沖縄県収用委員会 第10回審理記録

金城馨(土地所有者・土地所有者代理人)


 土地所有者・土地所有者代理人(金城馨):

 こんにちは。まず、私自身は嘉手納飛行場の土地を所有しています一坪反戦地主です。今回は、普天間飛行場の一坪反戦地主の城間勝の委任を受けて、意見陳述をしたいと思います。私は、関西に住んでいます。関西にいる沖縄人としての立場で、少し話をしたいと思います。

 基地被害というものが、具体的に沖縄の中でいろいろ起こっています。しかし基地被害というものが、その沖縄の現地だけではなく、本土においてもいろんな問題を起こしているというふうに私は考えています。それは、基地があるために、沖縄での仕事ができずに、集団就職なり、単身でヤマトに来た青年たちが、ヤマトの中でいろんな偏見と差別を受けて苦しみ、そして犯罪に走り、そして自殺に追い込まれたという、そういう事実があります。復帰、間もないころ、それが大変頻繁にあったわけです。これはヤマトが沖縄というものをどういうふうに見ていたんだろうかという、一つは考えさせられます。

 もう一つは、沖縄がヤマトをどのように見ていたのかなということも、私たち自身は考えなければならんことだろうと思っています。

 ヤマトの中で、沖縄の青年たちが翻弄され、苦しみ、もがいて死んでいったこと。これは沖縄の中で、仕事がないということで、あの当時の県は、本土のほうへどんどん出していきます。職場がどんなに劣悪であろうと、全く条件が、具体的には全く違う条件であろうと、目をつぶっていくような状況が多く見受けられ、私たちは、その時に、関西の地で青年会をつくって、1975年です、自分たちの生活や権利を守らなければだめだということで、会を結成してます。それが関西沖縄青年の集い「がじゅまる会」という会です。現在も続いております。残念ながら私は、その青年でなくなっていますので、青年会には所属してなく、またサポートというか、先輩としての自分たちがやるべきことをやらなければあかんなというふうに思っています。

 そういう意味で、基地の問題、沖縄だけではないということ、それに波及していろんな問題が起こっている。先ほど言いましたヤマトにおける沖縄人が、そのような状況に置かれたのはなぜなのかということですが、ヤマトには沖縄出身者がたくさんいます。特に一つの事例を言いますと、大阪市大正区ですが、8万という人口を抱えて います大正区の4分の1、4人に一人が沖縄人です。2万人。大正区の中に多くいる沖縄人たちが、先輩たちがどういう生き方をしてきたかと言いますと、沖縄から出てきた、戦前から出てきた人たちは、特に「朝鮮人・琉球人お断り」という札紙で就職もできなかったし、またアパートにすら入れなかったと。

 沖縄を離れ、ソテツ地獄と言われたあの沖縄の疲弊した中で、離れたくない沖縄を離れざるを得なかった人たちが、ヤマトに出てきて、迎えたのは朝鮮人、琉球人お断りという札紙です。その中で名前を変えて、沖縄人ではないふりをし、そしてヤマト風に変えながら生き延びてきた先輩たちが多くいます。

 しかし、心の中では、沖縄人としての思いは、ずっと続けてもってきています。それはやはり今回の少女暴行事件の後、沖縄が燃え上がったあの思いを、やはりヤマトの中でも先輩たちは立ち上がりました。

 先輩たちは、なかなか沖縄であることを表現しません。これは先ほど言いましたそういう差別を受けた歴史が、生きるすべとして、できたら静かに沖縄でないことを望むと、ばれないようにしたいという思いがあります。

 しかし、あの少女暴行事件の後、やはり自分たちのふるさと沖縄を、ぜひとも基地のない島にしたいという思いで立ち上がって、平和な島を関西沖縄の会という会が結成され、そこに多くの沖縄出身の仲間が先輩も含めて参加しています。

 私たちは、沖縄を離れているわけですけれども、私自身、生まれはコザです。コザで生まれて、カーペンターとして、親が嘉手納の基地で働いたときに、生まれてます。開放地と言われていたセンターで生まれたわけですけれども、残念ながらまたヤマトヘ親は出ていくということで、私自身の生活は、ヤマトでの生活になっています。そして私自身が、ヤマトと沖縄との隔たりですね、自分が復帰前、特にそういう意味では、沖縄との隔たりみたいなものがあり、自分自身が沖縄とつながりたいという、どのようにしたら、自分は沖縄とつながれるのかという、そういうときに、一坪反戦地主という形で、呼びかけがあり、私は関西にいて、実際に沖縄に住んでいないのに、そういう土地を持つべきかどうかと、仲間でいろいろ論争しましたが、やはり心のつながり、思いをつなげたいという思いで、関西の地で一坪反戦地主として加わりました。

 そして今思うわけですけれども、心のつながりでなくて、実感として、私は沖縄とつながりたいと思っております。それはやはり基地がなくなり、基地をなくし、その基地の跡をともに土地を耕し、共に沖縄を離れた沖縄人と思いを語り合い、そして沖縄が平和な島になる作業に、私自身も参加したいと思っております。

 多くの先輩たちは、沖縄に帰りたいというふうな思いを持っています。残念ながら、沖縄には帰るべき土地がありません。

 復帰後、基地の合理化のために、またヤマトにたくさんの人が出てきていました。逆に沖縄に帰るどころか、沖縄に戻れない状況がずっと続いています。私はそのおじい、おばあ、せめて沖縄で最後は死にたいと、沖縄に帰りたいという思いを持ちながら、沖縄に帰れなかった先輩たち、その先輩たちが何万人と本土にいます。沖縄を離れた沖縄人たちの思いを共に基地をなくしながら、そして帰れる場所、おじい、おばあが帰れる場所を、土地を返してほしいと思っております。ぜひとも基地をなくし、自分たちの手で沖縄を築いていくような、そういう作業にヤマトにいる沖縄人の立場からも参加したいと思っております。基地をぜひおじい、おばあの思いを、今言ったヤマトにいる沖縄人の思いもぜひ理解していただいて、基地をなくしていくような形で共に私も頑張っていきたいなと思ってます。終わります。

 当山会長:

 はい、ご苦労様です。次に、山田親幸さん。


  出典:第10回公開審理の議事録から(テキスト化は仲田


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