ファリード・ハッダード

遠い場所の記憶



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彼女の医療活動におけるパートナーだったのはワーディー・バーズ・ハッダード医師で、彼はまたうちのホームドクターでもあった。ハッダード医師は小柄だが頑丈な体つきの銀髪の男で、エルサレム出身だったがベイルートで医者の資格を取ってからはずっとカイロに住み、最貧困地区の一つであるシュブラーで開業していた。一九四八年の夏に彼が亡くなると、息子のファリードが即座に彼の後を引き継いだ。おばはまた、道を挟んだ向かいで薬局を経営していたワーディーの弟カミールも頼りにしていた。彼は、彼女の世話するパレスチナ難民のために大量の医薬品をまったくのただ、あるいはただ同然で供給することができるらしかった。ワーディー医師はこの時代の歴史において言及されることはないが、実際にはその真心に根ざした、しかし世に知られることのなかった慈悲深い使命感と、母やおばが褒め称えた診断医としての優れた才能を通じて、カイロの貧民救済のために驚異的な役割を果たした人物であった。彼は英国聖公会宣教協会病院と提携しており、彼を通じておばは患者を無料に近い形でこの病院に回すことができたようだ。彼の 仕事の運び方は非常に実際的で、いつもポケットに入れて持ち歩いていた折畳式のアルコールランプを広げ、小さな金属の箱をその上にかけてスチール針とガラスの皮下注射器を煮沸消毒する姿をわたしは今も覚えている。うちで病人が出たときは、彼はいつでも往診してくれ、いつも非常にてきぱきと薬を処方し注意を与えると、勧められたコーヒーやレモネードを一啜りする余裕も無く大急ぎで暇を告げ、父によればいつも診療の報酬の請求書を渡すのを拒んで、あるいは「忘れて」帰っていくのであった。

ハッダード先生はあちこち歩き回り、いたるところに出没する人だった。彼を電話で捕まえるのはむつかしかったが、ナビーハおばさんの場合と同じように、週に二日か三日は午後に在宅していることが知られており、自宅と診療所は基本的に同じだったので、そんな日には何十人もの人々が(貧しいエジプト人ばかりである)予約もなしに彼の家の前につめかけ診断の順番を待っているのであった。無口な方だった彼は決して世間話をすることがなく、それが必要になるほど長い間ひつとのところに長居することもなかった。彼の妻のアイダはスウェーデン人とドイツ人の間に生まれたひょろひょろに痩せた女性で、いまで言うジーザスフリーク(熱狂的キリスト教支持者)の原型のような人物だった。彼女は貧しい人々が主体の夫の患者たちが中に入れてもらえるのをじっと待っているのをよいことに、彼らに対してマリアやヨゼフやその小さな息子のことについて話しかけるのであった。フリーダ・クルバンは土地の女子校の寮母で、皆に「おばさん」あるいは「ミス・フリーダ」として親しまれていたレバノン人の年配の女性で、ハッダード夫人をよく知っており、このおろかなスウェーデン女が貧しい シュブラー地区の住民たち(すべてムスリム)を改宗させようとする試みについて疲れを知らずにうわさしつづけた。ハッダード夫人は表通りを行く人々をだれかれかまわず自宅の居間に連れ込んで、すべての明かりを消し、スライドショーを見せながら、聖家族や救済やキリスト教的な美徳などについて次から次へとだらだらした単調な説教を彼らに聞かせた。そうするうちに、退屈しきって困惑した訪問者たちはこの年配の外国人が自分たちのことなどまったく眼中においていないことに気がついて、めいめいが持ち出しのきく家具(壷や敷物や箱など)をくすねてハッダード医師の質素な居間から退出していった。一時間ほどのうちに部屋はまる裸にされてしまったが、善良なドクターは回診に出ており、妻は霊感を授かったかのような説教を延々と垂れ流し続けているのであった。
一九四八年の夏の終わり頃、父のもとにこの親切な医者の死を伝える電報が入ったのは、わたしたちが初めて合衆国を旅している途中だった。電文には、彼を埋葬する費用を用立てて欲しい旨したためてあった。彼は家族のものを無一文にしたまま亡くなったのである。アイダはもちろんまったくの甲斐性なしであったし、長男のファリードは共産主義者であるという理由でそのときは獄中にあった。逮捕されたとき彼は医学部を卒業したばかりであり、数ヶ月後には釈放された。自由を得るや否や、彼はナビーハおばさんの医療方面の活動を支える頼もしい副官となった。父親がそうであったように、ファリードもまったく気取りのない献身的な生き方をしており、金や出世のことなど微塵も気にかけることはなかった。だが父親とは異なり彼は心底から政治的な人間で、そのことは一九五九年後半に獄中で死亡するまで一貫していた。彼とわたしのおばの相性は完璧だった。彼女はパレスチナ人たちのことを彼に話し、彼はその人たちに無料で治療を施した。彼らの悲しみを日々目の当たりにしても彼は動揺した様子はなく、むしろ一層の強さを獲得したかのようだった。四十年の後、わたしは彼の共産党の 友人でさえも彼のことを聖人とみなしていたことを知った。その並々ならぬ献身ぶりもさることながら、彼の無尽蔵ともいえる気立ての良さによるものであった。

一九五〇年代の半ば、学部生としての最後の年にわたしはちょくちょくファリードに会った(彼もわたしと同様、英国系植民地学校の卒業生だった)。しかし彼は自分の政治思想や医療以外の活動について話すことをますます控えるようになっており、少なくとも十年ぐらいにわたってパレスチナがわたしたちの会話に登場することはまったくなかった。彼はたぶんわたしより十二歳から十五歳ほど年上だったと思われ、若いときに結婚したアーダーという妻とのあいだに二人の(三人だったかもしれない)息子をもうけていた。彼は家庭と救援活動をうまく分離しており、家族の住むヘリオポリスでは中流階級の患者向けの診療所を開業し、その一方でシュブラーの古い診療所や聖公会宣教協会病院では慈善運動を行うというぐあいだった。プリンストン大学に入学したばかりの頃の十八歳ぐらいのわたしの風貌は、クルーカットのアメリカ人大学生と、貧しいパレスチナ人に関心のある上層ブルジョワ階級の植民地アラブ人という珍妙な組み合わせであったが、そのわたしに仕事や政治活動の「意味」を問われて彼が感じのよい微笑みを浮かべたことを思い出す。「それについて話すには、お茶でも飲みながら ゆっくり腰を据えないとね」とドアに向かって歩きながら彼は言った。結局わたしたちがうちとけた場をつくることはついになかったが、わたしは徐々にアラブの歴史や政治についての知識を深めるにつれ、彼の身に起こったことをナーセル時代初期の社会不安の増大やナショナリズムの高揚による騒擾という社会情勢に結び付け、彼をその犠牲者であるという位置づけで見るようになった。彼は活動家であり、信念の固い共産党員であり、父の代からの仕事を引き継いだ医者であり、社会的および民族的な大義(それについては彼もわたしも議論することはおろか、自分たちが生まれた場所であるということを除いては、その名を口にすることさえできなかった)のために身をささげたパルチザンであった。

わたしはまったく気づいていなかったが、一九五八年当時の彼は、次第に強まる自分の家族やわたしの家族からの党活動から身を引くようにという圧力と、それと同じように強まっていく、個人的な事情はどうあれ政治信念のために一段の献身を要求する党の方からの圧力の板ばさみになっていた。大学院生となったわたしがカイロを離れていた一九五九年の暮れも押し迫ったある日、彼は国家保安当局によってヘリオポリスのアパートから尋問のために召喚された。二週間後、ヘリオポリスの英国国教会派教会で週一度のアラビア語による礼拝が行われている最中に、彼の妻のアーダーが──髪を振り乱し、服をまとうのもそこそこに──叫び声をあげて駆け込んできた。「家に人が来て、ファリードを引き取りに近くの警察署までくるようにとわたしに言ったの。釈放されるものとばかり思ってそこへ行ってみると、机にすわっている男に、三人か四人の男を連れて出直してくるように指図されたの。わけを尋ねると、ファリードの棺おけを運ぶのに男手が必要だって…」──そこから先は、取り乱して言葉にならなかった。彼女は出席者の一人が付き添って家へ送り届け、従兄弟のユースフが三人の仲間と ともに車で警察署に出向いた。彼らはそこからアッバーシーヤにある荒れ果てた墓地に誘導され、そこで一人の士官がワイシャツ姿の二人の兵士を従え、大きく掘った地面とその一方の淵に置かれた剥き出しの木製の箱を見張っているのに出会った。「おまえたちが棺を地面に下ろすことは許可するが、その前に誰か一人の受け取りのサインが必要だ。棺を開けてはならないし、質問も一切許されない」。ファリードの友人のパレスチナ人が何が何やらわからぬまま悲しみのうちに命ぜられるままのことを実行すると、兵士たちが素早くその穴の上に土をかぶせた。「それでは、これで立ち去るように」と士官はすげなく告げ、彼らには友人の棺を開くことが許されないということを再度はっきりと念を押した。

ファリードの生き方と死にざまは、四十年近くにわたってわたしの人生における隠れた行動指針の一つであった──もっとも、その期間のすべてが問題の自覚と積極的な政治闘争に捧げられたわけではなかったが。わたしは合衆国に住んでおり、ファリードと多少なりと接触があったかも知れない社会的あるいは政治的サークルからはまったく隔絶されていたので、彼が逮捕された後に何が起こったのかを正確に知るためには何年もかかるだろうと覚悟していた。一九七三年、わたしがパリに滞在中に、あるパレスチナ人の代議士から紹介された二人の当時のエジプト人共産党員が語ったところでは、ファリードは獄中で殴り殺されたということであった。しかし、彼らは実際にその現場を目撃したわけではなく、「確かな筋」からの情報(あの頃の愚劣な第三世界に特有の気取り、秘密主義、こっそりと示された自惚れなどを彷彿とさせる語句だ)だというだけだった。二十年後、カイロでこのメモワールの仕事に手を染めだしていたとき、友人のモナー・アニースに紹介されて年配のコプト教徒アブー・セイフと妻の「アリスおばさん」に会った。彼らはファリードとは個人的に親しくしていたということで あったが、滞在するうちにやがて判明してきたのはアブー・セイフが実は共産党組織の中でファリードの直接の上官にあたる人物だったということだった。モナーとわたしはこの年配の夫婦をたずねていった。退職して、もう人に思い出されるべきではないとでもいうかのように、この夫婦はナイル川をブーラークから上ったところにあるルーマニア様式の巨大な団地の中の憂鬱な雰囲気のアパートの一階で、島流しにされたようにようにひっそりと暮らしていた。家具は念入りに並べられ、アリスおばさんはお茶とお菓子を出してくれたが、それは暗くてわびしく蒸し暑い場所だった。

わたしは彼らに、ファリードの妻と息子たちがオーストラリアに移民した後の住所を知っているかどうか、彼らは古い友人たちとは連絡をとっているのかどうかと尋ねた。二人とも口を揃えて否と、あたかもファリードの死によって一つの幕が下ろされたとでも言うように哀しげな様子で答えた。アリスは大切に保管されていた若い夫婦の結婚式の写真を取り出してきた。ファリードは端正なスーツで着飾り、小太りの可愛いアーダーは白いタフタのドレスを着ていた。それを囲んで、わたしたちが一緒に、この二人が一度は楽しんだに違いない束の間の甘い結婚生活について思いを馳せることができるかも知れないという配慮からだった。後に、わたしはこの写真をもらい受けることになった。おそらく何年ものあいだ闇に葬り去られてきた主張に対してわたしが関心を持ちつづけてきたという事実に感謝の気持ちを表すためだったのだろう。「彼はまっすぐ刑務所に連れてこられ──そう聞きました──そこで服を剥ぎ取られました。わたしたちは皆そうされたのです。看守たちが輪になって取り囲み、わたしたちを警棒や杖でなぐりました。みながこれを歓迎のあいさつだと呼んでいました。ファリードは ひどく痛めつけられ失神寸前でひどく震えているように見えましたが、それにもかかわらずそのまま尋問部屋に連れて行かれました。彼はロシア人の医者なのかと質問され──わたしたちは皆左翼思想の持ち主でさまざまな共産主義系のグループに属していましたから──「いいや、わたしはアラブ人の医者だ」と答えました。係官は悪態をついて、ファリードの頭を十秒ほど殴りつけました。それで終わりでした。ファリードは死んで、ぐるりと反り返りました」。

アブー・セイフの家を辞した後になって初めて、わたしは彼らがファリードの父がパレスチナ人だということを知っていたのかどうか聞けばよかったと思いついた。しかし、もうそれには遅すぎた。彼らにとってファリードは主として同士であり、(彼らと同様に)少数派のキリスト教徒であったのだろうと推測される。たぶん、彼らはファリードのことをシャーミーと思っていたのだろう。また、エジプトの共産主義運動には相当に多数のユダヤ系の分子が入っていたことを考えると、ファリードが亀裂のもとになりかねない自分の素性を強調することはあまりなかっただろうとも想像される。ファリードの存命中にわたしが彼とパレスチナ問題について話し合うことができなかったことも、わたしが若かった頃にはこれを政治的な問題として取り上げることに抑圧があったことを物語っている。
< 『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright 2001 Misuzu>
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