沖縄県収用委員 第5回会審理記録

久保田一郎 伊江島反戦地主


久保田一郎:

 わたしは久保田一郎と申します。伊江島の住人ではございません。四国の松山に住んでいる人間でございます。今までの伊江島の地主の方々のお話を聞いておりまして、なんといいますか、わたくし体験したことのない、こころの中が凍り付くような思いで、勇気を失いかけておりますけれども、わたくしは、やっぱりわたくしなりに、わたしの責任において、今まで沖縄に通ってきた。そしてまた、松山のなかで、どんなことが起こっているのかと言うことを交えながら、わたしなりのご意見を申し上げたいと思います。

 わたしはまだ松山に住みまして、年月が浅いために、本当のことはわかりませんし、松山の悪口も言いたくはございませんけれども、あの、大勢としては、あの、日米安全保障条約は我々の豊かな生活を守る上で絶対に必要である、そのの米軍基地は絶対に必要であると、気の毒だけども沖縄の人に頑張ってもらわなければならない、という意見が大多数のようでございます。それを完璧に表しておりますのは、愛媛県から選出をしております国会議員のなんと100%がその勢力でございます。それは県民が選んだ代表であります。

 昨年来、大変お忙しい中をわたしのお会いした中でも、有銘さん、桑江さん、それから福地さん、知花さん、で、最近では、渡嘉敷島から、の出身であります、金城秀明さんがわざわざ松山においでくださいまして、自分の体験やら現場の状況をいろいろお話をしていただきました。それと、米軍による、あの、申し上げることも嫌なような暴行事件、それから、特措法の改悪、そういうことによって、いままで考えたこともなかった人たち、沖縄のことなど全く知らなかった人たちまでが、これはおかしいんじゃないかと。われわれの責任において、やっぱり沖縄の人たちをいっしょになって考えなければならない、そういう、あの、考えの輪が非常に少数でありますけれどもひろがっているのも又事実であります。

 わたくしは、わたしの仕事として、あの、沖縄戦やこの米軍基地の状況をしらない人たち、これはまずその実態を知らなければ、なにもかんがえることもできなければ言うこともできない。だからその人たちにぜひ、沖縄を訪ねていただきたい。現地の人には迷惑かも知れないけど、毎年かなりの人を連れて沖縄にやって参ります。

 それで、その人たちが中心になってなにかできないかと考えました時に、あの、ちょうど「月桃の花」という映画がございます。それをまず上映して、わたしたちで勉強しようじゃないかという事で、手作りのビラをつくって、あるいは券を配って一生懸命頑張って券を売りました。おそらく、胸算用では、2000人以上の人が来るだろうと。そんな大きな会場を準備して、待っておりましたけれども、蓋を開いてみますと、なんと、550人の入りでございました。松山には45万の人間が住んでおります。だから%にしますと1%強でございます。これが実態です。

 それで、わたしたちはくやしくて、県内あちこち上映会を開きましたけれども、それは1回はじめのことでございます。まだ今年も6月の末の1週間、小さな映画館を借り切りまして、もう一回あの、みんなの口コミを信じて、もっとたくさんの人にみてもらいという気持ちで上映会をいたしました。その結果はまさしく惨憺たるものでございました。一日の入場者は平均は僅かの20人でございます。これは松山の実態でございます。

 だから、安保は必要である、米軍基地は沖縄にお願いしよう、というそうする他しかたがない、それがわたしはおおかたの本音ではないかと、そういう感じがしてならないのであります。

 わたくしが考えますのは、まず他府県の人間は、沖縄の基地の問題を考えるその前に、明治の前に遡って、まあ無理かもわかりませんけれども、すくなくとも半世紀前、50年前の沖縄戦の状況、この本土の人間が生き延びるために捨て石とした、その実体験をもう一度学び直さない限り、わたしはほんとの平和運動はできないのではないかとそういう考えを強く持っているものであります。

 もし、わたくしもそう申しますけれども、もしわたくしも15、6年前の話になりますけれども、ある人を通じて、そして書物を通じて、二度とわたしの人生で得ることの出来ない、わたしの恩人、恩師であります阿波根昌鴻さんにあうことができなかったならば、わたしの人生はまた、非常にくだらない、老後を送っていたのではないかと、今思っているわけであります。

 最近、政治家やあるいは学者と名乗る人のなかに、南京大の虐殺やあるいは軍隊慰安婦、それは嘘だったと。子どもたちに教えてはならないと。そんなことを公言している大馬鹿者がいます。わたしは考えます。このこころを無くした人たち、もしかしたら、まだ今言えないけれども、彼たちは沖縄戦あれは嘘だったと。あれは作り事だったともしかしたら言い始めるのではないかと。そういうような非常に危機感を感じております。恐るべき時代の到来だと感じております。

 わたしは昨年、阿波根昌鴻さんから土地の一部を譲り受けました。人殺しの戦争準備のためには、先ほどからありましたように、一坪の土地も貸すことはできないと。あの、高齢で病身の体をすり減らして、平和を作り出す闘いをしているあの、彼の生涯をかけた仕事を、あの生き様をみて、わたしもそれに学んで、契約を拒否して反戦地主と呼ばれるふうになったわけです。

 正直なところ、わたしはあまり、反戦地主という言葉が、まだ、わたし、あたらしいせいか、なじめません。むしろ平和地主と呼んでいただきたい。なぜならば、沖縄で長い間、不屈の闘いを続けてきた人々はこの自国のことや日本のこの小さなスケールではなくて、誇るべき日本国憲法が理念とするもの、全世界に広めて、世界中から戦争の目を根絶したいと。そういう非常に大きな志を持っている人たち、人々の集まりであろうとわたしは信ずるからであります。だから平和地主であると思っております。

 わたしが土地を譲られました理由は反戦地主になって、闘うことだけではありません。阿波根さんの生涯の夢であります、あの真謝の広い豊かな土地に農民学校を作るという彼の雄大な夢、わたしはその真似事も出来ませんけれども、都会のなかで、あるいは大きな会社の中で、疲れ切ったり、疲れた人たちや、あるいは老後の人たち、そういう人たちがこのきれいな沖縄にやってきて、それで、疲れた体を癒して、そのなかで遊んでまた元気になって帰っていくようなそんな、わたしは大工が好きですから、手作りの家を、あの土地に作りたいという夢をわたしは持っています。できるなら、わたしは現在66才であります。早く返していただかなくてはもう時間がありません。

 今日まで、わたしは公開審理にわたしは松山から通って参りました。そしてあの、問題になります、参議院の特措法の改悪の本会議に参加をいたしまして、傍聴をいたしました。そこで、つくづく感じましたことは、これはわたしの考えでありますけれども、まず、沖縄は日本に復帰したと言われている。でも、それは決してね、まだ来てみると、話を聞いてみると、日本国憲法の及ばない植民地ではないかと。それからもう一つ。防衛施設局の話を聞いていますと、この人たちは、日本人なんだろうかと。アメリカ合衆国の日本の出張所じゃないかと、いう気がいたします。

 このような状況を半世紀に渡って作り出しておきながら、なお変えようとしない。そういう日本人は、わたしを含めてですけど、いったいいつまで行けるのだろうかというのが反省であります。

 あの、これはうそかほんとかわかりませんけど、特措法改悪という沖縄処分とも言える、あの大問題をですね、2人のボスが首相官邸でウィスキーを飲みながら決めたという話を、聞いておりますが、言語同断であります。このような政治の姿を作り出したのも、間違いなくほかならぬわたしたち日本人全部であります。

 ここで申し上げます。防衛施設局のみなさん。あなた方は選び抜かれたエリート官僚であります。そして、わたしたち同じ人間であります。だから、仕事を通じてみんな沖縄戦の深い傷跡に住んでて、わたしたちが、あなた方がやっていることは間違いではなかったかということを感じられることがあるだろうと思います。もう、いや、あの、そういう仕事やめませんか。それで、平和を作り出すことをわたしたちといっしょにやりませんか。もしそのことが、この沖縄の防衛施設庁のなかから、そういう声がなかったならば、わたしは間違いなくノーベル賞ものだと思う。そして、世界の史上に燦然と輝く快挙になるだろうとわたしは信じます。

 最後に、沖縄県収用委員会のみなさん、大変ご苦労さんでございます。他の他府県ではおそらく、想像も付かない苦悩とご苦労の連続であろうと思います。第一回の収用委員会に会長からございましたように、徹底的に審議を尽くして、後世の歴史に耐える態度を下すということでありました。どうか一つ、この言葉を信じて、わたしたちは待っておりますので、歴史に耐える裁定を下していただきたい。このことを最後にお願いいたしまして、わたしの陳述を終わります。

(拍手)

当山会長:はい、ありがとうございました。それでは次に名嘉実さん。


  出典:第5回公開審理の録音から(テープおこしは比嘉

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