ナビーハおばさん

遠い場所の記憶




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しかし、パレスチナ人が悲惨な状況に置かれていることをわたしたちが決して忘れなかったのはナビーハおばさんによるところが大きかった。おばさんは毎週金曜日にわたしたちと昼食をともにするようになっていたが(行動的な彼女が同席すると、年上でいまではすっかり縮んでしまったメリーヤおばさんはますます影が薄くなった)、その席でこの一週間に彼女が目の当たりにした厳しい状況のことを語りきかせてくれるのだった。たとえばショブラーの難民キャンプを訪ね、自分が面倒をみている難民家族のために仕事や滞在許可を得ようと冷淡な政府の役人たちに執拗に食い下がり、資金を求めて一つの慈善団体から次の慈善団体へと飽くことを知らずに駆けずり回ったというような経験が語られた。

今から思うと、何世代にもわたってわたしたちの人生に大きな影響を与えてきたパレスチナの問題とその悲劇的な喪失について、知人のほぼすべてが影響をこうむり、わたしたちの世界を根底から覆したというにもかかわらず、うちの両親があれほどその話題を抑圧し、議論することを避け、軽い言及さえ控えていたという事実は理解に苦しむものがある。たとえエジプトでの生活(そして、よく滞在するようになったレバノンでの生活)が新しい生活環境を与えてくれたとしても、パレスチナは彼らの生まれ育った故郷ではないか。妹たちやわたしは子供だという理由で「悪い人々」から隔離され、わたしたちの「小さな頭」(母がよく使った表現である)を困惑させかねないようなものからはいっさい遠ざけられていた。しかし、わたしたちの生活のなかでパレスチナのことが押し殺されたのは、何事からも政治色を排除しようとするうちの両親の一般的な傾向の現われに過ぎなかった。両親は政治というものを嫌って信用せず、エジプトにおける自分たちの立場は、政治的なことへの参加はもちろん大っぴらな議論さえはばかられるほど心もとないものであると考えていた。政治とは誰か他の人たちが関わる ものであり、自分たちの仕事ではないと考えていたようだ。二十年後にわたしが政治の世界に首を突っ込み始めると、両親は口を揃えて強く反対した。「かかわり合うと、ろくなことにならないよ」と母は言った。「おまえは文学部の教授だろう。だったら、それに専念していろ」と父は言った。彼は亡くなる数時間前、わたしに次のような言葉を遺していった。「シオニストたちがお前に手を出しやしないかと心配だ。気をつけてくれよ」。父とわたしたち子供たちはみな合衆国のパスポートというありがたい護符によってパレスチナに関わる政治力学から守られていた。入国審査を受けるにあたり、わたしたちのような特権を持たず運にも恵まれなかった人々は戦争中から戦後にかけて大きな困難を体験させられたものだが、それを尻目にわたしたちはいとも簡単に入国管理官の前をすいすいと通りぬけていった。とはいえ、母は合衆国のパスポートを持っていなかった。

パレスチナが奪われてから、父は母のために何らかの米国発行の身分証明書を手に入れようと八方手を尽し始めたが、亡くなるそのときまで努力を続けたにもかかわらず結局それを手にすることはできなかった。彼の未亡人として、今度は母が自分でそれを手にいれようと奔走したが、その努力も同じように報われることなく母もこの世を去っていった。母にあてがわれたパレスチナのパスポートはやがてすぐ単なる「通行許可証」に置きかえられ、彼女はわたしたちと一緒に旅行する時、ほのかに滑稽感を漂わせた「お荷物」となった。父が決まって持ち出した逸話(母も同じ話をした)は、わたしたちの効果抜群の緑色の合衆国パスポートをわざと高く積み上げておいて、その下に母の証明書をそっと忍ばせるという手口を使ったという話であった。係官が母もわたしたちと同じグループであるとみなしてそのまま通してくれるのではないかという淡い期待に基づいたものであったが、それがうまくいったことなど一度もなかった。いつも決まってそれに続いた一幕は、上級官吏が奥から呼び出されてきて、厳粛な眼差しと慎重な口調で両親を脇へ呼び出し、彼らに釈明を求め、短い説教と警告めいたものを 与えるという場面だった。その間わたしと妹たちは事情が理解できず退屈しながらただぼんやりと待たされるのだった。やっとのことで入国管理を通過した後も、この厄介な身分証明書に象徴される彼女の存在の変則的な状態が剥奪Dispossessionという破壊的な集団体験の結果として生じたものであるということがわたしに説明されることは決してなかった。いったんレバノンやギリシャ、あるいは合衆国そのものに入国してしまうと、母の国籍の問題は数時間もしないうち吹っ飛んでしまい、普段の生活が再び始まるのであった。

一九四八年以降は、おばのナビーハはザマーレクのわたしたちの家からほんの三ブロックほど離れたところに居を構え、エジプトに流れてきたパレスチナ難民の救済のための慈善活動という忍耐力のいる事業にたった一人で取りかかった。最初は英語圏の慈善団体や教会関係の布教団体に近づき、聖公会伝導教会(CMS)や英国国教会派や長老派の伝導団などの門をたたいた。とりあえずは子供たちや医療の問題が彼女の最大の関心事だったが、後には職業の問題にも乗り出し、友人の家庭や仕事場を訪ねてまわって難民となった男たち、時には女たちにも職を与えようと尽力した。わたしが一番よく覚えているナビーハおばさんは、疲れきった表情を浮かべ愁訴するような声で「彼女の」難民(わたしたちも皆そう呼んでいた)の悲惨な状況を次々と並べ挙げ、彼らに一ヶ月以上の滞在許可を与えようとしないエジプト政府に譲歩を乞うというさらに気骨の折れる仕事についてぼやいている姿だ。家財を奪われ身を守るすべもなく、多くの場合貧困にあえいでいるパレスナ難民。それに対するエジプト政府の意図的な嫌がらせは、おばさんの頭にこびりついて離れなくなった。彼女はそのことについて際限なく愚痴 をこぼし続け、それに交えて難民たちの胸を突かれるような惨状を物語った──栄養不良、小児赤痢や白血病、たった一部屋に押し込まれた十人の家族、夫から引き離された女たち、見捨てられ物乞いに走る子供たち(これはおばを激昂させた)、肝炎や住血吸虫や肝不全や肺不全など不治の病にとりつかれた男たち。これらのことを毎週毎週、少なくとも十年ぐらいの期間にわたって、彼女はわたしたちに話して聞かせたのである。

兄であるわたしの父は、おばさんにとっていちばん親しく信頼のおける友人であった。おばさんとわたしの母とのあいだには、愛情はともかく常に慇懃な関係が保たれていた(「結婚したての頃は、彼女はわたしに嫉妬していたの」と母は言っていた)。父の人生に重要な役割を担ったこの二人の女性は彼の結婚後に協定を結んだらしく、それによってお互いに協力し合い、もてなし合い、共有し合うという関係は生まれた。だが、親しさという点に関してはその限りではなかった。ナビーハおばさんはわたしの名付け親でもあり、わたしとの特別な絆は、彼女がわたしに示す少々照れくさいほどの愛情表現の形を取って現われ、わたしの方でも彼女に会ってその話を聞き、活動する様子を見ることは積極的に求めるべき貴重な体験であると思っていた。

わたしが初めてパレスチナというものを歴史として認識し、大きな問題としてとらえたのは、このナビーハおばさんを通じてであった──彼女がわたしの人生に持ちこんだ「他のひとたち」、すなわち難民たちが置かれている苦境に、怒りと恐怖を覚えたことがきっかけとなったのである。帰るべき国や場所がないということ、守ってくれる国家の権威や機構がないということの心細さ、また苦々しくも無益な悔恨の情を抱くだけで「過去」を合理化することができず、毎日行列に並んでは不安な気持ちで仕事を探し、貧困と飢えと屈辱にとりつかれている「現在」にも納得していないという状況──それがどういうものであるのかを、わたしにわからせてくれたのもナビーハおばさんだった。おばさんと話したり、彼女の超多忙な日々のスケジュールを観察したりすることによって、わたしはこうしたことを生き生きとした実感を持って感じることができた。おばさんは経済的に余裕があったので自家用車を一台持ち、ウスター・イブラーヒームという並外れてがまん強い運転手を雇っていた。彼はダークスーツに白いシャツ、暗色のネクタイという組み合わせを端正に着こなし、赤いフェズ(一九五二年の革 命で排斥されるまではエジプトではいっぱしの中流男性であれば誰でも被っていたトルコ帽)を被っていた。彼の仕事は朝八時におばを迎えにくるところから始まり、二時には昼食のために彼女を家まで送り、四時に再び彼女を迎えに来て夜の八時か九時ごろまで彼女に付き合うのであった。個々の家庭、医療機関、学校、政府機関などが彼女の毎日の訪問先だった。

金曜日にはナビーハおばは外出せず、彼女が援助と必要物資を与えてくれると聞きつけて彼女を頼ってくる人々に会うための日としていた。たまたま金曜日におばを訪問したわたしは、あふれかえった訪問者の行列に彼女の部屋の入り口にたどり着くにも難儀するようなありさまに強い衝撃を受けた。彼女はファード一世通り沿いでも特に混雑した騒々しい交差点にあるアパートの二階に住んでいた。一方のかどにはシェル石油の給油所があり、彼女の部屋の下には一階全体を占領している有名なギリシャ人食料雑貨商バシラキスの店があった。彼の店にはいつも客がごった返し、彼らが待たせている車が交通を遮断したため、怒りのこもったけたたましい警笛の嵐に、騒々しく飛び交う抗議と忠告の叫び声がわめき声が重なってほとんどいつものように騒音の大洪水が流れていた。だがどういうわけか、おばにはこのとてつもない喧騒がいっこうに気にならなかったらしく、めったにない自由な時間を家で過ごしながら、あたかもリゾート地にでも行ったように振まった。「カジノみたいでしょ」と彼女は夕方の大騒音について言ったものだ。彼女にとって「カジノ」というのは賭博場をさすのではなく、妙な 話だが、丘の上にある想像上のカフェという常に静けさと落ち着きを漂わせた場所に結びついていた。建物の中に入ろうとすると、外の通りの耳を劈くような騒音に加え、今度はすすり泣きや悲痛の叫びが聞こえてきた。何十人ものパレスチナ人が階段から彼女の部屋のドアのところまで鈴なりにびっしり並んでいた、エレベーターは、おばが雇っている不機嫌なスーダン人のドア係りが癇癪を起こしてスイッチを切ってしまったのだ。このうねうねと波打つ人の海に秩序らしいものはまったくみられず、おばが一度に一人以上の嘆願者を招じ入れようとはしなかったので、非常に長いこの一日が経過していくうちにも群集の嵩はいっこうに減らず、彼らの切羽詰った様子にも何の変化もないようだった。

ようやく彼女の客間にたどりついたわたしが見たものは、おばがまっすぐな背もたれのついた椅子に穏やかな様子ですわり、机もなければ証明書類のたぐいもおかずに、中年の女の訴えにただただ耳を傾けているところだった。涙の縞がはり付いた女の顔が貧困と病弱の悲惨な物語をほのめかしていた。彼女の話はおばの使命感と決意を奮い立たせたようだった。「その薬は止めなさいって言ったでしょう」とおばは苛立たしげに言った。「あんたを眠くするだけなんだから。わたしの言う通りにするなら、教会から五ポンド余計にもらってあげましょう。その代わり、その薬を止めて、本格的に洗濯の内職を始めると約束するのよ」。女はこれに抗議しようとしたが、おばにぴしゃりとさえぎられた。「今日はこれでおしまい。家へ帰ったら忘れずにご主人に今週もう一度ハッダード先生に診てもらうように言ってね。先生の出す処方箋の支払いはわたしが面倒をみます。でも、ご主人を 先生のところへ行かせるのはあなたの責任よ」。さよならの合図で女が退出させられると、次の嘆願者が二人の子供を連れて入ってきた。

わたしは黙ってそこに座ったまま、この延々と続く哀れな行進を二時間ほど眺めていた。おばさんは時々水を求めて台所へ行ったが、それ以外はずっと椅子に座りっきりで、次から次へと持ちこまれる絶望的な訴えを順次冷静に処理していった──資金を分け与え、医療が受けられるように手配し、役所の手続きに関する助言を与え、極貧のなかで自分の状況を見失っている浮浪児たちに就学の機会を与えようと、そのような子供たちの受け入れに理解を示してくれる学校をみつけてきて世話し、女たちには女中や事務所の手伝いの仕事、男たちには荷物運びや使い走りや夜警や工場労働者などの仕事を紹介した。その当時わたしは十三歳半だったが、具体的な内容や嘆願者の顔、彼らの痛ましい訴え、おばさんの実務的な口調などを何十となく今もはっきり覚えている。しかし、こうした哀れむべき光景をもたらした直接の原因となったものが政治力学と戦争であり、それはまたおばやわたしの家族にも影響を与えていたのだということを明確に意識したという記憶はない。わたしにはこれがはじめての、パレスチナ人としての自覚に伴う苦しみを鎮めようとする経験だった。その自覚は、おばを介在として、 不幸で無力なパレスチナ難民が置かれている援助と配慮と資金と義憤を要求する状況を目の当たりにして触発されたものであった。

当時わたしが抱いていた全般的な印象は、医学的な緊急事態が起こっているというものだった。公的機関や役所のはっきりした後ろ盾も持たずに、おばが自分から進んで世話を引き受けた人々に接する態度は、まさにヒポクラテスの精神にのっとったものであった。彼女は、病める人々を助けようという道徳的な使命感と自己抑制だけを頼りに一人きりで患者にあたる医者のようなものだった。そしてまた、パレスチナ難民のあまりにも多くのものが、国を失うとともに心身の健康も失ってしまったようであった。パレスチナ難民にとってエジプトという新しい生活環境は彼らを育んでくれるどころか一段と消耗させるものであった。エジプトでは革命前の政権も革命後の政権もいずれもパレスチナを支持することを宣言し、宿敵シオニストの根絶を誓っていたにもかかわらずである。ラジオの放送や、アラビア語やフランス語や英語で書かれた挑戦的な新聞の見出しが、ほとんど耳を貸そうとしない国民に向かってこのような政府の立場を熱心に訴えていたのを今も鮮明に思いだす。だが、あの頃のわたしにより強く訴えかけたのは、健康を損ない進むべき道を失ってしまった人々の、具体的な、生身で体験さ れた不幸のほうであった。このような不幸を癒すことができるのは、個人的な献身と、小柄な中年の女性が自分の意思や確信を揺るがせることなくあらゆる困難を乗り越えて進むことを可能にした、一種の思考の独立だけであった。彼女がどのような政治思想を抱いていたにせよ、それがわたしの前で口に出されることはなかった。そういうことは当時必要とは思われなかった。もっと肝心だったのは、剥き出しの、野蛮なまでのパレスチナ人の苦しみだった。くる日もくる日も朝に夕にこの問題に対処することを彼女は自分の使命としていた。彼女は決して他人に説教することも他人を自分の信念に引き込もうとすることもなく、ただひたすら自分の信条に従って孤軍奮闘の戦いを続けていた。おばが支援活動を始めてから三、四年ほどたった頃、素性のよくわからない一人の若い男が秘書として雇われたことがあったが、彼はじきに暇を出され、彼女はまた一人にもどった。おばについていける者など一人もいないかのようだった。
< 『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright 2001 Misuzu>

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