 やんばる便り 31
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)


 私の手元に「フィリピンでの戦争体験記」と題する宮里金吉さんの手記がある。何かの冊子への寄稿(「戦争が終わって三八ヶ年‥‥」とあるから、一九八三年の執筆と思われる)で、そのコピーを金吉さんが名護市史編纂室に提供したものだ。

 この手記と、金吉さんのお連れ合いの千代さんの話から、金吉さん一家の戦争体験をたどってみたいと思うが、その前に、フィリピンにおける戦争の全体像を見ておこう。


 『金武(きん)町史《移民・本編》』によれば、フィリピンにおける日本軍の戦没者数は約四九万八六〇〇人(厚生省発表)で、これは、いわゆる一五年戦争全体の戦没者三一〇万人の一六%に当たる。そのほとんどは、太平洋戦争末期、一九四四年一〇月のレイテ決戦以降の死者であるという。

 「戦闘にまきこまれた在留邦人の犠牲者については明確に把握されていない。移民がもっとも多かったダバオでは総領事館の記録によると、『大戦中に五〇〇〇人、終戦後の米軍収容所内で三七〇〇人』が犠牲になった」(『金武町史』)といい、フィリピン各地の在留邦人の死者を合わせると一万人以上ではないかと推定している。

 一方、自分たちの意思や利害とは関係なく、アメリカと日本の戦争に、土地や人命まるごと巻き込まれてしまったフィリピンの一般住民はどうだったのだろう。『金武町史』に引用されている記述を孫引きすることをお許し願いたい。

 「東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フィリピンが戦争によってもっとも破壊された。フィリピン人は全体で一一一万一九三八人が戦死した。このなかには、戦場や日本の捕虜収容所で死亡した兵士たち、また日本軍によって虐殺された市民(男性・女性・子供たち)が含まれている」(越田稜著『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』より。フィリピンの高校二年生用教科書の記述を訳したもの)。日本人と比べても、フィリピン人の戦死者がいかに多かったかがわかる。

 一九四一年一二月八日、真珠湾奇襲攻撃と前後して、日本軍はマレーとフィリピンを専制急襲する陸海軍共同作戦をとった。同日早朝、フィリピン北部のルソン島、南部のミンダナオ島ダバオの米極東軍施設を空襲して壊滅的打撃を与え、三日後の一〇日からルソン島への上陸を開始した。ミンダナオ島ダバオには同月二〇日に上陸し、日米開戦と同時に敵国人として強制収容されていた日本人移民たちを救出した。

 米比軍はマニラを「無防備都市」とし、主力をバターン半島に配備。明くる四二年一月二日、日本軍はマニラに入城し、翌三日、軍政を布告した。四月にはバターンで日米の激しい攻防戦が行なわれ、勝利した日本軍は、米兵一万二〇〇〇人、フィリピン兵六万四〇〇〇人の捕虜と難民二万六〇〇〇人を、八八キロ離れた収容所まで徒歩で移動させたが、飢えと疲労、暑さと病気で弱り切った人々は次々と倒れ、死んでいった。日本軍の悪名を轟かせた「バターン死の行進」である。

 開戦から約六カ月で日本軍はフィリピンのほぼ全土を占領。これに反抗するフィリピン人を逮捕・処刑するとともに、フィリピン民衆に日本軍政への協力を強要し、皇民化教育を押しつけた。日本軍に暴行されたり「慰安婦」にされた女性たちも少なくなかった。

 フィリピン民衆は抗日ゲリラでこれに抵抗した。日本軍は「ゲリラ討伐」と称して住民への拷問や虐殺を繰り返した。一方、在留日本人には食糧増産への協力や勤労奉仕が義務づけられた。

 四三年に入って戦局が大きく転換し、連合国軍の反撃が強まってくると、在留日本人も徴用・徴兵され、四四年七月の「サイパン玉砕」後は、軍命によって、女性や子どもも含め日本人全員を「軍属」と見なすという総動員体制に入っていく。八月にはダバオ上空に米軍機が飛来、九月に入って空襲が本格化した。そして、四五年四月の米軍上陸以降、日本人移民たちは山中に避難、逃げまどうことになったのである。


 さて、話を金吉さん・千代さん夫妻にもどそう。金吉さんの手記には戦争の始まりが次のように書かれている。

 「その(一二月八日の)朝、日本軍によるハワイの真珠湾攻撃と同時にダバオ湾港に爆弾投下の爆撃が聞こえるのです。雇用人が仕事場から騒いで言うには、『アム ゲーラ。ノート ラバオ』‥‥」

 雇用していたフィリピン人のこの言葉を、金吉さんは「戦争だ。仕事はできません」と訳しているが、「アイ アム ゲリラ、ノット レイバー」だと考えれば、「私は今日から(抗日)ゲリラだ。労働者(雇用者)じゃない」と訳したほうがいいのではなかろうか。そう言って彼は帰ってしまい、「私(金吉さん)はただ呆然となり、ああ戦争か、と先々の不安に胸を痛めた」のである。
 「かねがねから領事館より各耕地の邦人に戦争が勃発したら邦人は民団を組織し、各要所に集合するように、と通達がありましたので、準備を整えて避難所に行く‥‥」

 「その翌日、男性と婦人子供等を分けて、男はダバオ市のフィリピン小学校に、婦人子供等は近くのカリナン(日本人)小学校にそれぞれ集結され、フィリピン兵に厳しく監禁」されることになった。近くの小学校に収容された千代さんによれば、わずかばかりの食べ物が配給され、川に洗濯に行くときもフィリピン人の監視兵が付いてきたという。

 一二月二〇日、日本軍がダバオに上陸し、収用されていた日本人を解放したので、金吉さんも千代さんも元の生活に戻る。

 「日本軍が上陸してからしばらくの間、邦人は自分等の自営業にかえり、麻挽き仕事やその他食糧生産に励み、軍部にも食糧並びに種々の物資を供出したりするうちに陸海両軍の飛行場建設や陣地構築等あらゆる協力の最中、米軍機が(ママ)爆弾投下が始まり、戦況は次第に悪化し、日本軍の守備隊は後退し続け、もはや力尽きて後方へと退陣退却し、遂に在留邦人とともにジャングルを徘徊し、五カ月間も山中をさまよい、食糧のために兵隊と邦人間には何度もトラブルが起こり、栄養失調で死んでいく人も多く出た」(金吉さんの手記より)

 タモガン耕地にあった金吉さんたちの麻山の奥で、親戚の夫婦が米軍の飛行機から撃たれて亡くなった。金吉さんたちの家も機銃で焼かれてしまい、一家は、仮小屋を作って、ここに一週間、あそこに何日と、寝泊まりしながら山奥へ山奥へと避難した。「歩く道に人がたくさん死んでいたよ」と千代さんは言う。「食べ物がないので、米軍が捨てていった残飯を拾って食べたこともある。兵隊と民間人の食糧の奪い合いはしょっちゅうだった」

 当時、長男は数え六歳、長女は三歳だったが、千代さんは栄養不良で母乳も出なくなった。「山中でご飯を炊こうとして火をおこすと、火を恐がりもせず寄ろうとしていた娘を今でも思い出すのよ。それほどお腹がすいていたんだろうねぇ‥‥」

 栄養失調と不衛生から赤痢にやられてしまった長女を、なす術もなく亡くしてしまった金吉さんは「戦争のために死亡し無念の涙に打ちぶれ」た、と書いている。遺体は山中に埋葬したまま、遂に遺骨を取りにも行けなかった無念を、夫妻はいまだに心の底に沈めたままだ。金吉さんたちと同じように、山奥で子どもを亡くした人は少なくない。「でも、夫が召集されなくてほんとによかったよ。現地召集された久志の人はみんな戦死してしまったからね」

 戦争が終わったことを知ったのは、米軍が飛行機から撒いたビラによってだった。一〇月中旬頃までに、兵隊も民間人も、生き残った者たちはみなジャングルから出て、ダバオの西海岸のダリヤオンに集められた。テント張りの収容所に入れられて約一カ月後、日本に強制送還されることになったが、書類への登録が一人一枚ずつだったため、家族がバラバラになり、金吉さんは妻子を残して一人で船に乗り、一九四五年一一月一二日、浦賀港に着いた。

 翌一二月、千代さんと長男は最後の船便で広島の大竹港に上陸。その後、福岡に滞在していることを聞きつけた金吉さんが尋ね当てて再会を果たした。金吉さんの兄の正雄さんは鹿児島に上陸したという。

 一家三人が故郷の地を踏んだのは、さらに一年近くが経った四六年秋。「沖縄近海の機雷等掃海されて、佐世保から沖縄の中部、久場崎(くばさき)に無事着きました」と金吉さんは書く。帰郷してみると、千代さんの弟の政雄さんは徴兵され、沖縄南部で戦死していた。「沖縄にいたら夫も死んでいたかもしれないと考えると、幸運だったと思う」と千代さん。戦後、夫婦の間にはさらに四人の子どもが生まれた。

 金吉さんは手記の最後を次のように締め括っている。「私たち戦争体験者が乞い希うことは、世界の恒久平和です。二度とあのようないまわしい戦争が勃発しないように切望します」

 この手記が書かれてから二〇年。金吉さんたちの切なる願いに反して「いまわしい戦争」が今にも「勃発」しそうな危うさの中で、私たちに手渡されたものの重さを思う。   
   《この項・了》