and The SwordEdward Said Interview

ペンと剣

実際の式典はテレビで観ましたが、やたら俗っぽく派手なだけという印象でした。・・・・・・・はじめにクリントンが、ローマ皇帝さながらに宮廷に2人の属国の王を呼びつけ、目の前で握手させる。続いて招かれた重要人物たちがファッション・ショーのように次々と登場します。次は演説の場面で、これが一番がっくりきました。ラビン・イスラエル首相のパレスチナ演説は、苦悩やハムレット流の不安と確信のなさに満ち、損失や犠牲を悼む感情がにじみ出ていました。しまいには僕だってイスラエルが気の毒になったくらいです。一方、アラファトの演説はときたら、実のところ実業家たちが原稿を用意したもので、その賃借契約でも結ぶような調子は、まさに商売人の演説そのものでした。

実際、ひどい演説でした。彼はパレスチナ側の犠牲については一言も触れず、パレスチナ人の存在についてさえ何ひとつ真摯な言葉を発しませんでした。特にこのことによって、そこで行なわれていることが僕にはたまらなく惨めなものに感じられました。そして、アラファトの演説、この催し、この式典などはみな、西岸・ガザ地区のイスラエルによる支配の当面の継続を認めパレスチナ人を劣等な従属民におとしめる和平合意の内容そのものと、完璧に釣り合っているのだと考えました。


Israel-PLO Accord

オスロ合意とPLO


DB: 9月13日ワシントンで、イスラエル政府とPLO(パレスチナ解放機構)は、年初からの交渉を経て結ばれたオスロ合意に基づき、「相互承認」と「ガザと西岸地区の一部(エリコ)の暫定自治」を推進するための原則宣言文書に調印しました。タイム誌はこれを「歴史的打開」と絶賛しています。ニューヨーク・タイムズ紙のトーマス・フリードマン記者はこの合意を「中東におけるベルリンの壁の崩壊」と形容し、「狂信主義に対する現実主義の勝利、弱腰政治に対する勇気ある政治の勝利」であると讃えています。このワシントンでの事件を、どうご覧になりますか

確かに重要な歴史的打開だとは思います。飛びぬけてね。しかし、パレスチナ人にとっては基本的に降伏文書です。合意歓迎派のトーマス・フリードマンは、もっと本音に近い評価を漏らしてしまうことがやたら多いんです。例えば、ある記事のなかで、彼はこの合意をパレスチナ人の「降伏」と呼んでいます。僕も、その通りだと思います。暫定自治協定には前向きに評価できる部分もあり、その点は後でお話ししますが、その前にメディアを覆っている浅薄な賛同の大合唱に対して、違った角度からの情報も提供しておくことが必要でしょう。

例えば、3週間前のテレビ番組。ジェームズ・ベーカー元米国務長官がキャスターのコーキー・ロバーツ(Cokie Roberts)になじられていました。ロバーツは「なんでイスラエルはPLOを信用しなければならないのですか。なんと言っても、アラファトはテロリストではありませんか。彼らは約束を守ったためしがない」などとまくしたてるのです。ベーカーはけっこうムッときて、「コーキー、アラファトを信用するもしないも、そんな必要などないんだよ。イスラエルは何ひとつ譲歩していないのだから」と答えました。

また、僕と「ハト派」のイスラエル人アモス・オズが交互に顔を出すBBCのインタヴュー番組では、インタヴュアーのマイケル・イグナチエフ(Michael Ignatieff)から番組の締めくくりに暫定自治合意についての意見を求められて、オズが次のように答えました。「1993年9月13日は、シオニズムにとって48年の建国の日に続く2番目の大勝利の日です」。

こうしたコメントが出てくるのは、それなりの理由があるからです。

今回の合意で評価される点は、もちろんPLOがイスラエルに承認されたことです。しかしPLOは、単に「パレスチナ側の代表」として承認されたのであって、「パレスチナ人の唯一の正統な代表」であると認められたわけではありません。ただし、そういうところだけ見ていては、この承認と抱き合わせになっている重要なものを見落すことになります。

というのは、もう一方の、パレスチナ側によるイスラエル国家とその生存権を承認するという国際関係の定式には存在しない手続きには、PLOが従来の一連の主張を放棄し、暴力やテロリズムを否認するというおまけがついていたからです。これでは、PLOはこれまでテロリスト集団だったけれど、今後はそれを改めるということになってしまいます。パレスチナ人はもとより、合衆国とイスラエルを除く世界の大多数にとって、PLOは民族解放機構であり、国家機関であるにもかかわらずです。

パレスチナ側の武力行使は、それを上回るイスラエル側の武力行使に対する抵抗であるというような解釈は放棄され、すべてテロリズムと暴力としてとらえられることになったのです。シオニストによるパレスチナ侵略に対し少なくとも100年このかた空しく抵抗し続け、残念ながらいまだ一片の領土も取り戻せないでいるパレスチナ人の抵抗運動の歴史を、このような性格のものとしてとらえるのは本当に恥知らずなことだと思います。

さらにこの承認には、PLOとイスラエルが今後は国連安保理決議242と338に基づいて交渉を進めるという了解が含まれていますが、これらの決議は実際パレスチナ人についてはまったく触れていないのです。その後の展開で明らかになってきたように、こんな交渉を進めることによって、PLOは1948年以来国連が採択してきた他の決議をすべて放棄しつつあります。そのなかでも重要なのは、1948年にイスラエルによって追放されたパレスチナ難民は、それに対する補償を受けたり、故郷に帰還する権利があるとした194号決議〔1948年12月〕です。この決議には合衆国でさえ賛成していますし、国連総会では毎年再決議されています。

しかし、国連に集まったイスラエルとPLOの代表たちは、これら一連の国連決議に修正を加えたり廃棄したり、あるいは再交渉するための会合を繰り返し開いています。これらの決議には、イスラエルの入植政策に対する非難、エルサレムとゴラン高原の併合に対する非難、占領下の市民への圧政に対する非難などが盛り込まれているのですが、PLOはこれらについて徐々に譲歩しはじめているのです。

さらにまた、大いに問題のあるところですが、PLOはパレスチナ人のネイションとしての諸権利や民族自決の権利についての交渉は行なわないという前提を受け入れました。交渉されているのは、ヨルダン川西岸地区とガザの住民の暫定的な自治だけです。したがって、直前にアラファトとラビンの間で交わされた交換文書にも、あの日、イスラエルとPLOが調印した原則宣言にも、西岸地区とガザに居住していないパレスチナ人についての言及はまったくありません。この人たちはパレスチナ人全体の50%以上を占め、現在はレバノンやシリアなどに無国籍者として住み、また140万人はヨルダンに居住していますが、彼らの処遇については一切不問にされているのです。

実際の式典はテレビで観ましたが、やたら俗っぽく派手なだけという印象でした。僕は、ホワイトハウスに招待されていたのですが、出席を断ったのです。僕にとって今回の合意は祝うべきものではなく、むしろ悲嘆すべきものでしたから。

はじめにクリントン大統領が、ローマ皇帝さながらに自分の宮廷に2人の属国の王を呼びつけ、目の前で握手させる。続いて招かれた重要人物たちがファッション・ショーのように次々と登場します。次は演説の場面で、これが一番がっくりきました。ラビン・イスラエル首相のパレスチナ演説は、苦悩と、ハムレット流の不安と確信のなさに満ち、損失や犠牲を悼む感情がにじみ出ていました。しまいには僕だってイスラエルが気の毒になったくらいです。一方、アラファトの演説はときたら、実のところ実業家たちが原稿を用意したもので、その賃借契約でも結ぶような調子は、まさに商売人の演説そのものでした。実際、ひどい演説でした。

彼はパレスチナ側の犠牲については一言も触れず、パレスチナ人の存在についてさえ何ひとつ真摯な言葉を発しませんでした。特にこのことによって、そこで行なわれていることが僕にはたまらなく惨めなものに感じられました。そして、アラファトの演説、この催し、この式典などはすべて、西岸・ガザのイスラエルによる支配の当面の継続を認め、パレスチナ人を劣等な従属民におとしめる和平合意の内容そのものと、完璧に釣り合っているのだと考えました。

新作の『文化と帝国主義』では、優越と従属の関係、植民地主義、人種差別、帝国主義などといった主要テーマが、文学のプリズムを通して論じられています。これらの問題の多くは、ホワイトハウス南庭での、あの煌びやかな月曜日の朝の催しにも反復されているような気がします。

僕がPNC〔パレスチナ民族評議会、PLOの最高決議機関〕を1991年の晩夏から秋口に辞任した理由にもつながることですが、ここで鍵となるのは、かつては闘争機構であり、少なくともパレスチナ闘争の精神を代表し、ユダヤ人を殺すことではなく、権利と自由と平等の獲得を目指していたPLOが、マドリード交渉〔中東和平国際会議にもとづく和平交渉〕への参加に踏み切ったことによって、結果的に合衆国とイスラエルにわが身を売り渡してしまったということでしょう。式典があんなに不快だったのは、そのためです。

アラファトにとっては、いろんな意味で絶頂の瞬間でした。アラブ系の新聞が報道していますが、あれ以来彼は、「ホワイトハウスに招待されるっていうのは、どういうことだかわかるか?」というような発言をするようになりました。その背景にある意識は、白人を主人と仰ぐ一種の「奴隷根性」です。僕らが拒み続けた末にとうとう姿を見せると、彼らはよしよしと頭をなでてくれた。仲間に入れてもらって、彼らの立派な椅子に座って話し合った、というものです。

しかし、エリコやガザで世論を盛り上げているような連中は別として――アラファトが金を出してやらせているんじゃないかという気もしますが――パレスチナ人の多くにとって、この一幕は思いもよらなかった不名誉と、永続的な従属をもたらすものでした。これではまるで合衆国に僕らの将来をすべて託したようなものです。合衆国が1948年以降、僕らにどんな仕打ちをしてきたかということに関して、わずか1年前のことも含めて完全な記憶喪失に陥っていると言えるでしょう。

秘密交渉が進められていた時期に何があったかを忘れないでください。イスラエルとPLOの交渉は実はオスロで始まったわけではなく、その端緒は1992年の秋、パレスチナ人の雇われ顧問数人を従えたPLO高官たちと数人のイスラエル軍事専門家が、ボストンのアメリカン・アカデミーで開始した交渉にあります。そこでは西岸・ガザの将来の治安体制についての交渉が行なわれました。しかし、問題とされたのはイスラエル市民の安全であり、パレスチナ人の安全など一顧だにされなかったのです。

このようにして始まった交渉ですが、その交渉が進行するさなかの92年10月から93年9月にかけて、西岸地区の弾圧は最悪の時期を迎えていました。1993年の初頭には、常にもまして多くの住民が殺されました。ガザで20人から30人、その多くが15歳以下の子供です。この時期にはまた、強制出国処分が執行されました。12月にイスラエルは415人のパレスチナ人をテロリストであるとして国外追放処分とし、レバノン国境の向こう側に放り出したのです。この時期にはまた、占領地が閉鎖されました。ただ閉鎖されただけではありません。僕は現地に行ったとき、すべての道にバリケードが築かれているのを見ました。この道路管制によって、占領地の内部での流通に大きな支障が生じました。

その同じ時期に秘密協定の交渉が進められていたわけですが、こうしたことには何も触れられていません。強制退去についての一言の言及もなく、なによりも1万4千人から1万5千人にのぼる政治犯のことがいっさい取り上げられていないのです。要するに、一つの民がみずからの手で自己を抹消するという驚くべき離れ業を、アラファトは演じたのです。そのとどめを刺したのは、彼が調印式での演説を締めくくった「サンキュー、サンキュー、サンキュー」という鳥肌の立つような言い方でした。

アメリカに何を感謝するというのでしょう。イスラエルに何を感謝するというのでしょうか。わずか1カ月半前にイスラエルはレバノンに侵攻しています。レバノン南部に40万人から50万人もの難民を発生させるという狙いを公然と掲げたこの作戦は、その通りの結果を生みました。こういうことには何ひとつ言及されていないのです。憂慮せざるを得ません。


DB: 暫定自治協定の内容と、予想される影響を具体的にお話しください。

一般的な見方は、これでお手打ちというものでしょう。合衆国では、どの層からも一様に歓迎されています。ユダヤ系リベラルからも平和団体「ピース・ナウ」に近い人々からも、リクード党を批判する人々からも支持を受けています。実際の協定内容に呆然とさせられたパレスチナ人の間でさえも、結局はこれを是認しようという気持ちがあるようです。僕にしても、ある程度はこれを肯定していると言えます。これが少しでも事態の改善につながるように期待しよう、と発言していますから。それというのも、騙されるような者がいるとは思えないからです。この合意が大きく平等を欠いた陣営の間で結ばれたものであることは明白ですから。

それでも、アラファトのスポークスマンで密約には関与しなかったナビール・シャース(Nabil Shaath)などは、とんでもない発言を寄せています。協定が成立したときアメリカにいた彼は、テレビに出演して、これはイスラエル人とパレスチナ人の完全な「対等」を確立するための原則を宣言したものであると述べたのです。こんな馬鹿げた発言を本気にする者がいるとは思えません。僕の知っているパレスチナ人は誰ひとり、そんなものを真に受けてはいません。

でも、西岸地区やガザに住むパレスチナ人の間には――彼らとは訪問後、ほとんど毎日のように連絡をとっています――少なくともイスラエルが一部の地区から撤退する可能性はあるという期待が広がっているようです。26年間にわたる残虐な軍事占領による疲労と、これからは少しは自由が拡大し、もっと資金が流入し、独立に向けて事態が進展するかもしれないという期待は、僕自身を含めて誰にとっても共通のものです。それでも、この協定が明言していることと、していないことを、きちんと理解しない限り、僕らは現実的に歩を進めることはできないと考えています。

そこでまず理解しなければならないのは、この協定は本当のところ、イスラエルより劣った陣営である僕らの弱い立場をそのまま反映しているということです。まずこれを押さえておかなければなりません。そのうえで、ここには勝った側の要求が盛り込まれており、僕らは多くの重要事項について従来の主張を取り下げる降伏文書に署名したのだということを認識しなければなりません。

これはパレスチナ人にある程度の状況の改善を約束しますが、同時に大きな制約も課すことになります。その制約の多くは、今後は法的拘束力を持つことになりますが、僕らはそれに調印して受け入れたのです。少なくとも指導層はこれを受け入れました。この協定の内容を理解するまでは、先に進めません。この協定がうまく機能するかどうかを考えてみようにも、まずそこに機能すべき何が含まれており、何が欠けているのかを把握しなければ、検討のしようがありません。

まず第一に理解しなければならない点は、暫定的な解決を受け入れることの影響です。この協定は、中間段階における解決の原則宣言ということになっています。

僕らは占領された領土の返還を要求しています。これらの土地については、僕らだけでなく、合衆国を含む国際社会全体が一貫して被占領地であると見なし、それゆえ解放されなければならないとしてきました。しかしこの協定は、これらの土地を係争中の領土と同じレベルで扱っています。基本的な問題であるはずの主権の所在や占領支配についての話し合いは避け、暫定的な自立と制限付き自治についてのみ話し合おうとするイスラエル側の主張を、僕らは受け入れてしまったのです。

入植地や主権や土地や水源やエルサレムなどの問題は、すべて「最終地位の交渉」に委ねようというわけです。その段階で初めてパレスチナ人は自分たちの要求を持ち出し、ユダヤ人も対等に自分たちの要求を持ち出すことにしようというのです。しかしこれは、要求が対等であると言っているのであって、両陣営の立場が対等なわけではありません。それまでの間はイスラエルが、その土地を支配するのです。

パレスチナ人が長年の闘争を通じて国際社会やアラブ世界で築き上げてきた認識、すなわち問題の土地は被占領地域でありイスラエルが主張するような「管理」下に置かれた地域ではない、という認識を放棄してしまったことを理解しなければなりません。イスラエルは今日に至るまで、また協定のなかではもちろん、自分たちが軍事占領を行なっているとは認めていません。協定には、イスラエルが最終的に撤退するとは明記されておらず、一部の地域からの兵力引き揚げと別の地区への再配置が行なわれると書かれているだけです。入植地をはじめ他の一切は残るのです。

したがって、祝典の日にラビンが記者会見で述べたように、イスラエルはヨルダン川、死海、ガザの海岸部の交通、およびエジプト・ガザ間とヨルダン・エリコ間の国境を管理し、ガザとエリコを結ぶ約90キロにわたる通路も支配下に置くことになるのです。もちろん防衛や外交もイスラエルが掌握するのだということを理解しておかなければなりません。

ラビンは記者会見で、PLOが現在世界の約百カ所に設置している代表部と駐在事務所への送金を止めて、その資金をガザに廻すべきだと主張しました。実際、過去半年から8カ月ぐらいの間、ロンドン、パリ、オランダ、ニューヨークなどのPLOの代表部の多くは送金を受けていません。PLOは破産状態にあり、給与の支払も滞っているという説明がなされていますが、僕はこれが、国連のような国際機関への代表も含めPLOの各国駐在事務所が閉鎖される前兆なのではないかと見ています。

第二の重要ポイントは、PLOはこの原則宣言の調印者となったと同時に、事実上の一地域政府になったということです。イスラエルのレトリックはきわめて慎重かつ緻密です。彼らはPLOが一政党以上のものであるとは決して言っていません。PLOは一つのネイションを代表する国民政党ではないのです。パレスチナ人の民族自決の表象ではないのです。それは、リクード党や労働党と同じように政権への参画をめざして他党と争い合う一地域政党であると見なされているのです。ここにイスラエルの同化戦略が見られます。

第三は、開発の問題です。パレスチナ人は観光行政や公衆衛生、直接課税などのようなことについてはある程度管理することができますが、こと開発となると話は別です。この協定の重要な前提として、史上初めてパレスチナに大量の資金が流れ込んでくることになっています。イスラエル人とパレスチナ人が共同で開発評議会と呼ばれる組織をつくることになるようです。

しかし、イスラエル側の経済力はパレスチナのものよりはるかに強く、すでに西岸地区にもガザにも浸透しています。両地区の経済の実に85%が製造業などを中心にイスラエル経済に依存、あるいは支配されている状態です。こうしたことから、今後流入する開発資金はイスラエル側に主導権を握られることになるのは必至です。したがって、西岸地区とガザに展開するイスラエル側のプロジェクトや事業も、パレスチナ人による事業と並んで資金流入の恩恵を受けることになります。世界銀行やヨーロッパ共同体やアラブ国家などの出資による巨大プロジェクトが話題を呼んでいますが、今お話ししたようなイスラエルの関与を見過ごしたところで展開している議論が多いようです。

この開発という側面が、もっとも危険なのではないでしょうか。この協定によって、イスラエルは西岸地区とガザのパレスチナ市場を今度は正々堂々と獲得できることになります。これらの地区はイスラエルにとって輸出市場であるばかりでなく、同時に低賃金労働力の供給源となっていますが、これでその現状の維持が確認されたわけです。おそらくパレスチナ人ブルジョワも含めた実業家層が、リゾートやホテル開発など、住民の福利厚生をないがしろにした事業を開始することでしょう。まっ先に検討されているのはこのようなプロジェクトです。インフラストラクチャーはイスラエル人に牛耳られ、パレスチナ人の支配権はそれに従属したものになるのは必至です。

こうしてイスラエルに、他のアラブ世界へ進出する足場を与えていくことになります。米国をはじめとする欧米とのつながりによって、中東地域では群を抜いて強力なイスラエル経済が、遅れたパレスチナを踏み台として、念願のアラブ市場進出を果たすことになるでしょう。今回の協定にはこういった恐ろしく不利な条件が含まれているのです。

第四のポイントは、最終段階の交渉に至るまでの暫定期間中ずっとイスラエル軍は駐屯し続け、入植地も存続するということです。これが何を意味するかと言えば、例えばガザでは約40%の土地が入植者とイスラエル軍によって占有されているため、いわゆる「撤退」によって、うたい文句通りに「パレスチナ人によるガザの統治」が始まるわけではないのです。単にガザの一部に、ある程度の自治が許されるようになるだけのことです。

ただし、その地区における管理責任はパレスチナ人が負うことになります。これによって、最悪なことに、パレスチナ人は、これまでイスラエルが貫徹できなかった法と秩序の維持という役割を、彼らに代わって執行する羽目になるのです。ラビンが記者会見で述べたように、パレスチナ人は、ガザの治安に責任を持たされ、パレスチナ系の住民だけでなく、イスラエル系住民も同様に保護しなければならなくなったのです。残留するイスラエル兵に付き添われながらとはいえ、イスラエル系住民がパレスチナ人の土地を自由かつ安全に通行できるよう保護しなければならないのです。

そこで問題は、パレスチナ人の抵抗する権利はどうなるのかということです。というのも、ガザは引き続き軍事占領下に置かれることになるのですから。例えば子供がジープに石を投げたとすると、誰がその子供を起訴するのでしょうか。政治犯については何も言及されていません。パレスチナ警察がその子を投石の罪で逮捕したとしたら、どうなるのでしょう。この子はイスラエルの刑務所に入れられるのでしょうか、それともイスラエルが管理するパレスチナの刑務所に入れられるのでしょうか。

他の解放運動は、こんなとんでもない問題を抱えこむようなことはしませんでした。例えばANC〔アフリカ民族会議〕の場合――むろん彼らは僕らと違って勝利を勝ち取りましたが――政権に参画し、政府の支配権を掌握するまでは、警察に協力することを固く拒否していました。僕らはその役割を、政権に3加する前に引き受けてしまったのです。

2週間前のアラブ系新聞に、ガザとエリコで警察の任務にあたるため訓練を受けていたパレスチナ解放軍兵士約200人が赴任を拒んだという記事が載っていました。彼らは、イスラエルの警官になるのは嫌だと言ったそうですが、「イスラエルの警官」というのはまさにいまや大多数の人々がPLOに対して抱いている認識です。PLOはイスラエルの法執行機関になり下がったのです。抵抗する権利の問題に戻りますが、国際法も保障している僕らのこの正当な権利を、PLOは取引によって売り渡してしまったのです。

最後の問題点は、PLOがパレスチナの現地勢力と摩擦を起こすのではないかということです。これまでお話ししてきたようなPLOのメンバーは、アラファトや彼の側近も含め全員が西岸地区に足を踏み入れたことがないということを忘れてはいけません。彼らは、現地について何も知らないのです。しかし闘争や占領の恐怖を実際に体験してきたのは現地の人々です。彼らは自己犠牲や知恵や機転を頼りになんとか生き延びる道を切り開き、コミュニティーのなかでそれなりの地位を築いてきました。警官を従えて突然外から入ってくるPLOに、このような人々がすんなりと権限を委譲するとは思えません。内戦とまでは言わないまでも、内部紛争に発展しかねない火種が存在しているのです。

その紛争はすでに始まっています。それはPLO対ハマースとか、PLO対西岸・ガザのイスラム主義運動というようなわかりやすい構図に収まるようなものではありません。こういう図式は欧米のメディアや政治家が別の魂胆から誇大に強調しているものだと思います。そうではなく、むしろパレスチナ人自身がPLOのやり方に不満を持つことになるのが根本の問題です。ここ2カ月の間に2度も、アラファトはイスラエルやアラブ側のインタヴューで、「あなたは解放機構の指導者ですが、統治の経験はありますか」という質問に答えて、自分は10年間ベイルートを統治してきたと言いました。レバノン人はもとより、当時ベイルートに住んでいたパレスチナ人でさえも、これを聞いたら何と言うでしょう。あの当時のことは思い出すのも不愉快な経験で、アラファトが寄与したものは何もなかったのですから。


DB:音楽は、あなたにとって大切な位置を占めていますね。ここで進行していることに、僕は一種の隠喩を見るのですが……。あなたはいつも、自分が好きな音楽は、複数の声が互いに呼応し、こだまし合い、相手をきわだたせ合うようなもの、モノフォニックな音楽が垂直のラインを提示するのに対して、水平なラインを描くようなポリフォニックなものだと言ってました。これは、これらの交渉で起こったことの隠喩ではないでしょうか、そういう複数の声が欠けているという意味で。

そうとも言えないようです。対立する立場が存在することは、きわめてはっきりしていますから。僕が暫定自治協定にこれほど批判的なのは、そのためです。イスラエルは具合の悪くない条件でパレスチナ側と合意を結ぶため、パレスチナ側の交渉相手をぜひとも必要としていたのです。それができれば、パレスチナ人との関係のみならず、他のアラブ諸国との関係改善にも役立ちます。また何よりも、インティファーダや1993年7月のレバノン侵攻などによって再び地に墜ちてきた自分たちのイメージを回復することができると期待していました。

だからこそ、僕はPLO指導部がやったことをこれほど強く非難しているのです。彼らは、自分たちの切り札が、イスラエルの交渉相手として「対旋律」の役割を引き受けることだということを承知していたのです。よく考えてみれば、PLO抜きでパレスチナ人との和平などあり得ないことは明白なのですから、もっと慎重な動き方もあったはずなのに、アラファトは落ち目になっていた自分の立場を挽回するだけのために、イスラエルと渡り合うために残しておいた最後の切り札を使ってしまったのです。かつてアルジェリア問題に直面したフランスがずっと探し求め、これに対峙するFLNはその役割を引き受けることを拒み続けた「信頼できる交渉の相手」にあたるもの、すなわちパレスチナ側の「交渉相手」をイスラエルに差し出したのです。占領がまだ継続しているというのに、インティファーダへの弾圧が続いているというのに、PLOはこれまでになく弱体化しているのに、アラファトはこれを与えてしまったのです。

イスラエルにとっては見事な取引でした。彼らはこれで、交渉のパートナーができたと言うことができます。しかしこのパートナーは、自分で自分のカリカチュアとなっているような存在です。パレスチナ人の希望や意欲を代表する真のパートナーではありません。自分たちの歴史も代表者としての資格もかなぐり捨ててしまった一集団に過ぎません。僕たちのようにパレスチナを離れて離散し、PLOを生み出した在外パレスチナ人は、今後大きな重荷を負うことになるでしょう。

PLOは占領下におかれた西岸地区やガザの産物ではありません。PLOは離散体験の産物なのです。現在、僕たちにとって最も重要な課題は、民主主義の拡大です。PLOは今後、パレスチナ人の約半数にのみ依存して、現状よりも、さらには今回の和平協定が約束するものよりは少しはましな自治の実現に努力していかざるを得ません。希望をつなぐことができるのは、みずからを再編して、みずからの代表であるPLOに対して代表権の行使と民主主義の拡大を要求すること、例えば今後6カ月から9カ月のうちに実施されることになっている選挙を、間違いなく実行させることです。多くのイスラエル評論家によれば、ラビンとアラファトの密約では、選挙は実施せず、先延ばしにしてPLOの支配の継続を図ることになっているそうですが、そのようなことを許さず、選挙を確実に実施させることです。

選挙は確実に実施しなければならないし、責任体制も確立する必要があります。もはや指導者に、「俺たちが一番よくわかっているんだ、任せておけ」などと言わせておかないことです。ただし僕たちが参加を求めるのなら、完全な参加を覚悟しなければなりません。ただ資金と支持を与え好意的な表明を行なうだけではなく、実際にそれに関わっていく必要があります。パレスチナ人にとってはこの点が最大の課題となるでしょう。

もうひとつ指摘しておきたいのは、パレスチナでは何年もの間、人口調査というものが行なわれていないということです。ばかばかしく些細なことのように聞こえるかもしれませんが、これは非常に重要なポイントです。「僕らが政治的権限を獲得していくためには、自分たちが何者なのか、どこに住んでいるのかということを知る必要がある」という声は、過去10年来続いてきました。

アラブ諸国は常に自国内に居住するパレスチナ人の人口調査に反対してきました。知りたくなかったのです。彼らはパレスチナ人の公式人口を明らかにしたがりませんでしたし、その点についてはイスラエルも同じでした。今後のおもな要求として、パレスチナ人が議会を開催できるように、パレスチナ人の居住するすべての国において、パレスチナ人の人口調査を実施するということが掲げられるべきです。他の人たちがこれまで訴えてきたように、僕も今、これをおおやけに主張します。

僕らが直面している問題は、離散状態による代表権行使の難しさです。パレスチナの地におけるパレスチナ社会の存続に直接の利害を持つパレスチナ人であると証明できない限り、その権利を行使することはできないのです。このような理由から、選挙の問題、西岸地区をはじめとする各地の代議制度の問題は、パレスチナ人の人口調査の問題とワンセットで考えられねばならないと思います。ただ「さあ選挙だ。絶対勝ってやるぞ」なんていう掛け声で動かすようなものでは、もはやありません。

言い換えれば、僕たちはナショナリズムの時代に終止符を打ち、新たな社会・政治変革の時代に進んでいく必要があるのです。その変革を通じて、指導者の気まぐれにすべてを委ねるのではなく、人々が直接関わりみずからの意志で積極的に動員されていくような段階に到達しなければなりません。

今日に至るまで、アラファトは自分の置かれている立場を包み隠さず国民に説明することはありませんでした。彼は説明すべきだったと思います。「わたしの失敗のせいで、われわれが湾岸戦争について判断ミスを犯したせいで、残された選択肢はこれしかなくなってしまった。これを受け入れるかどうか、君たちに訊かなければならない。もし受け入れるというのなら、調印しよう。もし受け入れないのなら、私は辞任する」と言うべきでした。彼はそれをしませんでした。ナーセルは1967年7月にそれを実行しました〔ナーセルは第三次中東戦争敗北の責任を取って辞任を申し出た〕。

アラファトは自国民に対し、なぜ過去においてあれほど多くの選択肢があったにもかかわらず拒絶し続けたのかを説明していません。その選択肢のなかには僕自身が関わったものもあります。70年代や80年代にアメリカやイスラエルが提示した、今よりもずっとましな条件を受け入れることもできたはずなのです。でも彼はそれらをすべて拒否しました。いったいどのような理由で、彼は今回のこの取引のために、これまでずっとがまんしてきたと言うのでしょうか。この疑問に回答する責任が彼にはあります。しかし、いまだ回答はありません。


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