沖縄県収用委員 第7回会審理記録

大城保英


大城:

 わたしは嘉手納基地内にありますの土地所有者の1人で、名前は大城保英といいます。沖縄県平和委員会の事務局長をしております。わたくしはこれから、嘉手納基地のスタートから現在までの54年間あまりもの時間について、嘉手納基地がいったいどのような役割を果たしてきたのか、それについて意見を述べたいと思います。

 54年ですので、しゃべるだけでも40分ではぜんぜんすみませんので、こういう年表を作ってみました。1943年9月の基地工事の開始から現在まで、14枚にわたっています。これをちょっと延ばしてみて下さい。えっと、全部じゃありませんけど、嘉手納基地だけについて、それも大きなところだけ、基地の強化とか嘉手納からの出撃とか、あるいは事件・事故とか、これだけ集めてこれだけのものになるんです。これを収用委員会のみなさんも、わたしの意見陳述の参考として、ご覧いただきたいと思います。

 さてわたくしは今からちょうど30年前、1967年、アメリカにおりました。そこでわたしが見たもの聞いたこと感じたことは何であったのか。今、一言で言いますと、軍隊、軍事基地といいますのは、大変なものだ。一言で言えば、軍事基地の本質は殺戮と破壊であることを学んだような気がします。まさにベトナム戦争真っ盛りで、わたしのとなりで一緒に勉強しておったのが、いつのまにかいなくなってしまった。どこ行ったのかっていったらベトナムにいったと。そういう時は知らさないです。早いものは1週間もすると学内の二カ所にうちの大学から出ていった学生の死亡者の名前が毎日何名かでる。あの時にわたしは初めて友達を戦争で失うという経験をした。

 あれ以来、30年、わたしは帰ってきまして、ずっと嘉手納基地とにらめっこしてまいりました。そこでこの嘉手納基地は、基地の本質というものと例外になるのかをそれを追って、わたしの意見を述べたいと思います。

 この嘉手納基地のスタートは1943年、さきほどの報告にありましたけれども、この時期というのは、ちょうど日本の敗戦が、敗戦の色が出てきた時期である。つまり、ミッドウェー海戦のあと。次第次第に日本は敗戦に向かって進んでいた。そして、しかるべき帝国の防衛線も、これも後退せざるをえない状況になってきた。

 沖縄は最初の段階では、南方への中継基地と言うよりも、中継場所にしかすぎなかった。しかし、それがいつのまにか、捨て石という、よく言われる本土防衛のための、捨て石と言われますけれども、本土防衛とそれだけのものではなく、まぎれもなく国体護持のための捨て石であった。これは沖縄全体がそうであります。

 そして沖縄、この嘉手納基地はどうなのか。嘉手納基地もその例外ではありません。これは日本軍の基地として、軍事のための飛行場、施設であった。やはりこれも一つの捨て石としてスタートしたわけなんです。それで、その間、この時のわれわれの沖縄の位置付けを捨て石と一言で申し上げましたけれども、実はこの収用委員会にかけられている土地の強制使用は、公共の利益と言うことが一つの理由になっております。果たしてそうなるのだろうか。

 例えばこれは、嘉手納基地がスタートしてから54年前、一度だって地域住民、県民のためになるようなことがあっんだろうか。わたしの感じるところ、実際には一度としてそういうことはなく、むしろ、県民の私有財産をまず奪い、命と暮らしを脅かしているだけでなく、子どもたちの学習権、それから健康を破壊し、町の発展を阻害し、そして、地域住民に物質的精神的負担を強いているのがこの嘉手納基地である。一言でいえばわたしはそうなると思います。

 そして戦争がはじまって、米軍の上陸するまでは、アメリカからは、日本本土への攻撃の足がかりにするという位置付けがあって、戦争が終わるまで、これは続くわけですけれども、実際はそれと同時に、これは本土攻撃だけではなくて、すぐこれはアメリカの基地になった。米軍上陸即、沖縄本島における米軍基地のスタートになった。

 そして、これまであった日本軍の基地をさらに拡張して、そこには、民家があるし、学校もあるし、墓もありました。まったく跡形もないくらい全部洗いざらい捨て去ってしまって、そこにこの嘉手納基地ができたわけです。

 そして、その後敗戦後どうなったのか。敗戦後は反共の防波堤。これは、共産主義があるかぎり、沖縄を無期限保有する。これは当時のアメリカの高官がたびたび繰り返し言っていた言葉です。

 そして、この1945年の敗戦後、47年には、――これから申し上げる年代はすべて西暦であります――。47年には25年ないし、あるいは50年、あるいはそれ以上、アメリカがこの沖縄を、琉球列島を軍事支配してほしいという、いわゆる天皇メッセージが出されました。この天皇メッセージ、これは、マッカーサーと当時のマーシャル国務長官あたりに出されるわけですけれども、この辺りから、しだいしだいに無期限保有の話が出て、米軍の長期滞在というものが出てきた。当時、コリンズ陸軍参謀総長が日本に来て、沖縄の無期限保有と在日米軍の長期滞在を発表しました。そして1959年には、沖縄基地建設のために、はじめて5000万ドルという金が米議会で通ります。これは、50年度予算なんですけれども、49年度でこれが通っている。そして、50年6月には朝鮮戦争がありまして、その頃から沖縄が、「Keystone of the Paciffic」というので、「太平洋の要石」という位置付けをしました。

 現に、現在までその位置付けは変わっておりません。基本的には。言い方は変わっていても、もっと強い言い方があるわけなんですけど、この太平洋の要石は今も変わっておりません。そして、朝鮮戦争が始まって一体どうなったかと。これは嘉手納基地が朝鮮半島への直接の発進基地として使われました。わたしも当時小学生でしたけれども、よく見かけました。なんかこの、朝鮮のほうから、今、考えてみるとその方角なんですけれども、ただ行くときには、プロペラが四つまわっているんです。四つまわって行ったB29が帰ってくるときには、動いているのは2つとか3つとか。そういう形で帰ってくるものを度々見た記憶があります。そして、あの、嘉手納周辺は、もう爆音で大変だったでしょうけれども、それよりも大変だったのは、このB29が飛び立っていって、そこで爆弾を落とす、その爆弾の下にいる人達なんです。で、あの朝鮮戦争で285万人の人が死んでおります。わたしは、3年前に、韓国にいったんですけれども、あの当時の米軍の使った武器などが、飛行機などが、飾られておりました。同時にまた、そこで亡くなった、いわゆるソ連軍の人たちの墓もたくさん見ています。

 そして、一般住民の人たちから、いろいろ話を聞いてみました。まあ、今だからこんなこと言えるけれども、と言うことでいろいろ話を聞いて参りました。たくさん話をすることができますが、このことはまた別の方が話してくれると思います。

 それで、その時に実は、嘉手納基地のパイロットで、ずっと、朝鮮半島に爆弾を落としてきた人で、ウィリアム・オーバビーという方がいらっしゃいます。この方は現在、オハイオ大学の名誉教授なんですけれども、彼は自分がやってきたこと、これは気が付かなかったと。飛行機からそれは見えなかったと。わたしは彼と一緒に基地をずっとまわったことがあるんですが、わたしには飛行機からは見えなかった。しかし、それを分かったときに、やはりこのままじゃいかん、そして日本にいらして、原爆の恐ろしさを見、そして、憲法9条があることを知って、彼は今、「アーティクル9」、彼は自分で作って、私財を投じて、日本国憲法第9条、これを、世界に広める運動をやっておる。

 さて、その後にベトナム戦争がやってきました。この辺りから、1953年、あの、アメリカの土地収用令、布令109号が出され、まさに銃剣とブルトーザーの土地取り上げが行わた。この辺りから、嘉手納基地も、沖縄も全島要塞化が問題になりました。この全島要塞化が来る途中でベトナム戦争が起こり、そして、65年にはKC135、といういわゆる空中給油部隊も常駐することになりました。

 さてスライドをお願いします。

え、ベトナム戦争が、始まりまして、そこに一番大きく我々沖縄県民にとって、被害を与え、また印象にも残っているのが、B52であります。B52が北爆、南爆をやりたい放題やりました。いわゆる絨毯爆撃で、絨毯のように無差別に攻撃をしていきます。そして、そのベトナムとの関わりについては別の方がやってくださいますので、たくさんは申し上げませんが。このベトナム戦争で、えー、今、これは、これはちょっとおいっとってください。

 黒い殺し屋というものが、B52がベトナムに飛んでいって絨毯爆撃をやっていった訳ですけれども、そこでも、死者がですね。これは朝鮮半島でもかなり多くの死者を出しているわけですけれども。詳しいことはまた後ででてくるんで。これも地元に住んでいらっしゃる嘉手納の町民にとって、爆音が非常にすごかった。下の方に、フカのヒレみたいな垂直尾翼があります。こういうもので、ベトナム戦争が終わるまでずっと、台風非難とかなんやかんやいいながら、やってきてベトナムへ飛んでいっております。

 そして、この頃にいろいろの事件事故も起こってきます。例えば、燃える井戸水とか、あるいは由美子ちゃん事件とか。そういうような事件もこの時期に起こります。

 時間がありませんので、ベトナム戦争のところはそれだけにして、次に、最近になってもう一つ大きな戦争がありましたけれども、湾岸戦争。この湾岸戦争には沖縄はどう関わってきたのか。特にこの嘉手納基地はどうかかわってきたのか。ということを申し上げたいと思います。えっと、沖縄からは、海兵隊も含めて、8000人余りの米兵が湾岸に飛びます。日本全国土の米軍基地から1万5000人余がおりますけれども、沖縄にはこの半分以上の8000人余りが飛んでいっております。それで、兵員輸送はほとんどこの嘉手納基地から出ております。で、あの当時、つまり、「砂漠の嵐」作戦というのがありますけれども、それに先立つ「砂漠の楯」作戦、それも第一段階、第一戦は、これはアメリカの国防報告によりますと、その日が8月の7日です。わたしたちはあの時に、嘉手納の基地の今の安保の見える丘、そこにテントをはって監視行動をやっておりました。8月7日の夕方、完全武装の兵隊たちがC130に乗り込むのを見かけました。一体今頃どこに行くんだろう。正直なところそういう疑問がおきました。3日後の米軍発表によると、湾岸に出発すると。湾岸戦争に出発した、ということが初めてわかりました。

 その後、「カデナ・ショウグン」とか「星条旗」とかで発表されてきた、報道されてきた。でもですね、沖縄からは、海兵隊だけでなく空軍がかなり行っております。嘉手納弾薬庫からも出ていっております。

 そして、この、一番多かったのは、空軍ならば空中給油部隊が350、353名、空輸支援関係の要員が81名、弾薬整備部隊、第400弾薬整備中隊というのが、嘉手納弾薬庫の中におりますけれども、それが44名。この44名が派遣されたんですけれども、彼らが運んだ弾薬は9,800トンという弾薬を嘉手納基地から湾岸に運び出している。そして、この他、もう湾岸だけではなくて、あの当時アメリカ本国やグワムの方に、湾岸戦争の支援として派遣されております。

 そして、兵士が運ばれる。あるいは弾薬が運ばれる。これは運ばれていって、ただ、するわけではありませんから、当然人に向けて、建物に向けて、陣地に向けて、これが発射される。最初に申し上げましたように、まさに殺戮と破壊。この足場に、嘉手納基地はなされているということが、湾岸戦争でもはっきり見えていると思います。

 さらに、この、嘉手納基地に残留した部隊があります。この部隊はじゃあ湾岸戦争に関係なかったのか、といいますと、これは24時間体勢で嘉手納基地も弾薬庫も、普天間基地もそれからキャンプキンザー、名護のですね、全部24時間体勢でやっているわけです。そして、彼らの補給部隊が、運んだ化学戦用の防護装置や軍服などこれが2,000万ドル相当のものが、いや200万ドル、ごめんなさい、200万ドル相当の防護服や軍服が嘉手納から運び出されている。それだけはなくて、湾岸戦争の時に主力になったF15も、これも部品が足りないと言うことで、嘉手納から、もう本当に日々をついて積み出されていった。その結果91年度の前半、ここ嘉手納のF15の部品が不足したという。

 こういうようなことをで、湾岸戦争を見ると大変くっきりわかることは、この地球上のどこかで、アメリカが戦争を起こしますと、自動的に嘉手納の基地が動く。どこにでも自由発進していく。しかもいわゆる極東の範囲を超えているにもかかわらず、事前協議無しで飛び出している。日本政府はそれを認めている。こういうことがあると思います。

 さて、最近の嘉手納基地なんですが、この嘉手納基地は、空軍基地なんですけれども、嘉手納エアベースといいます。しかし、これは、海軍も海兵隊も陸軍も誰でも使える。自衛隊でも使える。そして、海軍の司令部もこの嘉手納基地のなかにある。そしてこの基地は、情報通信、指揮管制、諜報つまりスパイですね、戦闘・攻撃、補給・支援、救難など、このような総合的な機能をもっています。

 まあNBC戦争、NBCというのは、Nは核ですね、Bは細菌・生物兵器です、Cがケミカルウエポンというので、化学兵器です。こういうNBC戦争から低強度紛争にまでも対応できるような基地になるっている。そして、その基地の中心部隊は第18航空団。これが中心になっておりますけれども、それは1991年から93年にかけてこの基地が大きく再編強化されました。それまではいくつかの部隊が、これは指揮系統が全く別々の部隊であったのが、し

かし、緊急な場合、指揮官が相談しておったんでは、緊急行動できないということで、

「One Base, One Wing, One Boss」「1基地、1飛行隊、1司令官」。一つの司令官の元に全部一緒に報告できるような、そんな体勢が取られている。かなり強化されております。そういう風になっております。

 そこにおります飛行機は、F15というのが主力になっていますが、次のスライドをお願いします。えっと、これがF15というここの主力戦闘機です。これは、ソ連崩壊の頃までは72機正規配備されていたんですけれども、現在54機に減らされております。兵員も減らされているわけなんですが、わたしたちの監視行動の結果ですね、その兵員も数も減らしたという、報道した後、実は、全飛行回数が増えている。数は減ったけれども、兵員は減ったけれども、飛行回数だけは増えている。

 これはどういうことを意味するかといいますと、アメリカの今の戦略、スリムな部隊で大きな力をというのが一番大きな方針なんです。つまり、金がかからないように、兵員は減らすけれども、精鋭部隊を作る。訓練も強化されて、これは全飛行回数も嘉手納が一番多い。1週間の全飛行回数の66%はこれが占めておると。わたしたちの調査結果から出ております。

 次お願いします。これはKC135という空中給油機。これが昨年の9月4日、アメリカが独自でイラクを攻撃したときに事前協議無しで飛び立っていった給油機ですね。

 これがE3B。これは空飛ぶ司令室といいまして、上の円盤の中に、コンピュータがあって、あの、半径400キロの情報を飛びながらこれをコンピュータで分析し、15機の戦闘機に対して同時に司令を発することができる、空飛ぶ司令室といわれております。かなり、値段は高いという。

 これがMC130。あの、フィリピンの基地から追い出されて行くところがなく、嘉手納に一時・一部ということでいたのが、91年には居座ってしまって。特殊作戦部隊、空軍の特殊作戦部隊等で。これがまた、イラン人質救出作戦、あの当時沖縄にはこれは4機おりまして、4機行って、一つは砂漠でおっこちて3機しか帰ってこなかった。3機帰ってきたものは嘉手納で来て確認いたしておりますけれども。これが、フィリピンに行って太ってまた帰ってきた。次お願いします。

 これはHC130と言う飛行機で、これは130という先ほどの機種とは同じなんですけれども、これはあの救難用の飛行機なんです。その特長は頭の上に大きなコブがある。これと、60というヘリコプターが前のHC3というのがありましたけれども今は60が新しいので。次お願いします。

 え、これはF/A-18Cホーネットというものでこれは艦載機なんですけれども、空軍のものではありません。この飛行機はみなさん、ご記憶があると思いますが、サダム事件というものがありました。バハマ船籍の貨物船がミサイルで、標的にされて、当時載っていたフィリピン国籍の乗り組み員が右腕をもぎ取られた事件がありました。これは、海兵隊がもっておりました。岩国から嘉手納に飛来しております。

 これが、F16核攻撃機。これの後ろの方に、MJと書かれている。Mが三沢、Jはジャパン。三沢からきたものです。F16というのは、韓国の基地からもここに飛んできます。ちなみに、ちゃんとした修理ができるのは嘉手納基地です。嘉手納にはアジアで唯一といわれる第二種飛行機の整備工場があります。飛行機の第一種整備工場というのはメーカーです。第二種というのは、修理だけを専門とするところでは、最高峰の修理部門になります。1970年代にはこれがさらに強化されております。次お願いします。

 え、今のF16・F15に積み込むミサイル、それから、サイドワインダーなどですね、そういうものがあの飛行機に乗せて飛び立って行くわけです。あまり見かけないものですけれども、これが嘉手納弾薬庫の中にあるわけです。これの模擬弾が、わたしたちの監視行動によると、朝の6時から7時にかけて、このようにトレーラーに積んで、F15の格納庫の所に移動する。それを積み込んだ後F15が離陸するというのが、我々よく観察しております。時間があまりありませんので、次いきます。

 これは、湾岸戦争の時に使われた低レベルのレーザー誘導爆弾、で、これは一個7万2000ドル、およそ730万円もするたいへんなもので、それも嘉手納から積み出されていったもの、これもF15、F16にこういうものが搭載されて、落ちたところは大変だ。特に湾岸戦争では、ベトナム戦争の教訓をあって、プレスコードつまり報道管制がしかれまして、惨たらしい場面は報道されませんでした。しかし、実際にはこれらが飛んでいって、学校も協会も、爆撃したあとで、マスコミにでてきたのが、わたしたちの記憶に新しいところです。次お願いします。

 えっとこれは、 EA-6プラウラーといいまして、これはA6イントルーダーという攻撃機の改良型なんですけれども、これは電子線、あの妨害電波を出して、敵の交信を撹乱すると。嘉手納でこの訓練をやったら、撹乱されたのは、那覇の空港だったと。この妨害電波がなんかであったというのが新聞に報告されましたのでご存じだと思います。次行きます。

 これは有名なハリアー。AV-8Bハリアーといいますけれども、垂直離着陸機。これは嘉手納でわたしたちが監視行動を取っている限りにおいて、嘉手納で垂直離陸したことは一度もありません。しかし、着陸はしている。あの、離陸する場合はですね、あまりにも大きな音を出しますし、それから、セメントやアスファルトなどは壊してしまう危険性があります。ハリアーパッドというのは鉄板をはってあります。次行きます。あ。これがですね、海兵隊に配備されて、海兵隊の戦争能力、その虐殺隊としての能力もかなり飛躍的に強くなったといわれるのがこのハリアーの配備です。次いきます。

 これは輸送機でC141。これは普通、輸送を担当しておりますけれども、1970年代の、アメリカの議会の文書を読んでみますと、朝鮮半島の有事の際におよそ6万人の死傷者がでる。この6万人を南だけでは対応できない。そのため、南では、応急手当をして、この飛行機を、あの、なんというんでしたっけ、病院機ににしたて、これを日本に運んでくると。日本で、一定程度の治療をして本国に送り返すというシナリオが、発表をされました。あの時にアメリカの国防予算が、日本国内にある米軍病院の強化で実際に支出されている。そういうものです。次。

 これはC130という飛行機なんですけれども、これは、先ほどの130と同じ型。これはですね、500メートルあれば離着陸出来る非常に便利なものなんで、たくさん部隊でも使われますし。それから自衛隊が湾岸戦争の時に、出していったものと同じ型。色は違います。次お願いします。

 えっと、これは、C5ギャラクシーという大型輸送機です。これは、戦車も積めますし、ヘリコプターも2台積んで本国から普天間にもってきたのがこれと同じです。

 ということで、わたくしの方はスライドがありますが、あとすこし、わたくしに時間がありますので、ご理解いただきたい。

 このような嘉手納基地、この嘉手納基地は、嘉手納弾薬庫と一緒なんですが、復帰前から現在まで核疑惑が絶えません。アメリカの核政策の基本は、NCNDといいます。「No confirmation, No Deny」、つまり肯定も否定もしないということです。国会議員といえども核弾頭の有無については、残念ながら確認できません。

 しかし、核だけでなく、NBCがあるんじゃないかと言う状況証拠がたくさんあります。すこし申し上げますと、まず一つ。あの、嘉手納基地だけにもですね、5つのNBC部隊がいるんです。これは、そもそも第18戦術戦闘航空団EOD、それから第400弾薬整備中隊EOD、第一海兵航空隊EOD、海兵航空施設隊EOD、第36海兵航空宇宙群、こういうものが実はあるんです。そして、沖縄にも、実は核関連施設というのは今27。これはアメリカも、米軍の電話帳から共産党が調べたものなんですけれども、27。90年度よりは91年度がすこし増えている。こういうようなものがあって、あの、80年代に比べるとものすごく増えているわけです。そこで、EODというのはどういうものかというと、これはアメリカの民間調査団体ノーチラスというのが、入手した太平洋艦隊司令官の司令文書があります。これちょっと読み上げて紹介したいと思います。

 一、核兵器の移動または積み替えに際して、事故が起きないように支援する。二、各化学兵器、または危険な廃棄物や爆発物を扱う際、取扱い、集める際の取扱い、貯蔵に当たる。三、核兵器に事故が起こった場合、緊急破壊する任務を持つ。これが、その太平洋艦隊司令官の司令文書といわれるものなんです。そこで、さらにあの、第400弾薬整備中隊。これは嘉手納弾薬庫の中にある主力部隊なんですけれども、これは核を使える大変な部隊なんです。そういうことで、さらに訓練としてはどんなのがあるかといいますと、核の訓練では、あの、「Broken Arrow」といいまして、「折れた矢」という意味なんですけれども、これは核兵器が重大事故にあった場合も含んでおります。それから、PAL訓練。パル訓練と言いますけれども、これは核兵器の起爆装置の脱着訓練。そういうものも行われている。この二つについては、嘉手納基地司令が、年間4回も行っているとことを、過去に証言したことがあるんです。更に核兵器を搭載する飛行機がハイジャックにあった時の場合の対応訓練もまたある。

 というようなものもですね、などなどたくさんあるわけですけれど、時間の関係で割愛しますが、あの、核専門要員が配備されるということと、このような訓練が現に行われているということで、核弾頭の有無の確認はできませんけれども、やはり、まったくないところになにもしないということはないんじゃないか。

 それともう一つ、嘉手納の核合同訓練を行っていますけど、もし、核、あのNBCで攻撃された場合、隣に住んでいる我々いったいどうなるんだろう、という不安があるんですね。これはもう、あるともないとも言わないので、われわれには、対応の仕様ががないわけです。

 あと一つ、嘉手納基地のことでは、安保の範囲の問題について。在日米軍が出撃できる範囲は、極東の範囲と言われていますけど、これについて、海兵隊司令官の証言をちょっと紹介しますと、あの米海兵隊総司令官のバーロー大将は80年なんですけれども、これは、あのインド洋アフリカの必要な事態に即応することが海兵隊の任務であること。在沖海兵隊、第三海兵隊。はっきりいってます。そして、沖縄の司令官アムセルド少将は受任式でこういうことを言ってます。わたしが率いる部隊が出動する区域には、特定の制限はない、中近東への出動も可能性としては常に存在する。この二つの証言も海兵隊の司令官の証言なんですが、しかし、この日本からの出撃範囲の問題についても認識はまったくないといっていい。具体的にはひとつだけ申し上げましよう。いまさっき申し上げました、あの湾岸戦争。これはまぎれもなく中東なんです。わたしは6月の末に日本の国際法律家協会のみなさんとアメリカ10日間ほど巡ってまいりました。あの時に、SACOをつくった佐藤さんが言うには、極東というのはわれわれの言葉ではないと。極東とはイギリスがつくった言葉だ。だから範囲はどこまでか、わからないととぼけておったんですが。わからないはずはないんです。そう言うことは見越してはおりますが、彼らはもう80年代からすでに米軍が出動する範囲には制限はないと、いいきって、行動をしておりました。

 そして、最後にあと一言だけ申し上げますと、まとめに入りますが、えっと、わたしは軍事基地というのは、最初に申し上げましたように、その本質は殺戮と破壊なんです。そして、1945年当時、占領軍司令部の文化情報教育課長をしていた、デービッド・コンデ氏、この人はマッカーサーと意見があわなくて首を切られた人なんですが、彼は朝鮮戦争をもって、全人類に対する支配を確立しようとしているアメリカの第一の犯罪であったと規定しました。そして、ベトナム戦争について、やはり同じように第二の犯罪であるというようなことで、あの、現在、もうやはり同じ様な考えだと思うんですけれども、わたしたちはまさにこの犯罪に荷担しているわけです。

 アメリカはこの犯罪をこれからの未来永劫にさらに続けていこうと、そのために、アメリカのいいなりになって、日本政府はなりふりかまわず米軍用地特措法を改悪し、そして、憲法29条を無視してわたしたちの私有財産を取り上げようとしている。

 やはりわたしたち、特に沖縄県民から、「命どぅ宝」ということで、基地を無くす、基地を無くすためには一日も早く安保を無くす。安保は無くならなくても基地を無くすことでは、全県民、全国民は一致できると思います。そういうことで、基地は百害あって一利なし。ということで、これは全く公共の利益には当てはまらない。ということで、あと、収用委員会のみなさんの賢明なるご判断をお願いして終わります。

当山会長:ごくろうさまでした。では、次に池宮城紀夫さん。


  出典:第7回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉


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