沖縄県収用委員会 第9回審理記録

那覇市・都市計画部長・高嶺晃


当山会長:

 それでは、那覇市の代理人、那覇市都市計画部長、高嶺晃さん。お願いします。

高嶺晃:

 え、私は那覇市の都市計画部長であります高嶺と申します。入所以来、大半を那覇市の都市計画行政にいて仕事をして参りました。この軍用地が都市の計画に与える支障は非常に大きなものがございまして、今日はスライドを交えて、具体的に那覇市の戦前戦後の都市の歴史的な経過、そして、都市の構造がどういう風に変化してきたのか、さらに今後那覇市がいったいどういう風な街をつくろうとしているのかについて、そのなかで、軍用地というものが、如何に都市のなかで、重要な位置を持っているかということを、意見陳述したいと思います。

 それでは、スライドをお願いします。

 ご承知の通り、那覇は港町・那覇と、城下町・首里という、二つの都市の構造で発展をした街であります。スライドお願いします。両方お願いします。

 つまり、港町の那覇と、首里という城下町、この二つの都市の構造が合わさっています。この黄色の部分が那覇市の行政区域なんですけれども、南北に8キロ、東西に10キロという大変狭隘な市であります。そこに、港町の那覇と、城下町の首里のふたつの構造があって、都市が形成されてきたのであります。スライドお願いします。

 しかしながら、昭和20年第二次大戦において、1千年の歴史を持つこの町は壊滅状態になったわけです。まさに瓦礫の山となってしまったわけであります。スライドお願いします。

 戦後、那覇市は、港とそれから城下、首里城がまったく無くなりまして、1点集中的な町から発展していきます。戦後間もなく、那覇市全域が軍用地として接収されまして、22、3年頃から入植が許可された部分が、この中心の市街地でありました。現在の国際通りの部分であります。そこから、那覇市はまったく都市の計画のないままに、自然発生的に都市が形成されていっわけであります。お願いします。これは、58号線です。これに、流れているのが久茂地川です。これもおなじアングルで、ございますけれども、北のほうにはアメリカの軍用地があるわけです。これはちょうど戦後間もなく1号線と呼ばれていた道路です。

 那覇市は昭和30年の前後に、那覇市の都市計画を決めまして、それから、戦災復興事業で区画整理が始まった部分が、まあ、58号線を中心とした部分であります。戦後30年経って、これはまだ、パレット久茂地の再開発が無い時代ですから、昭和52年くらいの町の姿です。こういうふうにして、都市が変化しているわけです。お願いします。

 これも同じアングルです。これが久茂地川です。それからこれが58号です。以前の1号線です。パレット久茂地が出来上がって、これはごく最近の写真であります。

 こうして半世紀にわたってこの都市は大きな発展を遂げたわけであります。北のほうの軍用地が返還をされて、建物が一切ありません。お願いします。

 この、那覇市は、現在の中心の既成市街地と、北の天久の新都心、それから南のほうの、小禄・金城の軍用地、これが、両方が現在解放されて、後利用が始まっているところです。この図面でもお分かりのように、北の部分と南の部分をまさに都市が形成される。一般的には、都市は同心円的にこうして発展をしていきますけれども、こういう風に南と北を閉ざされたままで、都市は発展をするわけですけれでも、やはりこれは、都市の発展としては、都市の計画としては大きな障害となっているわけです。左側はまだ天久の土地がまだ、住宅地としてこのように非常にゆとりのある住まい

方をされている住宅地として、周辺は密集地の市街地でありました。

 那覇市は現在、この都市のなかに、住んでいる人口密度が高うございます。1平方キロ8000名から9000名くらいの人口を有しているわけですが、非常に対称的な、軍用地と市街地の変化が見られるわけです。お願いします。両方お願いします。

 それでは、これから、那覇はいったいどういう風な街の展開をしていくかについて、説明します。これは、那覇の市街地の図面ですが、南北が8キロ、東西が10キロの市街地となっています。この中に現在の国際通りを中心に、直径で描いて約290ヘクタールの面積がありますけれども、これは戦後50年間、唯一沖縄県の中心の県都としての役割を果たしてきたところです。一方この、北側にある、那覇新都心・天久の土 地、これが約209ヘクタールありまして、現在の既成市街地とほぼ同じ規模であります。

 また南のほうの小禄・金城これが109ヘクタールありまして、この両方あわせますと300ヘクタールにもなります。昭和40年代、那覇市はまだ、この狭い行政区域の中で、30%が軍用地でした。50年にはいって、少しづつ返還をされましたけれども、那覇新都心の場合は、52年に一部返還がなされました。全面返還がなされたのは、その10年後の62年であります。この部分的な細切れ返還というのは、都市の計画上非常に計画のしにくいものがありまして、これだけの、土地・行政区域のなかで、しめる割合が大きいだけに、全体の計画の中で、道路網やあるいは市民の都市生活に必要な、施設を配置しなければならないわけです。

 したがいまして、この北の那覇新都心は、それから小禄・金城の109ヘクタールはこれはもう99%事業は終わっています。昭和58年から、事業を展開して参りました。さらに那覇新都心につきましては、先だって5月28日に、中環状線を開通しまして、市民や県民に中を見ていただこうということで、急遽5月28日に、先行的に那覇の交通緩和策も含めてでございますけれども、開通をいたしたわけでございます。

 この北と南の軍用地によって、那覇市はこういった南北のですね、あたらしい都市の軸を形成しているわけです。さらに、この戦前の首里城と、それから水辺空間、この水辺と城下、という一つの歴史と水辺の地区があります。こういうような多角的な都市の形成がなされているわけです。

 で、一方、この水辺の部分の説明をいたしますけれども、ここの中は、観光立県の中では、青い空と青い海と言われていますけれども、那覇市のなかでは、市民が水に親しむ地域というのは、この若狭一体の約0.9キロくらいでして、そこの部分をこんどウォーターフロントとしての開発を進めているわけでありますが、その大半は港湾区域でありまして、ま、船舶が入ったり、流通に使われたりして、この自然に恵まれた水辺に市民が親しめないという、非常に顕著な都市の構造を持っているわけであります。お願いします。

 小禄・金城109ヘクタールですけれども、30メートルの道路ができて、それにモノレールが走ることになっています。平成15年の開通を目指しています。こういう風にして109ヘクタールの軍用地の地主さんに、しっかりと意見を聞きまして、こういう町づくりを地道につくりあげてきたわけです。

 一方、北の那覇新都心は、全体的に209ヘクタール。これはバイパスであります。こちら側に58号線が走っています。これが58号です。これは330号線。ここに環状線が回っています。ここが現在の市街地でございますけれども、58号線から330号線まで約1500メートル、30メートルが5月28日に開通したところであります。

 さらにこの真ん中のほうに、総合公園、約18ヘクタールの公園を配置してこの公園はこの209ヘクタールの約10分の1を占めています。将来的には約21000人の人口が配置できる見込み。もう、仮換地も終わっておりまして、使用収益も次年度の始めにはして行きたいと思っています。、*。

 この、209ヘクタールの中に、地主が2100名くらいおりまして、この2100名のみなさんから貴重な土地を提供していただきまして、それでもって、道路などにあて、さらにまた、その他の公共施設には買収と言うようなことを、地権者のみなさんにお願いをして、計画が作られていったわけです。

 現在は軍転法というのがありますけれども、これを手掛けたときには、まだ軍転法というのがございませんで、莫大な市の財政と、そして、地主の協力のもとに、この計画がつくられなければならなかったわけです。一部返還された部分が、ありましたけれども、こういう細切れ的な返還になりますと、中を通る大きな基幹的な道路というのがなかなか計画ができないわけでありまして、これは、那覇市にかぎらず他の市町村におきましても、今後細切れ的な返還では、やはりその全体的な都市の計画の中での位置付けというのは大変難しいものがございます。

 そういう意味では、やはり全面的な返還というのが、最善であると思います。次お願いいたします。残された那覇軍港でございますけれども、この軍用地は現在那覇市の約11%を占めております。これは以前の地図で、旧の那覇市の市街地がありまして、首里があります。この那覇軍港においても、まさにこの、市街地の中の、一つのゾーンとしての役割を果たしてきたわけであります。お願いします。これは戦前の写真であります。御物城がございます。これが垣の花の、現在、那覇軍港で収用されている部分です。以前は民家が立ち並び、学校があったりなどで、一つの市街地であっ

たわけであります。お願いします。

 これは、小禄の側から見たものですけれども、集落が並んでいる様子が分かり、この水辺に接した一つの部落でありました。この那覇軍港は全体で約57ヘクタールあります。地権者が967名ございますけれども、全体としての、地権者の持ち分は、約57ヘクタールのうちの54%が私有地になっておりまして、残りが国有地になっておりましす。軍用地としては、意外とこの、公共用地が多いところであります。ちなみに、天久の那覇新都心は93%が私有地となっています。7%が国有地となっていて、非常に公共有地の乏しい地域でございまして、地権者のみなさんに、この減歩の問題とか買収の問題という点で随分時間と労力とお金を費やしたわけでございます。

 この那覇市の、これは、新港ですけれども、これが波の上ですね。東西に10キロ、南北に8キロとなっていますが、那覇市の町づくりの計画としては、水辺の立体的な臨空港型といって、空港、そして、現在の那覇軍港、那覇港と、港と空港を一体化とした、それから、みどりの共有地、首里城、そして中心市街地があります。天久の新市街地があります。というような形で、新都市の将来像を、計画しているわけです。

 そこで、その那覇軍港の計画につきまして、昭和57年くらいから、市では取り組んでおりまして、いくつか案を考えておりましたけれども、まずA案としましては、フリートレードゾーンの拡充型の計画が一つありました。この、現在の自由貿易地域を拡充したフリートレードゾーンの計画がA案であります。

 それからB案としてはリゾート重視というようなことで、新しい都市型のシティリゾートという形での水辺をつかったリゾート計画を中心とした案でございます。

 さらにC案としましては、現在の市街地のなかで足りない部分、そしてさらに新しい時代をにらんだ、国際化とか情報化というような、そういう新しい時代にマッチした那覇軍港の使い方。このようなA、B、C案というのが考えられていたわけであります。お願いします。

 平成3年度に地主の皆さんが軍港の後をどう使ったらいいのかということで、軍用地の地主のみなさんが、立ち上がりまして、計画をつくり始めました。この計画をつくるに当たりましては、海外にいったり、あるいは国内のそういう土地を見たりして、967名の地主の皆さんが積極的にこの、57ヘクタールの軍用地の後利用計画を、平成3年にはつくったわけであります。スライドお願いします。

 その地主案と、さきほどのABCという行政 案とを一つのテーブルに載せまして、平成7年にこの那覇軍港の建物の後利用計画を地主と行政が一体になって、計画をつくったわけであります。現在でも、この計画の実現に向けての話し合いを続けておりますけれども、これが那覇空港です。こっち左に奥武山公園がありまして、空港に行くのがわかります。その水辺の部分をヨットハーバーのリゾートがあって、若干フリーゾーンとの関係の商店街スペースがあります。それから、住宅地として、この軍用地の中に戻りたいという方たちには少し高度に利用した住宅地を提供すると。こういう風にABCといういくつかの案を複合的にしまして、この那覇軍港の返還と後利用という面につきましては、一応、地主と行政とのテーマをつくって完成をしているわけです。お願いします。

 この、那覇軍港はこれは、半世紀以上にわたって、取り残された狭い行政区域の中での位置付けは、変わっているわけではありません。時代というのは急速に進展をしてまいっています。それから那覇市のこれからの都市の経営という面から考えてみましても、この狭い行政区域で有効に、土地の後利用を促進しなければならない、ということが、さきほども出てきましたように、中心市街地は、戦後半世紀に渡って大きく変化をしていったわけですけれども、この空港から市街地にはいっていく、基地のゲートを通って、市街地に入っていくというのは、やはり都市の入り口としては、よくないのではないか、というふうに思います*。那覇軍港の早期の返還とそして、この県民、市民に有効に活用していく道を促進していきたいと思います。以上で私の意見を終わります。

(拍手)

当山会長:どうもありがとうございました。続きまして、那覇市の代理人、港湾部長の宮城真助さん、お願いします。


  出典:第9回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


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