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第19回東京国際映画祭でイスラエルのウディ・アローニ監督による、すばらしい映画を見ました。 イスラエル・パレスチナ紛争を正面からとらえ、バイナショナリズムを視覚と音楽とメタファーで表現した作品です。映画そのものもよかったし、上映後の記者会見&質疑応答での監督がみせた、深い思索と強い信念に裏打ちされた謙虚な姿勢が、それに輪をかけて共感をそそりました。ぜひ多くの人が見られるかたちで上映してほしいものです。でも、会場では監督に質問や意見を述べているのはすべて外国の人で、日本人の発言が皆無だったことから予想されたように、コンペでの受賞はなく、映画評もほとんどでていない様子。このまま他では上映されず、消えていくのかもしれません。


フォーギヴネス
Forgiveness
A Film by Udi Aloni ―Reviewed by (=^o^=)/

Forgivemessという英語のhttp://www.forgivenessthefilm.com/presskit/images/poster.zip/poster.jpgタイトルは、この紛争を形容するには軽すぎるのではないかという質問が会場から出ましたが、監督の説明によれば、もとのヘブライ語のタイトルMechilotには二つの意味があり、「許し」であると同時に、「地下トンネル」なのだそうです。異郷で死んでいったディアスポラのユダヤ人たちは、この地下のトンネルを通って聖地にたどりつき、メシアが出現したとき蘇生するのだそうです。ユダヤ人たちは、征服者としてではなく、このような道を通って、もっと慎ましやかに聖地に来ることはできなかったのだろうか、という監督の問いが、映画のタイトルに込められているようです。

 映画の中では、イスラエルの精神病院に収容されている患者の一人が、自分は一度死に、この地下トンネルを通って聖地に行こうとしたが、エルサレムの入り口で足止めされたまま、死と生のあいだにとどまっている「もぐら」だと自称しています。

アウシュヴィッツから解放された人たちを収容したこの病院は、イスラエル軍が1948年の建国時に百人以上の村人を虐殺したデイル・ヤーシンというアラブ人の村の跡地に建てられていて(実際の話です)、患者たちが土を掘り返しては死体とたわむれる冒頭シーンは、のっけから相当なブラックジョークです。

明らかにプリモ・レーヴィをふまえた「ムーゼルマン」(回教徒)という名のこの男は、アウシュヴィッツを経験した後では現実の生活には戻れないと、社会復帰を拒んでいます。

これに対し、映画の主人公デイヴィッドの父親は、同じくアウシュヴィッツを経験しながら、イスラエルの建国に従軍した後、アメリカにわたって音楽家として成功した人物です。アウシュヴィッツの記憶を葬って現実に生きることを選び、人生をみずから支配すると決めた父親。それに反抗して、一種の「自分探し」の旅としてデイヴィッドは父の制止を振り切ってイスラエルにやってきます。ニューヨークなまりのシオニスト、ダヴィデの星を刺青し、まるで入植者の典型のようなこの若者は、イスラエル軍に志願しますが、占領地で任務についているとき、なんらかの事故を起こし、記憶に異常をきたして、ここに収容されました。

デイヴィッドの記憶の錯乱は、他者に対して自分が犯した罪の記憶に対処することができないためです。その遠因として、父親が背負ったホロコーストのトラウマをそのまま引き継がされ、その重みにつぶれそうになっているらしいことがほのめかされます。息子を連れ戻しにアメリカからきた父親には、「父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」という無意識の叫びは聞こえない。彼は、混乱した記憶は薬で抑えればよいと退院を急がせます。

そこにムーゼルマンが立ちはだかり、退院はまだ早いと引き止めます。現実の世界とアウシュヴィッツの世界の境界で生きるもぐら男は、この境界線で耳をすましてでないと聞けない声がある、精神病院にとどまり、犠牲者の声を聞き続けよと主張します。まるで二人の父親のようにデイヴィッドを取り合う二人のホロコースト体験者は、デイヴィッドが抱えるトラウマにどのように向き合うかに対する、二つの回答を象徴しています。

二人の父親がいざなう別々の道にそって、この映画には二つのエンディングがあります。忘却によって世界に復帰すれば、真の和解は訪れず、トラウマにつきまとわれたまま相手も自分も滅ぼす。境界線にとどまり耳を済ませれば、他者である犠牲者への心の底からの同調によって、自らを破壊することを通して和解と再生にいたるかもしれない。デイル・ヤーシンの犠牲者を、もう一つのホロコーストの犠牲者として受け入れることができてのみ、この地に未来が描けるのではないかと監督は言っているようです。

このことはまた、オイディプス・コンプレクスの克服というメタファーでも、説明されています。オイディプスは、父親の呪縛から開放されるのに40年かかった。みずからの運命を支配するという傲慢な意識を捨てて、娘に手を引かれてさすらう盲いた老人になって、ようやく彼は自由を手に入れたのだと。

Forgive(許す)という語の構成要素はgive(与える)であるのに対し、forget(忘れる)の要素はget(手に入れる)である。忘れることは、なにかを獲得しようとすることであり、許すことは、与えることが前提だ。「完全」(for)に「与える」(give)という行為は、他者に対してみずからを開かなければなりたたない、というようなことを監督が言っていたのが耳に残っています。

きわめて明白な民族共生のメッセージの映画ですが、ちょうどイスラエルの映画祭で上映されようとしたときにイスラエルのレバノン侵攻が始まり、イスラエルは好戦モード一色に染まり、アラブ諸国など外国で起こったイスラエル・ボイコットのとばっちりを受けたりと、さんざんだったようです。でも監督によれば、この地での初めての上映はレバノン爆撃のさなかにラマラで行なわれたそうで、尊敬するマフムード・ダルウィーシュから抱擁されて大感激だった、とのことです。

イスラエルでの評価は賛否両論だそうですが、戦時中にもかかわらず、このような映画を支持する声もあったというのは、光の見えることかもしれません。そうした事実を、現状を肯定する宣伝に利用させてはなりませんが、この地で殺し合いをさせられる(外から与えられた金と武器で)のはもうたくさんだという気持ちは、イスラエル人のあいだにもきっとあるはず。この地獄から抜け出し、「イスラエル人とパレスチナ人が、この土地を分け合って一緒に暮らしていくような未来が描けるように、どうか皆さんも、わたしたちを助けてください」というアローニのしめくくりの言葉が感動的でした。

このあたりのニュアンスが、ちゃんと日本語で伝わっているとよいのですが、「イスラエルとパレスチナの人たちがれぞれの領土の中で平和に暮らせるように共存をめざす」というふうに、余計な言葉を補って通訳されていたのはがっかりです。監督は別の場で、「イスラエル人とパレスチナ人がそれぞれ独立した国を本当に持てるならばそれに異存はないが、それができないなら一つの国の中で平等に暮らすべきだと私は思う」と明言しているのに。

とはいえ、この映画を日本で観る機会をつくってくださった東京国際映画祭には大感謝です。DAMの音楽や、イスラエル国防軍のス―フィーダンス?だけでも一見の価値ありで、ひさびさの収穫でした。


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(=^o^=)/ 連絡先: /Posted on: 10/Nov/06