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第121号(2001年2月28日発行)


【連載】

 やんばる便り 11
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 やんばるの山里をほんのりと染めていた緋寒桜(ヒカンザクラ。カンヒザクラとも言う)の緋色が葉桜に移り変わる頃、山々には新緑が芽生え始める。久しぶりの青空から、さんさんと惜しげもなく光を注ぐ太陽の下で、チラホラと萌え出た鮮やかな新緑がまぶしい。山懐に抱かれた三原アブマタの小さな流れに沿って、ゆるやかな曲線を描く小道をたどっていると、縮こまっていた心がゆったりと、のびやかになっていくようだ。

 こののどかな山里もしかし、当然のことながら、沖縄社会を揺さぶり、翻弄した歴史の荒波と無縁ではなかった。八〇歳を迎えてなお、キビの収穫にニーセーター(青年たち)以上の働きをする元気なオバァも、昼下がりのひとときをゲートボールに興じるオジィも、深い皺(しわ)の刻まれた笑顔の奥に、それぞれの過酷な生活史を秘めている。


 アブマタに住むセツさんは、一九二七(昭和二)年生まれの七四歳。一つ年上の夫と、タンカンやビニールハウスでのゴーヤー(にがうり)栽培などをしながら、静かな暮らしを送っている。「本土」に出ている子どもたちが、孫たちを連れて帰ってくるのが、何よりの楽しみだ。

 今の子どもたちは幸せだとも、ぜいたくすぎるとも、セツさんは思う。自分には子ども時代と呼べるものも、青春もなかった。「なんで、あんな時代に生まれたのかなぁ」と思うこともある。

 セツさんの生家は、同じアブマタを川沿いにもう少し下ったところだ。一〇人兄弟の下から三番目だが、セツさんが二〜三歳の頃、父親が亡くなった。以来、母と長兄が一家の中心となり、稲作や山稼ぎで家計を支えた。田畑が広かったので、子どもたちも働かざるをえず、セツさんは小学校二年までしか学校に通えなかった。

 日本が全面戦争への道を加速度的に突き進み、ウチナーンチュも「日本国民」として戦争へと動員されていく時代だった。国家総動員法が制定された一九三八年(昭和一三)年、セツさんの長兄は徴兵され、一家は主な働き手を失ってしまう。母一人では、たくさんの子どもたちを育てきれず、翌年、まず、セツさんの二歳年上の姉・シズさんが「口減らしのため(と、セツさんは言った)」岡山県の倉敷紡績に出稼ぎに行かされた。シズさんも、学校にはほとんど通っていない。

 明治以降の日本の資本主義の「躍進」の陰に、奴隷的労働を強いられた「女工哀史」があったことは、よく知られているが、第一次世界大戦後の世界恐慌が沖縄をも襲い、「ソテツ地獄(米はもちろんイモさえ食べられず、中毒死の危険もあるソテツを食べて、飢えをしのがなければならなかった)」と言われた状況の中で、大正後期から、沖縄の若い女性の多くが、紡績女工として「本土」(阪神工業地帯が中心)に出稼ぎに行っている。とりわけ、山がちで平地が少なく、生活の厳しかったやんばるからの出稼ぎ者が多く、やんばるには若い娘がいなくなるのでは、と心配されたほどだという。

 当時は学校の卒業時期になると、各紡績会社から派遣された募集人(「本土」の人もいれば、ウチナーンチュもいた)が、娘のいる家を訪ねて募集して回った。娘といっても、小学校六年か、せいぜい高等科を卒業した一三〜一五歳の子どもたちだが、彼女たちの送金が郷里の家族の暮らしを支えたのだ。中には、親が前金を受けとり、二〜三年の年季で「買われて」行った娘たちもいる。
 もっとも、紡績への出稼ぎを悲惨なものとだけ考えるのは、正確ではない。田畑の仕事や山でのマキ取りなど、泥だらけになって働かなければならない上に、現金などほとんど手に入らないシマでの暮らしに比べて、現金や着物などを持って帰ってくる紡績女工は、娘たちの憧れでもあったのだ。セツさんより一二歳年上の一番上の姉さんは、長女だったため家で働かされ、行きたくても行けなかった。その頃すでに結婚していたが、セツさんに「紡績に行ったほうがいいよ」と勧めたという。経済的な理由からではなく、みんなが行くから自分も行った、という人も少なくない。


 姉のシズさんに一年遅れて、セツさんも同じ紡績工場に行くことになった。募集人が最初に来た時には、行く気はなかったという。当時、からだの弱い三男の兄を手伝って、一緒に山稼ぎをしていたからだ。しかし、考える時間を与えられ、紡績工場には学校もあるし、裁縫も習えると聞いて、セツさんは行く決心をした。

 ところが、募集人について名護まで行ったところ、年齢が満一三歳になっていないということで、紹介所から帰されてしまった。すっかり行く気になっていたセツさんが、紹介所の前で泣いていると、そこで働いていた兄の友人が通りかかって、訳を聞き、役場に行って戸籍の生年月日を書き替えてくれたという。

 こうして紡績女工となったセツさんは、月に一三円の給料から小遣いを三円(これで石鹸や塵紙を買った)引いた残りの一〇円を貯金し、シズさんと五〇円ずつ、合わせて一〇〇円貯まるごとに、妹たちのいる実家に送金した。二人のいた工場は、従業員三〇〇〇人くらいの大きな工場で、そのうち半数以上が沖縄の人だったという。

 セツさんが就職して間もない頃、沖縄の人たちが、ストライキをやったことがある。「内地の人は、楽な仕事をしようとするから、厳しい難儀な仕事は、沖縄の人がやっていた。沖縄の人をバカにするから、バカにされては仕事ができないからストをやるんだと、お姉さんたちが言っていた」。

 その頃、沖縄の人の多い紡績工場では、奴隷のような差別的な扱いに我慢できないと、あちこちでストが行なわれたようだ。セツさんたちの工場も、沖縄の人で持っていたから、沖縄の人が仕事に出なければ、工場の機械が止まった。ストを指導したのは、働いて三年以上になる「お姉さん」たち。彼女たちは、新人工員を養成する仕事上の指導員でもあった。

 そのお姉さんたちが、セツさんのところに来て、「あんたはまだ来て直(じき)で、意味がわからないかもしれないけど、自分たちがちゃんとやってあげるから、ついてきなさい。決して仕事に行くんじゃないよ」と言った。セツさんは、ストに参加したら、お世話になった募集人の先生に、迷惑がかかるんじゃないかと心配だったが、「あんたも沖縄の人でしょう。みんなが奴隷扱いされないようにやるんだよ」と言われて納得した。

 会社が頭を下げてこない限り、ストは続き、そのときは二日間、完全に工場が止まったという。「沖縄の人は偉かったよ。絶対動かなかったからね」とセツさん。二〇歳前後の若い女性たちを先頭に、一三歳にもならない少女たちを含めたストライキの様子を想像すると、胸が熱くなる。かわいそうだからではない。彼女たちの毅然としたりりしさ、ひたむきさが、私を感動させるのだ。

 「ストをやって何が変わったの? 給料が上がったとか?」と、浅はかな私は尋ねてみる。給料も、昼勤・夜勤二交替の勤務時間も変わらなかったけれど、「食事がよくなったし、先生方(管理職の人たちと思われる)の沖縄の人に対する扱いがよくなり、バカにしなくなった」という。それまで、ウチナーンチュの寮長はいなかったが、寮長(会社から手当が出る)にもなれるようになった。彼女たちは、自らと後に続く者たちの、人間としての誇りを守るために立ち上がり、見事にそれを果たしたのだ。


 セツさんは、シマを出てから七年間を「本土」で過ごしているが、紡績女工として働いたのは、最初の一年半と、戦後の一年間だけである。それまでの紡績女工は、二〜三年でいったん沖縄に帰る人が多く、その後、二度、三度と行く人も、行ったり来たりが普通だった。セツさんは七年間、一度も帰郷していない。太平洋戦争が始まって、帰るに帰れなくなってしまったからだ。

 異郷での戦時を、セツさんがどう過ごしたのか、紙幅も尽きたので、次回に譲りたい。