Olive Project 2004

まぼろしのDonkey Ride 〜オリーヴ・キャンペーンとYMCA

救出されたローマ時代のオリーヴ

ベツレヘムの東隣にあるベイトサフールのYMCAで、敷地内に数本の奇妙なオリーヴが植わっているのを見かけました。枝を切り落とされた太い幹だけが、奇怪な格好にねじくれて、掘り返された地面に突き刺さっています。

Uprooted olive trees waiting for replanting
-YMCA Palestine

これらの樹は近隣の町ベイトジャラにあったもので、イスラエル軍によって引き抜かれたという連絡がYMCAに入り、ただちにトラックを出して30本ほど救出したのだそうです。
「たいせつなRomanien treeだからね」  (・・・ルーマニアの樹ってなに?)
「千年も生きてきた、とても古いものだ」  (あ、「ローマ時代の樹」ね)。
どこか適当な引き受け先が見つかるまで、一時的にここで預かっているものらしい。

Crying....

この地方のオリーヴは年齢を経たもの多いのですが、なかでも特に古いものは「ローマ時代のオリーヴ」と呼ばれて大切にされています。樹齢500〜1000年ということですから(オリーヴの寿命が1000年ぐらいだそうです)、ローマ帝国がここを支配した時代までは遡れないようですが、それでもこれらの木々はこの土地にさまざまな支配者が交替するのを見てきたはずです。

Give me back my head....


樹木もこのくらい年輪を重ねると、それなりの存在感を発散します。たかだか数十年前にやってきた新参者によって無残に引き抜かれ、さぞや無念なことでしょう。新たな落ち着き先が見つからぬままに、悲鳴が聞こえるような姿をさらしている異様なさまは、まさにパレスチナ人の姿そのもの。

オリーヴ植樹キャンペーン

パレスチナの人々にとって、オリーヴは残された唯一の経済的な柱であることに加えて、この土地に深く根を下ろした風土の一部として象徴的な意味を持っています。占領地に「壁」を建設するためパレスチナ人のオリーヴ園を破壊するようになる以前から、イスラエルは日常的にパレスチナ人が先祖代々世話してきた樹を引き抜いたり、収穫を邪魔したりしてきました。立ち退きをうながすための嫌がらせなのですが、引き抜いたオリーヴを持ち帰って、ちゃっかり自分のところに移植することもあるらしい。そもそもイスラエルにあるのはたいがいがアラブ人から奪って新しい名前をつけただけのものなので、いまさら驚くほどのこともないのですが。

2000年9月の第二次インティファーダ勃発によってイスラエルは占領地における破壊行為を加速させており、YMCAの調査では2004年5月までに367,346本のオリーヴが引き抜かれています。

このような状況から、YMCA/YWCAでは2年ほど前にオリーヴの植樹運動(Keep Hope Alive)を開始し、大切なオリーヴを引き抜かれてしまった農民たちに希望を与えようと呼びかけています。これに賛同して、日本からも支援を送ろうと皆さんに募金を呼びかけたことが、今回の旅行のそもそものきっかけとなりました。わたしたちが寄付したオリーヴがどんなところに植わっているのか、ぜひ写真に収めてきたいものだと思っていたのです。
オリーヴの樹キャンペーン では最終的に169本、453,800円もの寄付を集めることができました。ご協力いただいたみなさま、どうもありがとうございました。)

ベイトサフールのYMCAを訪問したときそのことを告げると、スタッフがコンピューターでわたしたちの名前を検索してくれました、「君たちの樹があるのはAl Khader fieldだ」と告げられました。壁の地図で示された場所は、ベツレヘムの西方、イスラエルとの境界に近いところでした。それほど遠いところとも思えないのですが、ちゃんとした道路がないらしく、ロバに乗って行くしかないとのこと。えええ、この時代にロバさんですかあ? うーむ、イスラエルはあれこれ禁止項目を設けて占領地の経済発展を阻害しているとは聞いていますが、いまどきロバが活躍する生活なんて、怒っていいのか、笑っていいのか。

ベツレヘム北東のハルホマ入植地。

30000戸のユダヤ人専用住宅の建設が予定されています。土地を奪われて抵抗するパレスチナ人に武力で応酬する要塞のようなところ。

西隣のギロ入植地とここをつなぐバイパス道路は、ベイトジャラやベイトサフールを含むベツレヘム地区一帯をエルサレムから遮断して孤立させる役割を果たしています。

Har Homa settlement viewed from YMCA,Beit Sahour, West Bank


とはいえ東京から来た者としてはDonkey rideという言葉に抵抗しがたい魅力を感じます。ぜひぜひ連れて行っておくれとはげしくお願いし、なんとか手はずを整えました。けれど、当日になってスタッフに急用ができてしまい、タイトな日程のなかで他に日を組むこともできず、残念ながらドンキー・ライドはまぼろしに終わってしまいました。わたしたちの名札がついたオリーヴの樹を確認することができなくて、かえすがえすも残念です。

西と東のYMCA


ついでに、YMCAについて発見したことをメモしておきます。エルサレムには二つのYMCAがありますが、その意味するところは訪ねてみてようやく実感できました。

エルサレムにYMCAができたのはオスマン帝国時代の1878年で、キリスト教徒のみならずイスラム教徒やユダヤ教徒にも奉仕する施設として発展しました。第一次大戦中に一時閉鎖されたものの、戦後イギリスの委任統治が始まると同時に大きな発展を遂げました。現在の西エルサレムにある建物は1933年に完成したもので、当時のエルサレムで唯一のスウィミング・プールをそなえ、客室80のホテルや図書館を持ち、世界一美しいYMCAとたたえられていました。

The YMCA, West Jerus most significant architectural landmark, is on the outskirts of the old city.

エルサレムの最後の二年間にはYMCAが教会よりも重要な社交の場になっていた。YMCAには屋内プールがあり、テニスコートがあり、塔の中には巨大なカリヨンが置かれていた。これらをわたしは無意識に《自分たち》に属するものと思っていた。家族の者はみなYMCAにかかわりを持っていた─YMCAのプログラムに参加する者、その施設を利用する者、あるいは理事会の一員としてかかわる者。(『遠い場所の記憶』p127-8)


エドワード・サイードの自伝の中にも、エルサレムで過ごした子供時代の描写にYMCAが登場しますが、 
それはこの西エルサレムのYMCAのことです。

では、1948年に何が起こったのか?

西エルサレム地区はシオニストの手に落ちたため、そこに住んでいたアラブ人たちは退避をよぎなくされました。サイード一族の家があったタルビヤ地区も西エルサレムのYMCAの近くでしたが、ここもハガナーの手に落ちて放棄せざるをえなくなりました。タルビヤにはもともとユダヤ人はおらず、アラブ人キリスト教徒だけが住んでいたと記されていますが、今も豪華なアラブ風のお屋敷が立ち並んでおり、欧米化したアラブ人上層階級の高級住宅街だったのだろうと思われます。

それはともかく、YMCAのアラブ人スタッフも職場を放棄せざるを得ないことになりました。サイードの父方の親戚シャフィーク・マンスールはYMCAの少年部理事をつとめていましたが、この人物はYMCAのつてを頼りにアメリカに渡り、なんとかそこで仕事をみつけたようです。他のスタッフの中には東エルサレムや西岸(当時はヨルダン領)に逃れた者もあり、彼らはいずれ元のYMCAへ復帰するものと想定しながら一緒に集まって難民救済活動をしていました。そのうち5人が1949年にジェリコの難民キャンプで学校を開き、YMCAの活動を再開しました。これがヨルダンYMCA(つまりパレスチナ側のYMCA)の始まりで、その本部が後に東エルサレムに置かれることになったという経緯らしい。こんなかたちでYMCAも二つに分かれることになったわけです。

YMCA, Beit Sahour, West Bank

障害者の社会復帰支援


東エルサレムYMCAは現在ナブルス・ロードにあります。この他、ラマッラーやジェニンにもYMCAがありました。オリーヴ・キャンペーンの中心となっているのはベイトサフールのYMCAですが、ここでは活動の大きな柱として身体障害者を対象とした職業訓練センターを運営しています。

このリハビリテーション・プログラムが始まったのは第一次インティファーダがきっかけでした。占領軍に投石で対抗するという闘いですからもちろんパレスチナ側には負傷者が続出、恒久的な障害を負った者も少なくはありませんでした。そのような人たちの社会復帰を支援するために職業訓練やカウンセリングを施してきたのです。

インティファーダによる負傷者は英雄ですから、彼らの社会復帰を促すことは障害者に対する一般的な偏見を是正することにもつながりました。実際、障害者を不名誉でみぐるしい存在、一家の恥ととらえる傾向の強いパレスチナ社会においては、障害者支援プログラムを提供したのはYMCAのリハビリセンターがはじめてであり、彼らの社会参加の推進に中心的な役割を果たしているのだそうです。

2000年に始まった第二次インティファーダでは、暴力の度合いも破壊の規模もけた違いに大きくなっています。封鎖と分断による地域的な孤立、失業、修学機会の喪失、日常的な死傷事件などによって、若年層を中心に精神的な障害(トラウマ)に悩む人々が増えているらしく、身体的にも、精神的にも、リハビリ支援の重要性が増しているとのことでした。 (25 December 2004)

To be continued...



2.欠損した「日常性」を憧憬する〜パレスチナ美術の現在
3.Life in the Holy Land
4. 壁画プロジェクト
5.ナザレ
6.聖ジョージ聖堂と東エルサレム
7. Vanunu とHiroshima