沖縄県収用委員 第5回会審理記録

名嘉実 土地所有者代理人


土地所有者代理人(名嘉実)

 ただいま紹介されました私は日本共産党伊江村会議員をやっております名嘉実といいます。私は阿波根昌鴻さんの代理人として、伊江島で行われております米軍の訓練の内容や基地被害について説明し、意見を述べたいと思います。

 これは伊江島の基地の全景ですけれども、伊江島の基地の面積は、1953年の土地収用以来、施行当時の面積は13.9平方キロメートル、これは島の63%にも及びました。その後1965年に1万5,000平方メートル、1970年に503万7,000平方メートルが返還されております。これは島ぐるみの土地闘争によって勝ち取った成果でありますが、この地図ではよく分かりませんけれども、この基地の境界線が複雑に入り組んでいるために、現在でも多くの問題を抱えております。

 そして1977年に6000平方メートル、1982年には4万4000平方メートル。これは反戦地主の土地で、黙認耕作地内にある赤い点々の部分ですが、あれは赤い点々の部分はフェンス内にある反戦地主の土地です。それ以外の中央に虫喰い返還がされておりますが、これが防衛施設庁が基地反対闘争を分断するために4万4000平方メートルを開放しております。フェンス内の土地は契約を拒否しても強制収用されておりますけれども、黙認耕作地内にある土地については、虫喰い返還、嫌がらせのための虫喰い返還をすると言うことが行われております。そして1987年に2000平方メートルが返還されております。

 以上、伊江島の基地は5回に分けた返還がされておりますが、この合計が510万4000平方メートル、当初の面積の36.7%にあたりますが、いまだに黙認耕作地を含め、島の面積の約35%、800haが軍用地になっております。

 

 これはハリアーパット、ハリアー基地ですけれども、ハリアーというのは、皆さんご存じのように、久米島の鳥島に劣化ウラン弾を撃ち込んだ。これは垂直離着陸、ヘリコプターのように飛びまわることができます。

 ハリアー訓練場について説明します。1989年、防衛施設庁は当初、国頭村阿波に建設予定でありましたけれども、そこの地元住民をはじめとした県民の強い反対闘争に遭いまして、この建設予定地を伊江島に変更し、押しつけてまいりました。村は見返り事業を条件にして、ハリアー基地建設を受入れました。そして議会も全員一致で受入れを決めております。村民が、それを知ったのは私も含めましてマスコミで報道されて初めてでありました。

 当然のことながら反対運動も起こりましたし、すべての村民が賛成したわけではありません。伊江島の米軍基地は、この年の8月1日付けで、これまでの空軍から海兵隊へ運用管理が移管されておりますが、現在、実際に使用しているのは在沖4軍、海兵隊、海軍、空軍、陸軍、すべての部隊が使用しております。ハリアーパットは島の北西部、先ほどのスライドで見えましたように、反戦地主の土地が集中している地域に建設されております。

 ハリアーの訓練は、訓練場が完成した翌年の1990年が13日、この年にハリアーが伊平屋沖に墜落いたしました。そして91年12日間、92年4日間、93年4日間、94年5日間、95年が10日間、96年が15日間、97年が7月3日現在までに4日間となっており、訓練日数は少ないのですが、この7年間にパットの全面張り替えが、建設当時の工事を含めますと、3回、部分張り替えも数回行われており、伊江島の訓練場は単なるハリアーの訓練場だけではなくて、ハリアーの飛行場をつくる訓練場になっているものと思われます。

 ハリアー以外の伊江島で行われている基地内の訓練の状況について説明します。伊江島の基地での訓練はハリアーの訓練だけではありませんで、C141スターリフタ、これは大型ジェット機です。その大型ジェット機による物資投下及び兵士の降下訓練、それからC130ハーキュリー輸送機による物資及び兵士の低高度、中高度、高高度降下訓練、昼夜を分かたぬタッチ・アンド・ゴー、そして、無灯火での離着陸訓練も行われております。そのほかにも、CH46、CH53、その他のヘリコプターによるパラシュート降下訓練、フェンス内にあるこの白い部分の飛行場ですが、その飛行場の整備訓練、そして、兵士が敵味方二手に分かれての、空砲ですが、銃撃戦。銃撃戦は昼も夜も、これは夜中も時間も無制限に行われております。そしてこの兵士が港のほうまで行軍をして、そして村営のフェリーで帰っていくということもたびたび行われております。それ以外の訓練もありますが、夜間訓練が多いために、すべて把握することはできません。今の写真は行軍を終えて、フェリーで帰還をしていく米兵たちであります。

 そして、先ほどのスライドでありましたが、これがビーチクレストのカモフラージュした管制塔です、あれは。

 次、お願いします。ハリアーパット張り替え工事だとか、ビーチクレストというような大規模な訓練がありますと、伊江島の港は、バージーとか伊江村営のフェリーによって、この軍事物資がトラクター、それからシヤボ、ロードローラー、トラックだとか、そのほかのコンテナに入っている品物については確認できませんが、島の港が軍事物資でいっぱいになります。さながら軍港と化してしまいます。

 次、お願いします。

 

 これはハリアーパット周辺の側溝です。ハリアーパット飛行場をつくるときに、土を剥ぎ取るわけなんですが、これは側溝に溜った赤土それから、この赤土が……これはハリアーパットのほうから海岸に向かっての道路です。赤土がむき出しになっていまして、大雨になると表土が海のほうに流されていきます。そして、海岸がこのように土で汚染されてしまいます。伊江島の海岸は、この地域から南側に灯台がありまして、そして潮は東に流れたり、西に流れたりということを繰り返すわけですが。伊江島のイノーのサンゴ礁はもう死滅しております。これが米軍の大がかりな訓練による披害が大きいというふうに考えられます。

 

次、お願いいたします。

 これは伊江島での落下傘、パラシュート降下訓練ですけれども、伊江島のパラシュート訓練については、マスコミでもあまり報道されませんが、伊江島で行われておりますパラシュート訓練は、先ほど申し上げましたように、C141、それからC130、CH46、CH53、そのほか、ちょっと名前が分からない、ちょっと小型のヘリコプターによる、高度も低空、中ぐらい、それから兵士の姿もやっと確認できるほどの高高度からの降下訓練という訓練の種類も多くなっております。

 SACO(日米特別行動委員会)の最終報告では、読谷村で行われておりましたパラシュート降下訓練については、伊江島に移転をするという報告書が出されましたけれども、読谷村では今年になってまだ一度も訓練は行われていないことから、もう既に伊江島に統合されていると考えられますが、この飛行機は読谷から来たものだとかいう織別はできないということが現状です。

 伊江島の基地は、パラシュート訓練場としては狭く、そして、北風が強い冬場でも訓練が行われるために、フェンス外への物資投下ミスや、兵士の降下ミスが多発しております。ハリアー訓練場が建設されて以来、この7年間だけでも、物資投下ミスが4件、兵士の降下ミスが5件起きており、そのうち1件は民家の上に、2件は夜中の8時から10時にかけての物資投下ミスと兵士の降下ミスであります。

 今、写真に写っております兵士は、ベトナム戦争当時に降下訓練を行っていたベトナム兵士であります。

 

次、お願いいたします。

 基地外への兵士の降下、これは随分古い写真ですが、現在でもフェンス外への兵士の降下ミス、これは先ほども述べましたが、この7年間だけでも5件起きております。そして、人数が13人、そのうち1件は民家の上、そして1件は夜中に起きております。そのほかに物資の投下ミスが先ほど述べたとおりであります。

 以上が、伊江島で行われております米軍の演習の訓練と事故のあらましであります。

 私の意見を述べたいと思います。

 伊江島は去る大戦で、軍人と村民を合わせ、3,500人余りの犠牲者を出しました。戦後の爆弾処理は米軍の訓練でも多くの尊い命が奪われました。1954年から始まった伊江島の土地闘争は、復帰運動の原点だと言われますが、過去25年間の防衛施設庁の懐柔策によって、闘いは分断されてしまいました。ほかの地域に例を見ない多くの黙認耕作地の存在と、基地周辺整備資金にどっぷりつかった行財政運営、そして国の福祉、教育費の切り捨て、農産物輸入自由化政策が村民の基地依存からの脱却を難しくしています。これは伊江島が典型的な例ですが、沖縄全体の問題でもあると思います。国は軍転法を充実させ、差別してきた沖縄が経済的に自立できるまで責任をもつべきであると私は考えますが、去る国会では、安保条約を憲法の上に置いた沖縄差別法である米軍用地特別措置法が衆参両院とも9割、8割の圧倒的多数の賛成で改悪されました。

 収用委員会の権限も大幅に制限され、国の政策が変わらない限り、沖縄の米軍用地は永久的に収用できるようになりました。自衛隊が米軍とともに世界のどこにでも出動できるようにするための、日米軍事協力のガイドラインの改悪も日程にのぼっております。

 このような悪政が続いたならば、沖縄は将来も、戦後52年間と同じように、米軍が関わった事件、事故に悩まされ続けることになるでしょう。また、アジアをはじめ世界の罪のない人々を殺戮する侵略の基地になることは明らかであります。

 私は、そうならないようにするために、きょう発言された反戦地主の皆さん、そして、支援のために参加された皆さんとともに闘っていきたいと思います。

 以上で、代理人としての発言とします。ありがとうございました。


  出典:第5回公開審理記録(テキスト化は仲田

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