565. 放送ジャーナリストのばばこういちさん死去。1965年のベ平連徹夜ティーチイン放映のディレクター。(2010/04/13掲載)

 

 ばば こういちさんが、4月9日,腎不全で死去されました。77歳でした。葬儀は近親者のみで行なわれるそうですが、らためて、六輔さんや中山千夏さん,矢崎泰久さんらが準備をして、月下旬にお別れの会が開かれる予定です。決定されば、本サイトでお知らせいたします。哀悼の意を表します。

 ばばさんは、1933年大阪生まれ、山形育ち。東北大学経済学部卒業。大和証券事業法人部、文化放送アナウンス部、フジテレビ編成部を経て、東京12チャンネル(現・テレビ東京)編成課長。その後、フリーの放送ジャーナリストとなり、インタビューアー、レポーターなどのレギュラー出演を中心に、番組の企画・構成・プロデュースに数多く参画。市民論、メディア論などを中心に講演・執筆活動も盛んに行なってこられましたし、憲法9条の重要性を繰り返し主張されてきました。たとえば、2004年の憲法記念日の日に、ばばさんは以下のような文を述べられていました。

 −2004.5.3-57回目の憲法記念日 ー

 憲法を長くないがしろにしてきた国が57回目の憲法記念日を迎えた。
 それにしてもイジメられながら日本国憲法もよく頑張ってきたものだ。それは多分この憲法に、本来崇高な理念と志が疑いもなく存在していたからに他なるまい。
 法的には明治欽定憲法を改正したものであり、実質的にはアメリカ占領軍の押し付けによるものだったとしても、戦後民主主義の歴史の中で少なくとも海外諸国には日本国の『顔』であり続け、大多数の国民もさしたる異議を唱えず今日まで認知して来た「憲法」であったことは否定できない事実である。
 民主主義法治国家の「憲法」が、統治者の暴走を抑えるための法的手段であることは、近代国家における常識である。 
 にもかかわらずこの国の統治者たちは、己の統治のために限りなく条文の解釈を拡大してきた。第九条に対する自衛隊のなし崩し的な戦力増強はその最たるものだ。
 歴代政府は手を変え品を変え憲法を弄び、そのあげく「条文と合わない現実」を作り上げ、声高にその矛盾を叫びたて、今や憲法そのものを変えてしまおうという仕上げ段階に入ろうとしている。
 もともと国の基本法を平気で破るこの国の統治者たちが、「現実」に合わせてその条文を変えても、新しい現実が生まれてくればそれをまた変えないという保証はない。
 法治国家を標榜しながら,統治者が国の基本法を守ろうとする気持ちはまるでないのだ。憲法改正論議をするなら、まず如何なることがあっても憲法を守るという統治者たちの決意表明を求めるべきだろう。
 憲法を永遠に変えてはなぬなどというつもりはない。 変えるための論議はいくらされても良い。
 だが現に存在する憲法を統治者が勝手に拡大解釈し無視し、侮蔑することは断じて許されない。 
 それを肝に銘じて憲法論議はされるべきだ。
 振り返って57年、日本国憲法は統治者たちの陰湿な幾多のイジメによくぞ耐えて働いてくれた。
 この憲法が存在していればこそ、この数十年日本は世界の紛争に巻き込まれることがなかった。まさに日本国民にとって、憲法は最大の「安全保障」だった。
 憲法は同時にこの国の経済発展にも並々ならぬ貢献をした。軍拡競争より経済発展に全力投球できたからだ。 さらに曲がりなりにも言論の自由は保証されてきた。
 憲法が現実に合わなくなってきたことを声高に叫ぶ前に、まず憲法がこれまで果たしてきたすぐれた役割を評価するのが先ではないのか。
 理想と現実の間には常にギャップが存在する。
 理想を捨てないからこそ、人間には進歩がある。
 理想に向けていきなり跳躍できないとしても、理想を捨てずに一歩一歩理想を目指して進むことこそ『現実主義』の本来のあり方ではないのか。
 「現実」のために「理想」を捨て去るのは、「反動」でしかない。
 第九条の、戦争をしない、軍事力を持たないというのは、まさに人類の理想である。
 現実に世界がそうなっていないから戦力を持つというのでは、永遠に平和な地球を実現できるわけがない。
 その理想に向かって一歩づつ世界から紛争をなくし、軍縮を実現していくことこそ「現実主義」である。
 日本国憲法は、永遠の世界平和を目指すために自ら戦争放棄と戦力不保持を世界に宣言した。
 先進国であり経済大国であるこの国の宣言だからこそ、貴重な価値があったのだ。しかも世界の多くの国々や民衆は、その「普通の国」らしくない一見ドンキホーテ的な日本国にある種の「驚き」と「尊敬の念」を抱きそれがまさに定着しつつあったのである。
 にもかかわらず、この国の統治者はもちろん国民の多くが、「評価」と「誇」を何のためらいもなく捨てようとしている。
 まさに悲劇であり、喜劇である。

 ばばさんが最近主張されてきた文章は、「KOICHI BABA official website」の「今週の論評」欄に多数紹介されています。ぜひご覧ください。ここをクリックしてください。 http://www.kbaba.co.jp/ です。
 

 これまでの
ばばさんが出演した主なレギュラーTV番組
は、■ テレビ朝日「モーニングショー」副司会者■ 日本テレビ「あなたのワイドショー」レポーター■ テレビ朝日「アフタヌーンショー」 〜なっとくいかないコーナー レポーター■ 毎日放送「ドキュメントトーク」キャスター■ 北海道放送「朝まで生討論」司会者■ 朝日ニュースター「ぶっちぎりトーク」キャスター■ 朝日ニュースター「マルチメディアスペシャル」 キャスター■ 朝日ニュースター「ジャーナリズム最前線」キャスター■ 朝日ニュースター「よみがえれニッポン」キャスター などで、またこれまで企画・プロデュースした主なTV番組としては,■ テレビ東京「私が作った番組」■ テレビ東京「キャスター」■ テレビ東京ドキュメントシリーズ「ザ・21世紀」■ 朝日ニュースター「JCトーク」■ CS東京「JC@TV青年会議」■ 朝日ニュースター「蘇れ大地」他、著書は,『されどテレビ半世紀』(リベルタ出版)、活力高齢人』(黙出版)臥薪嘗胆の日々(インターメディア)日本初の大統領にしたい男(インターメディア出版)、改革断行(ゼスト社)、視聴率その表と裏(岩波書店)テレビはこれでいいのか』(岩波書店)、小説社会党ジャック』(山手書房)、日本をダメにした100人』(山手書房)などがあります。

 1965年8月、ベ平連は赤坂プリンスホテルで「8・15記念徹夜討論集会(ティーチ・イン)」を開催しました。そして、この全討論が『東京12チャンネル』から中継放映されることになっていました。ところが、午前4時8分から、中継は中止されました。その事件のとき、放映を担当していた『東京12チャンネル』のディレクターが、この、ばばこういちさんでした。ばばさんは、当局に強く抗議し、放映の続行を要求したのですが、それは取り上げられず、結局、この問題で局を退職させられることになりました。この事情のことは、昨年、4月11日と8月10日に、NHKのBSで2回にわたり放映された「日めくりタイムトラベル 1965年」という番組では、ばばさん自身が登場し、赤坂プリンスホテルの前で当時の状況を報告し、この問題で私は局を首になりました、と発言されていました。
 現在、この問題を知る人も少なくなっていますので、当時、ベ平連などから出された「放送中止についての声明」など、関連文書を全文、以下に紹介することにします。

 放送中止についての声明
                           八・一五記念二十四時間討論集会
                                         実行委員会
                           東京12チャンネル編成部長
                                           森 一久
                           河 出 書 房
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八・一五記念 二十四時間討論集会
「戦争と平和を考える」実行委員会

 私たちは東京12チャンネルが私たちの集会を中継するために払った努力に感謝しています。放送が中止されたことはきわめて残念なことですが、しかしそのことは集会そのものの進行とは別種の事柄に属します。放送中止とは関係なく私たちの集会は参加者の熱心な支持により成功裡に終了しました。
 ただ、そのこととは別に、私たちとしては放送打ち切りの理由がどうしても納得できないので、この旨を正式に12チャンネルに申し入れました。
 無用な誤解と臆測を避けるために、その間の事情を、双方で確認された事実によって明らかにするのは主催者の義務であると考えます。
 同時に、放送打ち切りの理由については絶対に了承できないことを明かにすることもまた私たちの責務でしょう。
 実行委に対して「12チャンネルはこの集会を一部で打ち切るかもしれぬ」という風説が伝わったのは当夜、開会直前の(八月十四日)午後十時でした。
 私たちは、噂の真偽を確かめずに、開会、中継を許可することは主催者として万全の措置を欠くと考え、直ちに、12チャンネルに申し入れ会見をもちました。
 12チャンネル側は制作局長、編成部長以下二名、主催者側は実行委員会責任者久保圭之介以下実行委員・桑原武夫、久野収、鶴見俊輔、開高健、小田実でした。
 その結果12チャンネル側は放送打切りの意図の全くないことを明らかにしました。その時の確認内容は以下の通りです。
〈われわれとしては、この放送を一部で中止するということを決定したことは絶対にありません。この放送については、かねてのお約束の通り、早朝まで放送いたします。ただし、不測の事態(たとえば、天災、会場の大混乱、参加者が皆無となった等々)が生じた場合、あるいは、放送法の規定により、著しく公正を欠くと判断される場合には、放送を中止することがあります。不測の事態が生じた場合、著しく公正を欠くと判断される場合には、事前に主催者側に通告し、協議します。放送中止の事態が生じた時にも、録画は全部とります。録画その他の取扱いについては、主催者側と協議した上で決定します。〉
 (これは局側の口頭による申し入れを主催者側でメモにとり、そのメモの全文を局側で確認したものです)
 しかるに、八月十五日・午前三時五十分、ヴェトナムに関する討論を終わり、無着成恭氏の司会による戦中戦後の体験を語り合う部分に移行した時、12チャンネルより、「無着成恭氏の発言が公正を欠き、集会を一方的に方向づけるものだから放送を打切る」との通告が主催者側になされました。
 私たちは無着氏の発言は事実に即したもので、毫も公正を欠くとは考えられなかったので、この通告を了承することはできませんでした。
 放送は四時八分打切られました。
 集会終了後、八月十五日・午前八時三十分、主催者側は司会者桑原武夫氏を含めて、私たちの態度を協議しました。
 更に八月十七日、実行委全員による協議を経て、午後五時、全員で12チャンネルに赴き、佐々木制作局長に久保圭之介より抗議文を手渡しました。
 私たちの態度はこの文に尽されています。
   抗議文
 私たちは貴局が私たちの主催した討論集会を放送するために払われた努力を心から多とします。当夜は何分にも初めての試みでもありましたので、私たちと貴局の双方の側に、さまざまな行き違いと不手際が生じた、と考えます。私たちの側の手落ちについては、主催者として反省しております。
 しかしながら貴局が私たち主催者との当初の申し合せに反して、中途において(午前四時八分)一方的に中継放送を打ち切られたことは、はなはだ遺憾なことでした。私たちはこの放送中止に対して、ここに貴局に抗議します。
 貴局のこの一方的措置は双方の善意をも裏切る結果ともなりました。貴局が私たちに通告された打ち切りの理由を、私たちは絶対に納得することができません。それは決して、技術的な行き違いや不手際に帰することはできない、と私たちは考えます。
一、貴局通告が「著しく公正を欠く」と一方的に判定され、放送中止の根拠とされた問題の司会者発言については、私たち主催者としては、公正を欠くものと認めることはできません。多くの視聴者も、司会者発言を支持する意見を主催者側に多数、寄せてきております。
二、問題の司会者発言の最中に、貴局より「注意」の紙切れが届けられ、司会者はそれ以後、その注意に従い、純実務的に司会を運んだにもかかわらず、会場一般参加者の自由な発言の中途において、貴局が一方的に中継放送を打ち切られたことは著しく公正を欠く措置であったと私たちは考えます。
 以上の件について、貴局に抗議するとともに、当夜、未放送の分もふくめ、録画放送の可及的速やかな実現を希功します。
 一九六五年八月十七日
                                       八・一五記念二十四時間討論集会
                                       「戦争と平和を考える」実行委員会
      東京12チャンネル御中
 私たちは当夜の録画を放送するように要求するとともに、この八・一五集会の経験をもとに、更に広範囲な、更に力強い運動をさまざまな形で幅広く展開するために、努力することをここにお約束したい。

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東京12チャンネル編成部長
   森  一 久

 我々がこのテレビ中継を思いたった企画の意図は、次の三点にしぼられる。まず、その形式がアメリカで発明されたというティーチ・イン″という方式の討論会であり、従来ともすれば我が国で見失われがちであった話し合い″の精神を育もうとする点で、有意義な試みと受取ったことである。第二は、なんといってもいまでは国民の大きな関心事であるヴェトナム問題を中心に、終戦二十年記念日の前夜に開かれるものだったことである。そして最後に、これは第一の理由と重なるが、徹夜という試みが風変りである上に、これが成否は、熱しやすくさめやすいといわれる我が国民性が、戦後二十年でどう変ったかを示すいわば一つの試みとしても、有意義かつ興味深いと考えたからである。
 しかし何分にも、はじめての点が多く、本テレビ局側でも随分と慎重な態度でのぞんだ。この討論会の内容が漸次固まる段階に応じて、厳密にいえば、単なる中継をするテレビ局″の立場にしてはむしろ差出がましいと思われるような希望をいくつか申し出た。それは人選に関するものから、テーマについてまであったが、その大部分は、放送の実現を希望されていた主催者側の快く受入れるところとなった。
 それでも我々としては、リハーサルなしのいわゆるなま放送であるだけに、万一のときのことも考えておかないわけにはいかなかった。問題によっては国会でさえ乱闘がおきかねない現状の中で、公共の電波をあずかるテレビ局が臨機の措置をとりうるよう、予め主催者側の了解を念のためえておきたいと判断し、全部中継できないことがあるかも知れないと非公式に主催者に連絡したのは、数日前のことであった。今にして思えば、この細心な連絡が、かえって主催者の方々の一部に、思わぬ疑惑を植えつけてしまったようである。

 当夜十時、とつぜん主催者側から、打って変った強硬な申入れがあった。曰く12チャンネルは最初から一部で放送を中止することを決定したという確実な情報を得た。もしそうなら放送を全面的にお断りしたい”と。我々は、以前から考えていたとおり、不測の事態や放送として著しく公正を欠く状況にならない限り″早朝まで放送するという意志を正式に答えた。主催者側ではこれを開いて、アイ・アグリー″という一人の方の発言を受けて、などやかな雰囲気で、我々は放送準備に、彼らは会場へといそいでわかれていったのである。
 討論会の第一部は討論講師を壇上に、ライトの交錯する絢爛たる会場でものしずかに開かれた。その中憩のあと、議事予定にない順序で司会者が突然来日米人オグルズピー氏に発言を求め、出席者の抗議を受ける場面があり、混乱や退席がおきなければ……と心配させたが、司会者が詫びて平静に戻り、第一部のヴェトナム問題"はどうやら無事終了した。少なくともその時点では、我々がいだいていた不安は、主催者側の運びがなぜかぎこちなく感じられたことだけである。

 第二部のはじめ、司会者席に第一部の討論者だった人が加わるよう準備されているのを知って、当方から注意を申し出た。これは主催者の快く受入れるところとなって、三時半頃第二部「戦中戦後の経験」がはじまった。
 すでに周知のように、我々が放送を中止せざるを得ないと判断したのは、この第二部の司会者の次のような発言内容である。
 第二部の司会者は、(第一部の討論は)政治家の方から一方的に押しまくられたような感じなので……腹がたった……。″と前置きされたのち、……どういうところにポイントを合わせるかといいますと、たとえば戦争が負けた時には天皇の力でおさまったが、いま天皇の命令でまた戦争をやるといえば、あれと同じようにやるかどうかとか、……占領政策では戦犯という形で取上げられながら牢屋から出てきた人はどんどん総理大臣になったりしているのはどういうわけか……というふうなことをワサビのようにきかせてほしいわけです≠ニ司会の言葉をしめくくった。
 この言葉の中には昭和二十二年五月三日以降には通用しないはずの、問題の措定さえ含まれているが、それはさておき、ここで述べるべきことは、放送中止との関連であろう。我々は放送内容”として著しく公正を欠くと判断したのであって、司会者個人の意見として公正でないかどうかとは自ら別の問題である。我々は瞬時に各家庭の茶の間に這入りこむ電波を放送するという重大な責任を負っている。徹夜討論会″と銘打った中継の内容が、視聴者を一方的に誘導するものであったり、討論会″でない内容となったりするのでは、我々は責任を果したとはいえないのである。
 主催者側の了解を得てのち放送を中止すべく約二十分にわたって協議を重ねたが、両者の立場の相違を短時間に理解してもらうことの不可能なことをさとり、当方の編成権の主体性をもって中止することになったのは、我々としても残念なことと思っている。
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河 出 書 房

 八月十四日夜の徹夜集会「戦争と平和を考える」の中継放送に際しましては、多数の方にご視聴いただきありがとうございました。また感想のお電話やお手紙を寄せられました多くの方々にも厚く御礼申し上げます。と同時に、この集会をた〈ママ)企画され実現された八・一五記念二十四時間討論集会実行委員の方々、誠意をもって中継にあたられた東京12チャンネルのスタッフの方々に深く感謝の意を表します。
 なお、この中継放送は八月十五日午前六時まで終夜、放送される予定でしたが、午前四時八分、東京12チャンネルの自主的な判断によって中止されました。この放送中止については、小社は一切関知しておりません。番組を提供した小社は、この放送が中止されたことについて遺憾の意を表します。

(以上は、河出書房『文芸』1965年9月増刊号「ヴェトナム問題緊急特集」の234〜237ページの全文引用)

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