理念

もっと、生きることに実感と希望をもてる政治を

脱原発・反貧困 見捨てられる人のない社会に

■気が優しくて力持ち…こんな私を形作ったのは長野の自然

1972年、東京生まれ。小学校にあがる3日前、東京・晴海から、雪降る南箕輪村に移住しました。父の「こどもを自然の中で育てたい」という信念のもと引越してきました。伊那谷の元気をもらって育ち、毎日3キロの道のりを通った南箕輪小学校&中学校時代に鍛えられた体力!は私の人生をがっちり支えてくれています。

中学生の時に、社民党前党首の土井たか子さんの活躍をテレビで見て、「女性がリーダーシップをとる時代になった。土井さんのような骨太の女性になりたい」と憧れていました。

赤穂高校では、生徒会副会長も。仲間と一緒に一つのことに取り組む醍醐味を味わいました。仲間たちと「陸軍登戸研究所」の研究員の方々のヒアリングなど、地域の戦争の歴史の掘り起こしもしました。

■福祉の現場で、政治の現場で、「現場力」がモットー

高校卒業後、社会福祉を学ぼうと1990年日本社会事業大学社会福祉学部児童福祉学科に入学。専攻は司法福祉。教護院(当時。現在は児童自立支援施設)で実習をし、罪を犯してしまった子ども達の生き直しを応援したいと思っていました。

大学卒業後、社会福祉の現場で働く専門職向けの業界紙「福祉新聞」で6年間、記者として働き、児童・障がい者・高齢者虐待防止、貧困問題、援助職の燃え付き防止などの記事を書きました。いつも当事者の方々の声を伺い、当事者主体の福祉制度になってほしいと思い続けてきました。

大学時代から、山谷や新宿で野宿を余儀なくされた人たちのところへボランティアに通い、特に「女性の貧困」には早くから注目し、96年秋より野宿を余儀なくされている女性たちが語り合う場も作ってきました。貧困や暴力のない社会にしたいと強く思い、また、夫婦別姓選択制など、個人の生き方を社会がもっと応援するような日本にしたいと思い、政治の道に飛び込みました。

以来、何度か選挙にも挑戦し、現在は、福島みずほ・社民党党首の事務所で秘書をしています。

■国家から被ばくを強要されることなく、生きやすく、やり直しのできる社会へ

前回の総選挙後、福島みずほ事務所に戻り、秘書として福島党首の参議院選挙を裏方として担いました。「政権交代」は実現したが「政策転換」までは至らず、雇用の劣化と貧困は可視化されたものの、非正規労働者も生活保護受給者も増加の一途をたどりました。

働きたくても仕事がない、生活保護を受給すれば、「貧乏になったのは自己責任なのに社会に甘えている」と非難される。政治は困難を抱えている人を助け、支えるのが役目です。社会福祉専門職の配置などで一人ずつ、社会の中で自分の役割を担えるような後押しをしていきたい、また、女性か男性か、非正規か正規かによって、三倍近くの賃金の差ができてしまう働き方を改善し、同一労働同一賃金の実現、ヒューマンニューディール(いのちとみどりの分野−介護、医療、福祉や、農林漁業、自然エネルギーなど)での仕事の創出などを目指します。

昨年3月11日の東日本大震災による東電福島第一原発事故。放射能は東日本に拡散し、多くの市民や原発で働く労働者が被曝しました。いまだに事故は収束しておらず、健康不安を抱えながら人々が福島県内をはじめ、各地で生活をしています。各地で地震が頻発している今、定期点検中の原発の再稼働をさせず、国策で進めてきたすべての原発を止めるために「脱原発基本法」の制定や15の法律・大綱・計画の改正が必要です。民意を受けた国会の意志として、必ず脱原発に舵を切るために行動します。

人の命が軽んじられ、生きる権利が削り取られている状況を変え、私たち一人ひとりの国民がもっと、生きやすく、やり直しのできる社会を皆さんと一緒に作るために全力を尽くします。

“さらに詳しく”→池田幸代の政策はこちらをご覧ください