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第122号(2001年3月28日発行)

【連載】

 やんばる便り 12
            
浦島悦子(ヘリ基地いらない二見以北十区の会)

 一九四〇(昭和一五)年六月、満一三歳にも満たないセツさんは、住み慣れたシマを離れ、那覇港から岡山県の倉敷紡績玉島工場に向けて出発した。セツさんたちが乗った船は、その航海を最後に、戦争へ駆り出されたという。その後、紡績女工たちを運んだのは嘉義丸という船だが、この船は戦争が激しくなった頃(年月日は不明。調べてみるつもりだ)、紡績から帰る娘たちを乗せたまま、米軍の爆撃を受けて沈没した。セツさんと同じ工場で働いていた友だちも、「どうしても沖縄に帰りたい」と、危険を冒して船に乗ったものの、故郷への熱い想いを遂げられずに、若い命を失ってしまった。

 玉島工場でセツさんに与えられた仕事は、リングという部門だった。紡績工場には、原料の綿から糸になるまでに、さまざまな工程がある(織布までやる工場もある)。リングは、いくつかの工程を経て、だんだん細くなってきた綿を糸に紡ぐ段階(その後、合糸や撚り糸、糸の加工などがある)で、セツさんのような子どもたちは、みんなそこに配置された。最初に養成期間があって、先輩の姉さんたちが、仕事のやり方を教えてくれるのだが、綿埃はひどいし、糸は切れるしで、泣き出す子も多かったという。糸が一度切れ出すと、次々に連鎖反応を起こし、パニック状態になることもあった。

 別の人から聞いた話では、大阪近辺には、朝鮮から募集してきた男工や女工を使っている工場も少なからずあり、ある工場では、最初の綿を扱う力仕事は、朝鮮人男工が行なっていたという。しかし、女工であっても、朝鮮人たちとは職場も寄宿舎も別だったので、あまり交流はなかったようだ。そのほうが会社としては管理しやすかったのだろう。


 セツさんが玉島工場で働いて一年半になる一九四一(昭和一六)年一二月、日本は太平洋戦争に突入した。年が明けて、セツさんたちは、倉敷紡績と同じ資本系列の、広島の海軍工廠へ応援に行かされることになった。船を造る軍需工場で、セツさんたちより年上の姉さんたちも一緒に行ったが、配置された部署は別々だった。セツさんはネジの検査場に就き、ゲージで計って、合格・不合格を選別する仕事をした。

 三カ月後、いったん玉島工場に戻ったが、半年経って、今度は愛知県一宮(いちのみや)の佐千原(さちはら)工場に行かされた。ウチナーンチュだけ一〇数人だった。ここは、セツさんたちが行った当初は、毛糸工場と呼ばれ、毛糸を紡いでウールの生地を織り、軍服を作る紡績工場だったが、戦争が激しくなると、紡績の機械を壊して、その鉄を供出し、工場は、飛行機の部品を造る軍需工場になった。

 佐千原工場が軍需工場になるに際して、セツさんたちは、名古屋の中部軽合金(飛行機部品の軍需工場)へ技術を学ぶために派遣され、三カ月間の見習いの後、一宮に戻った。年上の姉さんたちは、あちこちに行かされるのを嫌って、「結婚退社」する人が多かったが、「結婚退社」しか認められなかったため、セツさんたちのように若い子は、辞めることもできず、あっちに何人、こっちに何人と「分配」されたという。「故郷に帰りたいと思わなかったですか?」という私の問いに、セツさんは、「帰りたいと思う余裕もなかったよ」と答えた。

 軍需工場は二四時間稼働しており、セツさんたちは、朝五時半から夕方六時と、夕方六時から翌朝六時までの二交替で働かされた。泥まみれになりながら、土で鋳型を造り、ニュームを溶かして、それに流し込むのが仕事だった。少しでも手を休めたり、よそ見をしているのが監督官に見つかると怒鳴られたが、監督官が廻って来る前には、姉さんたちが「もうすぐ来るから、ちゃんとしていないと叩かれるよ」と、予告して歩いてくれるので助かった。

 工場の仕事以外に、セツさんたちは、軍服のボタン付けや股縫いの仕事もやらされた。アルバイトという名目だったが、実際には強制だった。

 仕事はたいへんだったが、一宮では友だちに恵まれた。休みのときは、昼勤で働いている一宮の友だちの家に、よく遊びに行った。そこは農家で、ヘチマが植えられていたので、セツさんがヘチマを料理して食べさせると、「ヘチマが食べられるなんて知らなかった」と言って、とても喜ばれたという。食べ物も乏しくなっていた頃だから、なおさらだったろう。この友だちの姉さんは、後でわざわざセツさんのところへ、ヘチマ料理を習いに来た。地元の農家の田植えを手伝いに行ったこともある。苗を植えながら、セツさんの胸には、故郷の田畑が去来したことだろう。

 軍需工場の給料は高く、紡績工場の月一三円から、一挙に一二〇円に上がった。セツさんは二〇円を小遣いにして、後の一〇〇円を母の許(もと)に送金した。しかし、二回までは家に届いたようだが、戦争が激しくなる中で、あとの二回は届かなかったらしい。その後は、空襲警報があったら避難し、解除されたら工場に戻るという生活だったので、送金どころではなくなった。食べ物も着物も、飴玉一つさえ、切符式の配給制になっていたので、お金はあっても買えなかった。

 軍需工場は米軍の標的にされ、米軍機が「今度来るときはここに御邪魔します」というビラを撒いていくので、生きた心地はしなかった。空襲警報があっても、工場に残っていて亡くなったり、逃げる途中で爆撃された人もいる。寄宿舎が直撃されて、たくさんの人が死んだ。セツさんは逃げながら、同じ工場で働いていた二歳上の姉のシズさんに、「今、ここでは絶対に死なない。この戦争だけは終わらせて、見届けてから死ぬんだ」と言った。シズさんは、「いつ死ぬかわからないというのに、あんたは変わっているね」と、あきれていたという。


 日本が敗戦して、ようやく戦争が終わったとき、セツさんは数えで一八歳になっていた。爆撃がなくなったので、セツさんたちは、軍需工場にならずに、紡績工場のままで残っていた三重県の津工場に行くことになった。佐千原工場にいたウチナーンチュのうち、名古屋や大阪の身内や親戚の許に行った人たちを除く七人が、一緒に行った。戦後は紡績工場にも労働組合ができ、待遇は改善されたという。

 一九四七(昭和二二)年、セツさん、姉のシズさんを含む七人は、沖縄への最後の引き揚げ船で故郷に帰った。家族持ちが先に帰され、紡績に行っていた若い人たちは、後に回されたのである。セツさんは「内地」に七年間いたが、その間、遊んだ記憶はほとんどないという。人生でいちばん楽しいはずの青春時代を、戦争に塗りつぶされた世代だった。

 シマに帰ってみると、セツさんが紡績に出た後、次兄も三男兄も徴兵され、長兄も含めて三人全員が戦死していたという。セツさんの戦争への忌避感は強い。「沖縄から早く基地をなくさないと、また沖縄から召集されるよ」と心を痛める。


 暖かい陽射しの降り注ぐセツさん宅の縁側で、つい話し込んでしまい、「あ、お茶も入れないで」と、セツさんがあわてたように言う。「農協に出した残りのゴーヤー(苦瓜)があるけど、持っていく?」と、私に聞く。「わぁ、うれしい」と私が言うと、たくさんのゴーヤーと、大きな大根も袋に詰めてくれた。それをニコニコと見守っていた夫のトクゾウさんがハサミを持ち出して、庭先に植えてあるタンカンの実をもぎ始める。それも頂いて、私の両手はずっしりと重くなった。

 てきぱきしたセツさんと、見るからに優しいトクゾウさんの組み合わせは、「婦唱夫随」という感じで、なかなか素敵だ。七年間の「内地」暮らしを経て帰ってきたセツさんは、「それからは、母の言うことを、ハイハイとは聞かなかったよ」と言う。そこに、さまざまな苦難を通して自立していった女性の姿を見るような気がした。