Edward Said Interview

ペンと剣

ナイポールはインド人ですが、家族はトリニダードに住み、本人もそこで育ちました。彼はフアード・アジャミー のような人々と並んで、第三世界の証人としてよく引き合いに出されます。この人たちの話は実際の経験に基づいているという理由で。そうして、この証人たちは、そこは汚らしいゴミの山だ、と証言するのです。
V.S. Naipaul
ナイポールと第三世界

DB:V.S.ナイポール 〔Vidiadhar Surajprasad Naipaul 西インド諸島トリニダード出身のヒンドゥー系作家、1932-〕のような人々は、「そういうことは、もう終わった。帝国主義は過去のものだ。僕らは、新しい時代に生きているのだ。だが、その混乱ぶりはどうだ」と言います。よく引用される『イスラム紀行』 Among the Believers: An Islamic Journey(1981) では、イスラム研究家、社会学者、心理学者を気取る小説家ナイポールが真骨頂を発揮します。彼はイラン、パキスタン、インドネシア、マレーシアを旅して巡り、ムスリムたちについて、「彼らの怒り――技術にも、資金にも、世界観にも恵まれない遊牧民の怒りには、理解できるものがある。しかし今や彼らには武器がある。イスラム教だ。それを通して彼らは世界と対等になれるのだ。それが、彼らの嘆きや、無力感や、社会的な怒りや人種的な憎しみを癒してくれるのだ」と描写しています。

ナイポールはおもしろい人物です。なによりもまず、才能のある作家。その点については疑問の余地はありません。彼はまた、カラード作家として、まさにうってつけのケースです。1979年に『暗い河』 A Bend in the River が発表されたとき、アービング・ハウ Irving Howe 〔米国のユダヤ系批評家、1920-〕はニューヨーク・タイムズ紙の書評で、これぞまさに第三世界出身の人物、と紹介しました。ナイポールはインド人ですが、家族はトリニダードに住み、本人もそこで育ちました。彼はフアード・アジャミー Ajami のような人々と並んで、第三世界の証人としてよく引き合いに出されます。この人たちの話は実際の経験に基づいているという理由で。そうして、この証人たちは、そこは汚らしいゴミの山だ、と証言するのです。ナイポールは、そうした傾向に拍車をかけています。

ナイポールが言いたいことを言うのはかまいません。誰だって、自分の見たことを話す資格はあります。そして、彼の感覚の鋭さはごらんの通りです。しかし、旅行者としてはかなり怠慢で、訪れた国についてふし穴だらけの情報しか得ていないのもまた事実です。彼は好きなものを書いて出版すればいいし、人はそれを読み批判すればいいと思います。ただ、少し認識しておいてもらいたいのは、彼が二つの点で特に有害なことをしているということです。

第一点は、イランのような国の現在の混迷を引き起こす要因となった歴史の全体像を提示していないということです。イランでは、いわれなくイスラムが復興したわけではありません。その前提として、西洋との接触により、長期にわたり徐々に主権を侵食されていったという歴史があるのです。阿片をめぐる戦い、石油採掘権の譲渡、国王による専制政治など。現在イランで起こっていることは、こうした一連の積み重ねに対する反応なのです。ナイポールはこれらのことをすべて見逃しています。そのようなことは取り上げません。そうすることによって結果的に、あたかも本質的にムスリム的性格というものがあるかのような印象を与えるのです。

第二点はもっと重大です。ナイポールは、イスラムが今や西洋の仮想敵となっているということを除いては、これらの国々の実態を何ひとつ示そうとしないのです。この夏、ワシントンポスト紙は、イスラムが共産主義に代わって西側の敵となる、というヘッドラインを載せました。イスラムという何か均質で個々の識別もつかないようなものが、世界の諸悪の根源であるかのように見なされるようになっています。イスラム教やイスラム世界の内部には多くの潮流があり、多くの反対派が存在すること――これが肝心な点です――には気づいていないのです。宗教にとらわれない人々は、ムスリム同胞団ジハードヒズボラハマス などと闘おうとしています。これらの組織は、それぞれ互いに大きく異なっています。ハマスはヒズボラとはかなり性格が違いますし、スーダンのハサン・アル=トゥラービー(Hassan al-Turabi)の率いる運動は、エジプトのムスリム同胞団とは大きく異なります。

その一方で、イスラム以外にも存在する原理主義運動 fundamentalism には、ほとんど目が向けられていません。たとえば、ユダヤ教原理主義です。イスラエルは原理主義の国家なのです。これは、ユダヤ人でない僕にとっては、いろんな意味でイランと同じように恐ろしいものです。このことは、不当にもまったく議論されません。イスラエルは宗教法によって統治されていて、安息日には一定の行為が禁じられています。音楽はキリスト教色が濃いという理由で検閲され、ワグナーのように禁止される作曲家もあります。またユダヤ人とそうでないものを区別する厳格な法を定めています。このような事実は、主流派の議論からは完全に除外されているのです。僕は世俗的な人間なので、宗教がらみの政治にはいっさい反対しています。それは僕だけじゃありません。もしナイポールのようなやり方でイスラムについて語るのであれば、もっと全体像を踏まえた真実に近い文脈のなかで語らねばなりません。抵抗なくよく売れるというだけでは、しょせんは日和見主義でしょう。

DB:深刻な問題を抱えている国、たとえば今日のアルジェリア、ヨルダン、チュニジア、また特にエジプトなどで、イスラム教が民衆に訴えるのは何が原因なのでしょう。

まず、第二次世界大戦後に帝国主義への反動をバネに政権についた、非宗教的な近代化運動が破綻したことでしょう。これらの運動は、ほとんど何も問題を解決することができませんでした。人口の爆発的な増加に対処できず、解放後に起こってきた民主化と国民の権利拡大にも対処できませんでした。たとえば、エジプトでは史上初めて全国民に完全な教育の権利が保障されました。忘れられがちなことですが、イスラム教の復興は、文盲追放キャンペーンが大成功をおさめた結果として、その後を追うように起こってきたのです。つまり、これは文字の読めない者たちが進めている運動ではないのです。それを担っているのは医者や法律家たちです。しかし、こうしたイスラム運動は場所によりそれぞれ大きく異なりますが、ほとんどの場合、活発な非宗教的な文化との競合状態にあるのです。

次に重要な点は、こういう運動が起こっているのは、エジプトやアルジェリア、ヨルダン、サウジアラビアなど、その支配者が欧米の同盟者であると見なされている国々だということです。エジプトの民衆は、合衆国に愚弄されたサダトがイスラエルと和平を結び、みずからの人格を売り渡し、仰々しい見せかけと巧みな世論操作の陰で結局はエジプトの主張よりも合衆国の主張を優先させているのを見て、疎外を感じています。そこから沸き上がってくるのは、絶望感や捨て鉢な気持ちだけでなく、イスラム運動によって煽られた怒りの感情です。

最後に、最も重要な点は、アラブ世界におけるイスラム教の刷新は、国家の安全保障を優先させて民主主義をおろそかにしてきた国々を中心に起こっているということです。イスラエルがここで重要な役割を果たしています。イスラエルの存在――この神権政治に基づいたスパルタのような軍国主義国家が、この地域に押しつけられてきたことは、忘れられがちです。パレスチナ人は社会や国家や国土を破壊され、25年以上も占領下にありますが、イスラエルはそればかりでなくレバノンやヨルダンやシリアやチュニジアにも侵入し、襲撃しているのです。サウジアラビアの領空をたびたび侵犯し、イラクを攻撃したこともあります。イスラエルは、この地域では超大国なのです。イスラエルと合衆国がアラブ世界の心臓部を好き勝手に踏みつけているという気持ちが、人々を土着の文化に追いやり、イスラム的なものとの結びつきを深めることに救いを求めさせているのです。


★ナイポールについては、もうすこし最近の『ムスリム再訪』についての書評がAl-AhramWeeklyに載っていたので、オンライン・コメントのページに掲載しました →「知的破局」」

< 『ペンと剣』(ちくま学芸文庫)>


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