沖縄県収用委員会 第10回審理記録

中村博則(土地所有者代理人)


 土地所有者代理人(中村博則):

 地権者代理人の中村です。私は、牧港補給基地の中にある浦添市字城間竹下1112番の土地の所有者である津波善英さんの代理人として意見陳述します。

 津波さんは、1974年に父親からこの土地を相続して以来、土地は米軍基地に貸さないという立場を一貫して取り続けています。その理由は、戦争中の体験に基づいて、戦争は人殺しにつながるという確信をもっているからです。

 米軍が上陸して以降、津波さんの家族は、当時、山であった城間4丁目付近の壕に 住んでいました。その隣の壕におじいさんが住んでいました。あるとき、おじいさんが自分の壕から津波さんの家族の壕へ来ようとしたときに、津波さんたちの壕の前で米軍に撃たれてしまいました。津波さんが壕の外に出てみると、おじいさんはもう息を引きとっていたそうです。そのときの情景を今でもよく覚えているということです。

 その後、津波さんたち家族はコザ市へ疎開をしました。そして、あるとき自分たち

米軍に追われて友軍の陣地へ逃げ込んだら、米軍からはガス弾をまかれて、丹前で口をふさいで、壕の裏口から逃げたそうです。そして、終戦のときには、津波さん家族は壕の中で米軍に見つかり、米軍のジープに乗せられて、越来の収容所へ運ばれました。

 この越来の収容所では米軍が女性を強姦するということで、1斗缶を用意していま した。そして、危険が迫るとその1斗缶を叩いて合図をするということが繰り返され たそうです。

 また、津波さんのお兄さんは、喜屋武岬あたりで戦死したということですが、遺骨はありません。

 津波さんは、戦争で人を殺しても、また個人が人を殺しても殺人に変わりはないと、それどころか戦争は大量殺人であると考えています。だから、戦争につながる目的のために、一切自分の土地は貸さない、絶対に貸さないと、そう思って契約を拒否し続けてきたそうです。

 津波さんの土地は、戦前は畑として使用されていました。津波さんのお父さんが作物を収穫して、一家の生活を支えていたそうです。

 米軍は戦争中から津波さんの土地を占領し始めて、終戦直後には、先ほど言ったように、津波さんたちを収容所へ収容して、その間に土地を基地として囲い込んだのです。そして、米軍は津波さん家族には現在の住居地を指定して、移住させたということです。

 1972年の沖縄の祖国復帰に伴い、公用地法が成立されて、基地の使用が継続されましたが、津波さんは1976年に提訴された公用地法違憲訴訟に原告として参加しました。1977年の地籍明確化法に基づく地籍の確定の際には、津波さんは自分の土地に立ち入りしましたが、そのとき特に目印はなく、このあたりが自分の土地だろうと思うところは更地になって雑草が生えていたということです。

 津波さんの土地は、海岸から近いところですが、そこから陸地のほうに3戸の建物 がありました。これは犬小屋でした。このことは、防衛施設局が収用委員会に提出した図面にも、津波さんの土地の陸地の側に3戸の建物があるというのが分かりますか ら、それでその状況が分かります。その立ち入りのときに、津波さんは「じゃあ自分の土地は犬の運動などに使われているのではないか」と、そういうふうに思いました。また、施設局が収用委員会に提出した図面を見ると、津波さんの土地の周辺、そこには犬小屋のほかには野球のグラウンド、または米軍の住宅があるだけです。そして、津波さんの土地自身は、それらの側の単なる更地ですから、津波さんの土地を返還しても基地の機能には何の支障もないことは明らかです。したがいまして、収用の理由がありませんから、収用申請は却下されるべきであると考えます。

 また、津波さんの土地は地籍不明地です。今回、施設局が収用委員会に提出した図面では、津波さんの土地は海岸すぐ側になっています。しかし、津波さんの記憶では、少なくとも海から100m〜150mは離れていたという記憶です。したがって、津波さんは実際の自分の土地と、今回施設局が提出した図面に記載されている土地、その場所が違っているのではないかと言っています。そのため、津波さんは収用委員会が立ち入り調査をするときに、ぜひ、施設局が図面に記載した土地が自分の土地なのかどうか確かめたいと言っていました。しかし、これは米軍の拒否にあいまして、実現することはできませんでした。

 このように、地主の記憶と、そして施設局の主張する図面上の土地の場所が異なるわけですから、当然、地主に立ち入りを認めて確認をしなければなりません。それが実現されなかったということは、土地の特定ができていないということですから、この点でも収用申請は違法であり、却下されるべきであると考えます。

 津波さんは、自分の土地は自分で管理する権利があるはずだと言っています。だからこそ自分の意思に従って、土地を基地に貸さないと、これは絶対に拒否するということを言っています。そういう気持ちで、公用地法違憲訴訟の原告としても闘ってきました。

 ベトナム戦争のときも、牧港補給基地から物資が前線に輸送されるのを津波さんは目の当たりに見てきました。だからこそ、沖縄に基地を置いたら、また沖縄に武器を置いたら、真っ先に沖縄が犠牲になると考えています。よその国を攻撃して、大量殺人を犯して、そして、その結果として日本も攻撃の危険にさらされると、その原因となる米軍基地のために土地を貸すことは絶対にできません。収用委員会がこの収用申請を却下するように要請をしまして、私の意見陳述を終わらせていただきます。

当山会長:

 はい、ご苦労様でした。 それでは、最後になりますけど、吉田健一さん。


  出典:第10回公開審理の議事録から(テキスト化は仲田


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