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沖縄・一坪反戦地主会 関東ブロック
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第137号(2002年6月28日発行)

【報告】

  6・23国際反戦沖縄集会


 沖縄戦から五七年目の『慰霊の日』に行われる『第一九回 六・二三国際反戦沖縄集会』の取材に関東ブロックから派遣された。しかし、旅費・宿泊費などはすべて自弁。

 集会実行委員会は当日の集合時刻と場所を例年どおり、一一時三〇分ひめゆりの塔前と決めていたが、この日小泉首相が慰霊祭に参列するが決まったので、集合時刻を一時間繰り上げて一〇時半とし「有事法制反対」「首相は帰れ!」の抗議行動を展開することにした。首相の車はひめゆりの塔前を通過するものと予想していたが、警官隊の配置からひめゆりの塔前はコースから外されていることがわかり、約四キロ先の平和記念公園入口に移動して抗議の声を上げることになった。

 国道から平和記念公園に折れるT字路には黒服にネクタイの正装の男やジャンパー姿の私服警官など十数人が「道路使用許可を取っていない」といういう口実で横断幕を広げて立つわれわれを排除しようとかかってきたが、歩道沿いの叢に立っているのだと怒鳴り合いをして頑張った。われわれが抗議の声を張り上げている前を一一時過ぎに大型バスや黒塗り乗用車など十台近くの車が通り抜けていったが、首相がどの車に乗っていたかはわからなかった。

 一二時前には、元の集合場所であるひめゆりの塔の前に戻って、そこからデモを開始し約二〇分で『魂魄の塔』に到着した。『魂魄の塔』には大勢の人が手を合わせていた。『ひろしまの塔』前の広場を借りて集会が開始された。「鎮魂にかこつけて、戦争への道を突き進もうとする人々がいるが、私たちはそれに反対して平和を守る心を広げていこう」と主催者代表金城睦弁護士があいさつ。去年はえひめ丸の犠牲者にささげるダンスを高校生たちが踊った。今年は学校名出演者を公表せず、D2Kというグループ名で「未来への瞳」「君と僕(安室奈美恵曲)」「わだつみの木」の三曲に振付けたダンスが女子高校生とおぼしき六人の乙女たちによって舞われた。炎天のもと二〇分間の熱演であった。

 次は地中海のマルタ島から来訪したチャールズ・ミッツィ氏の独立の話。英軍基地を完全撤去して非同盟の道を進むマルタ共和国の元首相ミントフからの沖縄への連帯のメッセージが披露された。

 今年の戦争体験発言は沖縄師範学校生徒であった内間伸氏。三二軍の指揮班でこき使われたあげく、スパイとして日本刀で切り殺されそうになった体験が語られた。続く紙芝居二題は阿波根昌鴻さんの生き方からヒントを得た「人間になった鬼」(本永貴子)と、六十年代からの米軍による基地強化たくらみを電気紙芝居で暴露し続けている真喜志好一氏の、電気を使わない紙芝居。

 活動現場からの報告も入れ替わり立ち替わり。「那覇軍港の浦添移設に反対する会」からは古波蔵豊氏が、「名護ヘリ基地反対協」からは安次富浩氏が、「カマドゥ小たちの会」からは久場たつのさんが、それぞれアピールした。『金曜集会』について、久場さんは言った「毎週一回は大変だが、あきらめる理由もないので頑張っている」と。

 集会の終わり近くに彫刻家の金城実氏がいつもの大法螺吹き風の調子で「小泉首相靖国神社参拝違憲沖縄訴訟・原告団大募集」をアピールした。おとなしいと言われるウチナーンチュが果たして何人原告に名乗りを上げるか? 閉会のあいさつで平良修牧師は「日米安保による難民の皆さん、今日は難民の集会としては明るい希望に満ちたものになりました。日本国が憲法九条を捨てるなら、沖縄が拾って独立しましょう」と締めくくった。

 集会は予定より一五分早く三時半には終わったが、筆者の仕事はそれでは終わらなかった。真喜志好一氏が「一緒に自衛隊基地に入ろう」と言って、放してくれない。摩文仁から那覇にとって返し、那覇市小禄鏡水(ウルクカガンジ)の陸上自衛隊へ。この那覇空港に隣接している、いや空港と一体になっている自衛隊基地の中に高江洲朝男氏の土地があって、彼が政府との賃貸契約を拒否したので、自衛隊基地の中にポツンと民間人の土地があるわけだ。彼はこの土地を「陸上自衛隊基地内解放地・花園・ちゅらさガーデン」と名づけている。大きさは二十メートル×五十メートルもあるだろうか(素人の目測だから当てにはならないが)。

 ゲートには十人ぐらいの番兵(旧い言葉で申し訳ない、今風に言えばガードか)がいて、氏名、年齢、住所を記入してくれと紙を渡していた。私たちは高江洲氏のお客さんかお友だちとして入場を許可されるということらしい。基地内の道路を二、三度折れ曲がって一キロほど走って花園に到着した。先客が五十人ほどいて、東本願寺の僧侶がお経をあげていた。「花供養」と名付けていたが、意味は不明。筆者はと言えば、まごまごしているうちに、植える予定の花の苗を他の人たちに全部植えられてしまい、ヘチマとニガ瓜に水をやるだけの仕事しか残っていなかった。この日は夏至だということで満月に近い月が東天にかかっていた。五時ごろこの「花供養」も終わって私もやっと解放された。
(U)