54 まだ熱中症で死んではおりません。近況ご報告。 (2010年07月25日  掲載)   

 数日前の夕刊トップに「熱中症死者 30年で6倍 65歳以上が7割」という大見出しの記事が出ていました。その夕方から翌日にかけ、何人の知人から「まだ死んではいないか?」という電話があったり、この私のサイトでは動きが止まったままだが、「生きてるだろうか?」というメールが入ってきました。いろいろご心配をいただいて申し訳ありません。この暑さはひどいものですので、動く元気がなく、テーブルに座ったままボーッとしている時間が多く、ついついサイトへの手入れもやっていませんでした。でも、夏は夏らしく、暑いのはむしろスカッとしていいんじゃないでしょうかね。昨夜は、埼玉辺りで雷雨があったようで、私の住んでいるあたりは雨は降りませんでしたが、実に冷たい強風が吹き続き、5階の私の室では、窓をあけたままだと風がすべての部屋を突き抜け、まさに清涼、爽快という気分でした。もちろんクーラー不要です。といっても、それは昨夜だけで、風をピタッと止まっている今などは、暑さはかないません。医者からは、水だけはよく飲めよ、と言われ、西瓜をかぶりついたり、医者が勧めるOS-1とかいうドリンクを飲んでいます。

 暑いと脚がひどくだるく、足首あたりはかなりむくんでしまって、朝になっても、指で押すと足首あたりが凹んだままになっています。とにかく、動きたくなく、ボーッとしていることになってしまうのですが、それでも、最低限のことはせねばならず、この ひと月ほども、なにやかやとやってきました。大分報告は溜まってしまっていますので、以下、簡単に並べてみます。

5月28日〜6月4日 慶應義塾大学の高草木光一教授の授業の中で、全部で4コマの話をしましたが、それは前号のNo.53で報告しましたので、今号ではなし。

5月31日(月)夕刻から、川崎市南生田の春秋苑で、5月26日に亡くなられた針生一郎さんのお通夜に参加してきました。さすがに何百人も多くの方々が参加されていました。翌日は都合が悪く、葬儀には参加できませんでした。後で知ったことですが、針生さんのご長女、根本千絵さんが「かんからかんのあん」というブログを開かれています。その5月28日記載の「不治の病」という文が載せられており、針生さんの病状や逝去されたご報告が書かれていますが、これは、とても興味深い文章で、感動的です。ぜひご覧くださったらと思っています。以下をどうぞ。
http://kankarakan.jugem.jp/?month=201005 です。

6月4日(金)には、夕刻から、4月9日に逝去された「ばばこういちを送る会」に参加しました。あの、1965年8月15日にあったベ平連主催の徹夜ティーチインがあった東京・赤坂プリンスホテルの別館の建物で、この会が主催されました。ばばさんは、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の編成課長で、このティーチインの徹夜放映の担当者だった のでした。この放映の中断事件などについては、「ベ平連」のサイトに詳細に経過が載っています。関心のある方は、以下をご覧ください。http://www.jca.apc.org/beheiren/565BabaKouichisanSeikyo.htm この「ばばこういちを送る会」には、 永六輔さん、中山千夏さん、矢崎泰久さん、田原総一朗さんなど、ばばさんの親しいかたが350人も参加されていたようです。

6月7日(月) 午後に、「富士見一八回」(東京市麹町区立富士見小学校の昭和18年に卒業したクラス会)が、東京・水道橋の東京ドームホテル3Fの「リラッサ」で開かれ、中華・洋食・混合のバイキングを食べながら、クラスメートら13人(1人は娘さんが同席)が参加しました。毎年1回開催されるのですが、この1年で2人の友人が逝去していました。

6月15日(火) 夕刻からは「声なき声の会」の集会に参加しました。この会では、大木晴子さんが、樺さんを想う歌「前進」(作詞:高橋敬子 作曲:中川五郎)を歌いました。( 上の写真の左側は吉川撮影、中央の写真は大木晴子さん撮影) そのあとは国会の南通用門まで、毎年と同じように、樺美智子さんへの献花をしてきました( 上の右の写真は大木晴子さん撮影)

6月16日(水)には、夕刻から、市民の意見30の会・東京の主催で「60年安保闘争」50年・ベトナム解放35年という記念で「池澤夏樹・吉川勇一講演会」が、東京・千駄ヶ谷公会堂で開催され、私も40分ほど講演しました。 会場は満席で、ありがたいことに集会は好評だったように思います。二人の講演の要約は、市民の意見30の会・東京の機関誌『市民の意見』8月号に掲載されるはずです。左の写真は3点とも大木晴子さん撮影)  
  

6月18日 この日から感冒でした。5月末からの慶応の講義から6/16の講演会まで、気が張って頑張っていたため、人様からは元気よさそうに思われたようでしたが、6/16の講演会が終わった途端にいっぺんに疲労が出てダウン。今年はずっと気をつけて 、ひかないようだった感冒についにやられ、38度近い熱も出てしまいました。しばらくは何も仕事ができなくなりました。風邪が抜けるまでに半月ほどかかりました。

7月15日(木)は、お盆の墓参にゆきました。私の親族は1ヵ月早いお盆をやります。小平霊園なので、私の家からはあまり遠くなく、車で30分ほどで行けます。お盆も春秋の彼岸も、毎回、母は私の弟妹とともに必ず参加してきたのですが、今回は、腰と足が痛くて行かれないと不参加でした。今97歳で、まだ頭も口も元気なのですが、脚はどうも具合が悪く、墓参の不参加は初めてのことでした。

7月17日(土)の午後には、東京・水道橋のYMCAアジア青少年センターで「没後3年小田実さんを偲ぶ会」が開催されました。福富節男さん、中嶌哲演さん、高草木光一さん、ロマン・ローゼンバウムさん、北村毅さん、玄順恵さん、そして澤地久枝さんらが講演されました(写真 左は福富さん、吉川撮影、右は会場で福富さんと。撮影は大木晴子さん)。私も参加しましたが、途中であまり健康状態が良くなく、ローゼンバウムさんのお話のところで中座させてもらいました。福富さん、中嶌さん、高草木さんまでのお話は、いずれもいいお話でしたが、発言者の数が多すぎて、それぞれが時間不足の感じでした。この集会の講演録は、実行委員会から発行されるはずです。
 夜は、私のいる団地の自治会が主催する「夏祭り」が私のいる建物のすぐ前の公園でありました。「保谷和太鼓」の演奏があり、かなり見事でした。自治会は、味噌おでんや焼きそば、フランクフルトソーセージや、子ども用の安いおもちゃ売りなどの屋台店も並べ、こんなに子どもがいたんだ、と思うほど、百人以上の子どもたちがあふれていました。自治会はよくやってるな、という思いでした。(写真の右は、5階の私の部屋のベランダから見た「夏祭り」の様子です。)
    
7月21日(水) 私が参加している市民の意見30の会・東京では、この数ヶ月前から、2週間に1回の水曜日の夕刻から、「夕食懇談会」(?)という集まりをやっています。主として事務局で活動している人びとが中心で、10人ぐらいの参加者ですが、会の事務局会議の運動の議論や決定とは違い、それぞれ自分で持ってきた夕食の弁当を食べながら、その時その時の話題を出して意見の交換がされています。この日は、17日の「
没後3年小田実さんを偲ぶ会」での福富さんのお話のことと、私が出したベ平連と「声なき声の会」との間にある2件の意見対立の話の紹介がありました。この件は、6月16日の講演会で、私が話した時にも話題にしたことでした。一つは、1969年夏の大阪城公園での「反戦万博」(ハンパク)の中での議論問題と、同年11月の佐藤首相訪米反対の市民共同集会・デモの際に、佐藤首相の禁止によってデモが不可能にされた問題についてです。前者については、小田実さんの『「ベ平連」・回顧録でない回顧』(1995年、第三書館刊)に詳細な報告と意見がありますが、後者の事件については『ベ平連ニュース』1969年12月1日号に、このデモ禁止問題は載っていますが、「声なき声の会」の人びとからのベ平連批判についてはあまり知られていないようです。私はこの話をしました。「声なき声の会」からのベ平連批判については、『声なき声』50号(1970年6月10日号)の高畠通敏さんの「十年」という文がその一つと言えます。読めない方もいられるかと思い、ベ平連のサイトの「(3)参考文献・資料集」の中の「ベ平連についての批判的文献」に採録しましたので、関心のある方は、以下をご連ください。
http://www.jca.apc.org/beheiren/hihan.html