沖縄県収用委員会 第10回審理記録

山田親幸(土地所有者)


 土地所有者(山田親幸):

 普天間飛行場基地の一坪の山田親幸と申します。

 私は目が見えません、視覚障害です。どなたかが、「戦争をやるのも人間、やめさせるのも人間」と言ったようですが、私は障害を持った人間として、後者、戦争をやめさせる側に、ずっとずっとそういう立場で生き抜いていきたいと思っています。

 私が生まれましたのは、1934年です。どこに生まれたか、名護市、当時は、名護町に生まれました。今盛んに問題になっているところです。ちょっとそれますけれども、今私は別の運動を一つしております。それは盲学校の中学部3年生で勉強しているお 嬢さんが、来年普通高校に行って40名、50名の生徒と一緒に勉強したいと、そういう切実な願いをもっていますが、その支援を一応やっている者であります。

 そのお嬢さんは、どこの生まれか、名護市です。しかも辺野古です。この二つのめぐり合せ、きょうは、どうしてもそういう思いもありまして、もともとは内気なんですけれどもこちらに立っております。

 まず、戦争あるいは戦争の前の戦時体制下、あるいは戦争後、そして米軍基地、そういったところと障害者がどう関わり、あるいは障害者がどう痛めつけられていくか、そういったことについて申し上げていきたいと思います。

 まず戦時体制下。15年戦争のころの、私は、1941年から国民学校1年生でしたが、 そのへんからはよく覚えていますが、そういう戦時体制下で、障害者はどんな生き方をしたか、させられたかということですね。こんな世の中はもうまっぴらだと、障害者いじめをするし、軍人になれない人は人間と見ないと。まっぴらだ。だから戦争はいやなんだというふうな立ち上りを障害者がしたかというと、そうではないんです。逆なんです。国家の米食い虫だとか、ごくつぶしと言われても、なお障害者は、大変みじめですけれども、戦争協力者に変身していっているんです。やはり、軍隊に行けない人が生きるためには、やむを得ない、そういう生きるための道をそこに見出すということなんです。そういう戦時体制下というのは、二度と私たち障害者、私たちはそんな体制下を迎えてはならないと思っています。

 次に、沖縄戦がございました。この戦争というものは、やはりこれはどなたもお気付きでしょうけれども、障害者をたくさんつくり出します。命ももちろん奪いますが、たくさんつくり出します。それから、障害者が弱い者として真っ先に犠牲になります。このような戦争を、私たちはこの地球上に絶対にあってはならないと思っております。

 それから、私は戦争後遺症と言っているわけですが、戦後、地雷の問題があります。地雷は戦争が終わってもずっと埋まっているものですから、それに触れて足がなくなったり、いろんな障害を負っていますが、ああいうのを私は戦争後遺症と言っているんです。あるいは、ベトナム戦争では枯れ葉作戦に使われた薬のために、多くの障害児が生まれております。沖縄戦の後は不発弾がいっぱいありました。その不発弾で大勢の人々が死にましたけれども、やはり傷ついて、今なお苦しんでいる方々も少なくありません。

 それから、やはり整わない時代ですから、いろんな政策、政治が行われていくわけですが、障害者に関するいろんな福祉政策とか、あるいは障害者の教育だとか、そういうものも後回しになります。戦前から沖縄盲学校、沖縄ろう学校がごさいましたけれども、戦後、スタートしたのが、福祉行政が採り上げたのが5l年、その後に教育行政に移管したのが53年です。8年後にしか学校教育も行われなかったんです。やはり、そのような世の中を私、障害者として二度と見たくありません。

 それから、基地との関わりについては、先ほど、最初に述べられた島田さんからもありましたけれども、騒音がどれほど健康をむしばんでいくかということも挙がっていましたけれども、今、私は、1963年トンキン湾、そして沖縄の米軍が強化されました。そして64年、65年、風しん障害児がいちどきに400名も生まれました。これはち ょっと半年くらい前に、アメリカでやはり風しん障害児が2万人も生まれております。これとの関係を考えないわけにはいきません。これは学問的にもビールス株が一緒だという報告もあります。そういう基地というものがあるがゆえに、先ほどのガス漏れ事故だとか、あるいは騒音だとかのほかに、多数の苦しむ障害者が生まれているということです。

 最後に申し上げます。

 私は、そういう立場から、障害をもっている人間、その立場から、やはりこの普天間基地に土地を貸すわけにはいかんと、あるいはもちろん、名護のヘリポート移設も許せないと思っております。

 十数年前、国際障害者年というのが10年間スタートしていますが、その中の国連決議は何と言っているかと言いますと、「戦争は多数の障害者をつくり出すものであることに思いをいたすなら、国際障害者年は平和を希求する最適な機会にもしていかなければならない」こう言っています。

 私は、その国連決議を実践する、そういう立場を貫いていきたいと思っております。でないと、私は障害者として本当に一生悔いを残す、こう思っております。普天聞基地に絶対貸すわけにはいきません。

 以上です。

 当山会長:

 はい、ご苦労様でした。では次に、松島暁さん。


  出典:第10回公開審理の議事録から(テキスト化は仲田


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