沖縄県収用委員会 第9回審理記録

弁護士 金城睦


金城睦: 

 弁護士の金城睦です。私は、那覇市の代理人であると同時に、嘉手納飛行場内に土地を所有する地主の一人でありますし、また、いわゆる一坪反戦地主約3,000名で構成する一坪反戦地主会の代表世話人の一人でもあります。

 本日は那覇市関係の審理が行われていますので、まず、これまで、述べられました市長及び二人の部長の意見の後を受けて、補足的に私の意見を申し述べ、ついで、この公開審理も本日で第9回を迎え、大詰にさしかかっていることでもありますので、この機会に、直接的な那覇市とは関係が薄いかもしれませんが、私の個人的な意見も付加して申し述べたいと思います。

 最初に那覇市の軍用地問題の経過から述べて参りますが、1944年、沖縄戦の前年の昭和19年10月10日、突如として那覇市は、いわゆる「10.10空襲」に見舞われます。最初は、那覇周辺の旧日本軍の施設に攻撃は集中したのですけれども、やがて民間地域にも拡大され、旧那覇市の約9割の地域が消失いたしました。今、旧那覇市といいましたけれども、現在の那覇市はもともとの那覇市、いわゆる旧那覇市、それから旧首里市、旧小禄村、旧真和志市、これらが合併して、那覇市を形成いたしております。旧那覇市の部分が全面的な壊滅を受けたわけですが、この「10.10空襲」で、沖縄の人々は初めて戦争を身近に感じとったと言われています。しかし、その後、半年もたたないうちに、あの翌年から始まる忌わしい沖縄戦であります。沖縄戦の結果、10.10空襲でかろうじて消失を免れた建造物等も、完全に消え失せてしまいました。

 この、旧那覇市は沖縄戦終結と同時に全域が米軍占領地域として接収され、市内への市民の立入は禁止されました。都市計画部長も触れていましたが、多くの一般の住民が避難先や収容所から那覇市内への移動が許されたのは、記録に依りますと、1946年(昭和21年)8月以降のことであります。ごく一部は、その前に壷屋辺りに、居住していたようでありますが、多くの住民が那覇市に戻りはじめ、それも、戦前からすれば、辺境であった開南あたりで闇市がたち、そして、現在の平和通り、あるいは国際通りに向けて戦後の那覇市の歩みが始まりました。ここから近辺は湿地帯、たーぶっくわ(田圃)みたいなところだったわけです。中心地に戻れなかったのは米軍が許さなかったからです。

 沖縄における米軍基地の形成過程の原初形態としてよく指摘されるのは、「はじめに軍用地ありき」というこういう状態。つまり軍事基地として必要な地域を、米軍は確保したうえ、それ以外を住民に開放するというやり方。これが、県都那覇市においてもっとも象徴的・典型的にみられるのであります。やがて国際情勢の変化を受けて、いったん開放した土地が、また再び軍事基地として、接収されだすのですが、講和後の53年4月に、米軍は布令109号「土地収用令」を公布し、そして、ただちに、安謝、銘苅、天久一帯の農地をブルドーザーを繰り出して強制接収いたしました。当時は真和志村でありましたが、ここら一体は現在、新都心として蘇ろうとしているあの地域であります。

 ちなみに、当時私は中学3年生でしたが、夏休みにカンカン照りの強烈な日差の中を米人住宅建設のためのブロック運びというアルバイトをしたことを覚えています。

 この年の12月には、当時小禄村であった具志において、これまた「銃剣をふりかざし、ブルドーザーを動員」しての土地強奪が行われました。ここも、現在の那覇市内であります。

 この公開審理でも述べられたが、引き続いて伊江島の真謝、宜野湾の伊佐浜の例など有名ですが、沖縄における米軍基地のための「銃剣とブルドーザー」による野蛮で強権的で、暴力的な、有無をいわさぬこの土地強奪というのは、現在の那覇市内から起こったということ、忘れられないことであります。

 ところで、那覇市は、1968年の三大選挙で革新市政が確立されて以来、平和を基本とする市政の推進、平和な街づくりというのを基本目標としてきました。総合計画においては、「あけもどろの都市・なは」を実現するための目標として「平和都市」「生活都市」「文化都市」をかかげ、真っ先に平和をうたっております。その解説書にも、私たちは『人類の平和のために、戦争があってはならない』という痛切な体験を持っている。この当然の帰結として、私たちは軍事基地の跡地の平和利用をはかり、那覇市を基地のない都市として建設する」と述べています。

 沖縄には、沖縄県を含め、その他に53市町村が自治体として存在しますが、そのうち、県有地、および20の市町村にまたがってその所有する公共用地が基地として使われています。そのうち那覇市は、唯一、米軍に対して、自らの公共用地の提供、軍事基地契約というものを断固として、拒否している自治体であります。

 大田知事が代理署名や公告縦覧の代行を拒否したことが、沖縄の基地問題を内外に大きくアピールし、県民や国民を勇気づけ、安保をも揺るがすほどの大きな契機をなしたことは周知のとおりであります。代理署名拒否は最高裁によって否定され、公告縦覧代行拒否は政府の圧力に屈した形で、後に応諾にかわり、せっかく大きく前進しつつあった沖縄の基地問題が困難・複雑化しておりますことは、残念なことでありますけれども、その代理署名、あるいは公告縦覧にしても、那覇市は一貫してこれに応じない姿勢を貫いてきております。

 数年前の、前回の代理署名、公告縦覧が問題になった時のことですが、当時の地方自治法には、代理署名、公告縦覧に応じない市町村長は国務大臣が罷免することができるという条項があったんですが、それでも、親泊市長は「罷免という制度があるからといって応じるわけには行かない、罷免覚悟で米軍基地問題には毅然と対処する」という決意を語って、人々を感動させたものであります。

 一自治体が国と対峙する、こういう方針を貫くのは、きついことだと思いますけれども、しかし、今申し上げたようなことが米軍基地問題に対する那覇市の基本的なスタンスであり、市民の願いであります。

 市は、平和を求めるために、積極的な平和行政もいろいろ行っております。総務部内に「基地渉外室」が設置され、それが「平和振興室」と名を変え、今日では、「平和と国際交流室」となっていますが、このように基地問題、平和問題を担当する部署を必要とするというのは、県内に基地があり、そのための特別の行政的対応が必要とされるからであります。全国的にも自治体財政が圧迫されているという状況の中で、基地を抱える自治体は単独の予算で基地行政、平和行政に取り組まざるをえないわけであります。

 大田知事も何回か基地問題で訪米していますけれども、那覇市でも1991年に、市単独で訪米し、市長、市議会議長、与党、与野党各代表が国務省や国防総省、さらには連邦議会に対して、本日ここで問題になっております那覇軍港の早期全面返還を訴えております。

 新規採用職員への憲法講座や平和についての行政講座、あるいは中堅職員に対しては、沖縄戦の追体験、基地・平和問題などの実践を含むいわゆる「平和ガイド」の自主的養成なども行っています。

 そして、那覇市は、自治体として、行政上の可能なあらゆる努力を尽くすと共に、さらに裁判に訴えて司法的救済を求める努力、基地返還の訴訟まで提起したことがございます。米軍用地特措法を適用して行われました最初の強制使用問題が登場しました際に、那覇市はなんとしても総理大臣の行った使用認定、これを受けた当時の収用委員会の収用裁決の在り方、これは許せないということでの、それらの取消を求めた行政訴訟であります。1981年、2年にかけて提起され、数年に渡って法廷闘争が展開されましたが、残念ながら裁判所は那覇市の主張を容れるところとなりませんでした。しかし、この訴訟の成果の一つとして、牧港住宅地区が完全返還され、その跡地は整然とした整理が進められ、いま新都心として甦ろうとしているものであります。

 那覇市としては、何としても今回強制使用の対象とされている那覇港湾施設、および普天間飛行場に通じる那覇市の水道用地については、一日も早い返還を実現したいと考えています。強く要望しているところであります。その重要性や必要性については、市長や二人の部長から述べられました。

 港湾が如何に遊休化してことも述べられましたが、この件について、一点だけつけ加えますけれども、年平均18隻程度の出入港しかないという那覇軍港の状況を見ますと、那覇軍港の軍港用地の土地の土地の使用料は、ざっと15億円余り、そこで働く基地従業員の賃金は約5億円余り、計20億円、20億円でありますから、1隻あたり1億以上も金がかかる計算になります。単なる維持・運用経費だけで1隻あたりこれほど膨大な金銭を要するということは、この那覇軍港が全く遊休化して不要な存在となっているという、こととともに、税金のムダ使いもはなはだしいことも示していると思うのであります。これが返還されれば、先ほど示されましたように、市民にとって県民にとって、国民にとって、全人類にとって、有効な、役に立つわけであります。

 かつて米軍基地であった与儀のガソリンタンクの跡地、あるいは小禄金城地区、金城と書いてかなぐすくと読みますが、小禄金城地区辺りが、多くの学校や公園、あるいは社協会館の公共施設をはじめ、公共住宅、商店街、民間住宅等が立地し、市民の利便に供された華やかな一角として立派な市街地を形成し、基地の返還・開放がいかに市民にとってプラスであるかということは、誰の目にも一目瞭然とわかるように、今私たちの那覇市内に存在しております。

 では、こんなに遊休化し、ほとんど必要性のなくなった那覇港湾施設なのに、日米両政府は、なぜ、何故返還しないのでしょうか。しかも、1974年に返還合意ができてから、24年近くも経っているのです。

 彼等は、返還合意は移設条件付なのに移設先が見つからないからだというのでしょう。しかし、そもそも返還について移設条件付としたこと自体が間違っていたのではないでしょうか。ただでさえ基地が集中し、いまや、ほとんどの人が分かっているというくらい、全国の米軍基地の75%が沖縄に集中しているという、それほど、超過密の沖縄内に新たな移設先を予定するとか条件とするなんて、不当で、不可能なことを条件としているとしか、言いようがありません。そして、その不当で不可能なことが実現しないからといって返還自体を遅らせているのが、政府の態度であって、その態度が許すべからざるものであることは明らかであると考えます。

 ですから那覇港湾施設については直ちに返還されるべきであって、これを先延ばしするような強制使用など絶対に認められるべきものないと思います。移設条件などということでなしに、その存在理由や必要性の有無・程度等について、那覇市や沖縄側からの返還要求の必要性や合理性の有無・程度・さらには国際情勢の変化等とも関連させながら具体的に検討するならば、もっと早く返還されてしかるべきだったことが明らかなのではないかと思うのであります。

 今日、行財政改革の論議とも関連して、米軍基地維持のための重大な機能を果たしているいわゆる「思いやり予算」、これを含む米軍基地維持経費の見直し、再検討の声が大きく上がっております。軍艦1隻の出入港に1億円以上の出費をしている予算の無駄使いは、誰が見ても納得できるものではないはずです。

 移設条件の問題は、今日の沖縄における最大の基地問題となっている辺野古地先の海上基地建設問題でも出てきています。この海上基地についても、普天間基地の返還を実現するための移設先としての建設だから、この建設を認めることが普天間基地の返還を実現することだと政府は、説明しています。

 しかし、まず第一に、普天間基地はそれ自体が、市民と県民に迷惑をもたらす悪であり、許すべからざるものであって、その一部であれ何であれ、他に移設することが容認されうるものではないはずです。無条件に開放、返還されるべきものです。

 第二に、海上基地は、施設が老朽化し、批判や反対も多くその維持・運営に困難をきたしている現在の普天間基地に代わって、世界初の機能の強化された新しい基地を建設することであって、県民共通の長年の念願でもある基地の整理・縮小・撤去に全く逆行するものです。

 第三に、かりに普天問基地の返還と引き換えに海上基地の建設が認められれば、ずっと言われてきた「諸悪の根源」、沖縄の基地というこの実態。これに満ち満ちた沖縄の実態はずっと変わらない。基地被害と、基地の攻撃目標とされるかもしれない不安にさいなまれる県民、他国・他民族への脅威をなし、平和を乱し、人々に脅威を与える震源地としての沖縄という、この沖縄の状況は永続化することになるでしょう。

 このようにみてくると、移設条件付ということが、、全くまやかしであり、許すべからざるものであるかが明白になってまいります。那覇港湾施設についても、移設条件なるものは、不当極まりない条件として無視されるべきものであり、沖縄への基地の存在・維持・確保を、まるで所与の前提とする日米両政府の態度は、きびしく批判・糾弾されなければならないと思います。

 20世紀が幕を閉じかかっているせいか、世はバブル経済の崩壊からはじまって金融機関や政府高官たちの不正堕落の極み、教育の歪みや青少年問題の深刻化等、世は正に世紀末現象におおわれています。

 でも、そのなかでどうしても見過ごしてはならない最大の危機的現象は、戦争の前夜を思わせる諸動向ではないでしょうか。日米安保共同宣言とこれに引き続く「日米防衛協力のための指針の見直し」、いわゆる新ガイドラインは、日米安保条約が完全に軍事同盟化し、しかも具体的な有事=戦争=戦闘行動を想定をして、日米両軍の軍隊が軍事行動を起こすときの行動規範=戦争マニュアルとして登場して参りました。これに伴って、自治体や国民の各界各層に対し、戦争への動員、戦争協力を強制し、そのための人権抑圧や諸規制を定める有事立法の制定作業も急ピッチで進められています。

 戦争はある日突然起こるものではありません。それに至る準備、経過、過程があります。私たちは50年ばかり前に戦争のもたらす悲惨きわまりない体験をしてきました。

 あの太平洋戦争、沖縄戦についても、当然それに至る過程がありましたけれども、多くの人々は戦争に反対であっても、それに対する具体的認識をもった行動する前に、事態は急速な展開を見せ、国民は戦争に引きずり込まれ、軍部など戦争勢力の道連れにされて不幸のどん底に陥れられてしまいました。

 その反省のうえに立って私たちは主権、人権、平和を最高の価値として、あるいは、原理とする日本国憲法を制定し戦後の平和の歩みをはじめたはずであります。その憲法もさんざんないがしろにされたあげく、空洞化・形骸化され、今や消滅させられようとしています。

 しかし、世紀末というのは、新世紀への新しい希望に満ちた展望を現実化させることのできる時期でもあります。20世紀の後半、世界をおおっていた東西対立の冷戦体制はすでに崩壊しました。核戦争による人類の危機を示すあの5分前とか、3分前とか終末時計も、いつしか世間の注目をひかなくなるぐらい、具体的な危機は遠のいてきました。大きく見ると世の中は、間違いなく平和と軍縮の方向に動いております。

 日本で不動のように思われていた安保体制も、あの少女のいたましい事件から発した沖縄の脱基地運動が大きく展開していくなかで、全国の人々の心を動かし、安保見直しの声が次第に増大していき、安保体制の根本を揺るがすまでに至りました。

 いま揺れ戻しが起こっていますけれども、世紀末的、虚無的、破壊的動向の優位のもとに、沖縄も日本も人類も破戒の方向に進むのか、新世紀を迎えるにふさわしく、基地の楔から解放され、全人類の平和的共存の方向へ前進するのか、きわどいところに立っております。

 私は、つい最近地中海に浮かぶ小さな国マルタ共和国へ行ってまいりました。ゴルバチョフ、当時のソ連大統領と、アメリカ大統領とが対談をして、冷戦の終結を宣言したところでありますが、このマルタは八重山くらいの小さな島国ですが、長年近隣大国からの干渉を受けてきた。これをはねのけて1964年に独立し、73年には180年におよぶイギリスの基地を撤去させることに成功いたしております。フィリピンも92年末に広大な米軍基地を撤去させることに成功しています。

 一人びとりの力は小さく弱い。しかし、小さく弱いながらも、人間としての良心と良識を失わず、一人でも多くの人が手をとりあい、心を寄せあい、力をつくしあうと、一滴のしづくが集まって小川となり、小さな小川が集まって大河になるように、一人一人の人間が大切にされ、誰も殺しあうことのない平和な社会を形成することが可能になるはずであります。

 何よりも各人がそのもてる力、地位や権限を平和の方向、人類の共存と幸せの方向、民主主義と連帯の方向、あるいは法の原理・原則、理念にそって敢然と行使する時、その人間も機関も制度も、本来の崇高な目的にそって動きだすことでありましょう。

 準司法機関として設置されている収用委員会という制度も、これを動かし運用する個々の収用委員の皆さんの見識や力量如何によって、その機能は、国民、民衆の権利を擁護する民主的な方向にも、逆に国民の権利を抑圧し、国家など権力者や強者の利益を擁護する反民主的方向にも働きます。

 私もかつて1970年代に収用委員をつとめたことがある者の一人として、あまり口はばったいことは言えませんけれども、皆さんが体制全体の支配的な空気に影響される通説とか公権的解釈なるものにあまり拘泥することなく、この国の最高法規である憲法や永年の人類の歩みのなかから形成されてきた法原則や常識、あるいは、民主的に民衆の間から培われてきた道理を重視し、そして何より、自らの人間としての理性や感性、人権感覚と見識を発揮されるならば、必ずやすべての人々から支持されるようになるでありましょう。

 これまでの収用委員会の民主的な審理に改めて敬意を表しますと共に、21世紀を展望し、歴史の批判に耐えうる立派な裁決を下されるよう期待していることを表明して私の意見を終わります。

(拍手)

当山会長:

 ありがとうございました。ちょうどキリがいいようですので、ここで15分ほど休憩いたします。45分から再開いたします。


  出典:第9回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


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