ハリール・ベイダス




遠い場所の記憶
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幼い頃のエルサレムの思い出には一人のとても面白い人物が登場する。かなり後になるまで彼が本当は何者なのかほとんど知らなかったが、それでもこの人物には強くひきつけられた。父のタウラーやブリッジに対する飽くことを知らぬ欲求をしばしば満たしてくれたのが、この大きな口ひげを生やした年配の男だった。彼はいつも黒っぽいスーツを着てトルコ帽をかぶり、象牙のキセルでタバコをひっきりなしに吸い、少し心配になるくらいしょっちゅう咳き込み、頭上に渦巻いている煙を吹き飛ばすのであった。父の従兄弟にあたるこの男はハリール・ベイダスといい、聖ジョージ学園のアラビア語の教師だった。だがわたしは彼を学校で見かけたことはなく、四十年も経ってから従兄弟のユースフからベイダスにアラビア語を教えてもらったことを聞いてはじめてそれが彼の職業であったことを知ったのであった。この他にベイダスについて後から発見した事実としては、彼の息子がかつてパレスチナ・エデュケーショナル・カンパニーで働き父にもっとも重宝がられたユースフ・ベイダスという人物であるということだった。この息子はその後アラブ 銀行にしばらく勤めた後、難民としてベイルートに移り住み、ほんの十年ほどの間にレバノン財界でも屈指の大物にのし上がっていた。彼はオーナーとなったイントラ銀行を通じて航空会社や造船所や商業施設(ロックフェラーセンター内のビルを含む)など数知れぬ事業に投資し、一九九六年に同銀行の倒産によって破産するまで、レバノンの財界で巨大な影響力を行使した。それから数年のうちに彼は癌をわずらって貧困のうちにルツェルンで亡くなったが、その最後を見取ったのはそのしばらく前にスイスに引っ越していたおばのナビーハだった。ベイダスのあっけに取られるような成功と没落の物語に、七十年代に起こったレバノン人とパレスチナ人の間の悲惨な紛争の予兆を見る向きもあるが、わたしにはそれが一九四八年の事件以来わたしたちの多くが背負わされてきた壊れた人生の軌跡という運命を象徴しているように思われてならない。

しかし、ハリール・ベイダスが単なるアラビア語の教師などではなかったことが判明したのは。もっとずっと後になってからのことだった。彼は最初、エルサレムのロシア・コロニー学校(モスコヴィーアと呼ばれるこの施設は、現在ではイスラエル政府の尋問拘留所となっており、そこに収容されているのは主にパレスチナ人である)で教育を受け、その後ロシア本国のロシア正教会の後見で同国に留学した。今世紀の初頭にパレスチナに戻ってからは、彼はナザレのモスコヴィーア(現在はイスラエル政府のこの都市における警察署になっている)で催されていた文学のセミナーに参加するようになった。ドストエフスキーからベルジャーエフにいたる一九世紀ロシアのキリスト教徒系文化ナショナリストの思想を詰め込んできた彼は、やがてエルサレムに戻り、小説家として、また文芸批評家として世に認められ、賞賛も受けるようになった。二十年代と三十年代には、パレスチナ人の民族的独自性の構築、とりわけ新たに移民してきたシオニストたちとの遭遇に際してのそのような動きに、彼は大きく貢献した。当時のわたしがベイダスの本当の偉大さにまったく気づくことなく、タバコによる咳に苦し められている一風変わった老人だというぐらいの認識しかなかったことは、少年時代のわたしがいかに過保護にされ政治的な状況に無知であったかを示している。父とブリッジに興じているときなどは陽気で楽しい人物だったが、そうした面影はすべて祖国喪失の体験とともに失われたことを数年後にわたしは発見した。彼は子供たちのように難民の憂き目に遭うことはなかったのだが。

現在のわたしを打ちのめすのは、わたしの家族や友人たちを襲った故郷喪失による混乱がいかに大規模なものであったかということ、それにもかかわらず一九四八年当時のわたしがそれにほとんど気づいておらず、それを目の当たりにしながらもいったい何が起こっているのか基本的には理解していなかったという事実である。カイロに戻った十二歳半の少年のわたしは、以前パレスチナで会ったときには中流の暮らしをしていた普通の人々が、生活苦にあえぎ悲しみに打ちひしがれているところにしばしば遭遇した。しかし、わたしは彼らの身に降りかかった悲劇を本当に理解することも、彼らがそれぞれに語る断片的な個別体験をつなぎ合わせてパレスチナで起こったことの全体像を把握することもできなかった。ユースフの双子の片割れである従姉のイヴリンは、カイロのわが家で夕食を伴にした際、カウークージに対して彼女が寄せている絶大の信頼を熱っぽく語ったことがある。しかし、この名前を始めて聞いたわたしにはあまりぴんとこなかった。「カウークージの解放軍がやつらを叩き出してくれるのよ」と彼女は断定的な口調で述べたが、わたしに説明を求められた父は、やや懐疑的な調子で、 侮蔑感さえ匂わせて、この人物は「アラブの将軍」であると教えてくれた。ナビーハおばさんは、デイル・ヤーシン事件のような恐ろしい出来事について語るとき、しばしば悲しみと憤りに声を荒立てた──「女の子たちが裸でトラックの荷台に詰め込まれて、やつらの陣営へ連れて行かれたんだよ」。おばさんの憤りは、何の罪もない一般市民をまきこんだ冷酷無情な恐ろしい虐殺の恐怖ばかりではなく、男の視線にさらされた女たちの屈辱も表現していたのだとわたしは受けとめた。その視線が誰のものだったのか、当時のわたしは考えてもみず、またその能力もなかった。

その後も、カイロにおいて、わたしたちの大家族的な絆は一定の儀礼と慣習を守ることによって従来どおりに維持された。しかしそこには断層が走っており、以前にはなかったような小さな矛盾や逸脱が生じていることにわたしは感づいていた。わたしたちはみなパレスチナをあきらめてしまい、そこは二度と帰還することのない場所、めったに口に出されず、黙って感傷的に偲ばれるだけのものになってしまったようだった。エルサレム時代には家父長的な権威をふるい羽振りのよかった父の従兄弟サビール・シャンマースが、カイロに来てからはめっきり老け込んで弱々しくなったことに気づくには当時のわたしの年頃でも充分だった。彼はいつも同じ背広に緑色のシャツを着て、曲がった杖に鈍重な巨躯を預けて、ゆっくりと苦しげに椅子に身を沈め、そのまま無言で座りつづけるのだった。シャンマースにはアリスとティナという二人の若くて魅力的な未婚の娘がいたが、一人はスエズ運河地帯で、もう一人はカイロで秘書として働いていた。彼の二人の息子は騒々しくて喧嘩っ早く、わたしは彼らが好きだったが、新しい環境での不安定さからしょっちゅうエジプト人や英国人やギリシャ人やユダヤ人 やアルメニア人などにあたりちらすのだった。母親のオルガは愚痴ばかりこぼすようになり、甲高い声をキンキンふるわせ、もろもろの勘定を支払い、満足な住居を見つけ、仕事を探すことがいかに難しいかを訴えた。わたしたちが彼らを訪問したへリオポリスの薄汚いアパートは、壁が剥げ落ち、かなり高層なのにエレベーターもなかった。がらんとした空っぽの部屋と、そこに漂う見捨てられたような雰囲気に不安な気持ちにさせられたことを思い出す。

わたしの母は、いったいこの人たちに何が起こったのかを口にすることはなかった。わたしは父にそれを尋ねることもしなかった。その質問をするために必要な語彙がわたしにはなかった。ただ何か徹底的に間違ったことが起こっているらしいということぐらいは察せられた。一度だけ、父はいかにも彼らしい大雑把な言い方でパレスチナ人一般の置かれている状況について説明したことがある。彼はサビールやその家族について「彼らはすべてを失ったのだ」と言い、ちょっと間を置いてから「わたしたちも、すべてを失った」と付け加えた。父の事業は順調で、家の様子もカイロでのわたしたちの暮らしも前とちっとも変わっていないように思えたので、すべてを失ったとはどういう意味なのかとわたしが困惑を示すと、父は一言「パレスチナ」とだけ言った。彼があの土地にあまり愛着を抱いてはいなかったのは事実だが、それにしても過去に対するこの妙に素っ気なく手短な認知と、同様にあっけない埋葬は、いかにも彼らしいやり方だった。「過ぎたことは過ぎてしまったことであり、取り返しはつかない。賢い者はいま現在とこれからのことに目を向ける」という文句が彼の口癖で、その直後に「ベ ーコンいわく」と出典を言い添え、あたかもその権威を借りて議論したくない話題を封印するとでもいうように話を締めくくるのだった。過去に対しては、たとえその影響が現在まで尾を引いていようともストイックなまでに決然と背を向ける彼の態度は、常にわたしを感服させた。父は声をあげて嘆いたためしがなく、極限の状態ではさすがの彼とて感じたであろう感情の昂ぶりを決して表に出すことはしなかった。彼の兄アスアドがヤーファで亡くなったとき父が泣いたかどうかを知りたくて、わたしは母に懇願せんばかりに尋ねたことがある。「いいえ」母は無情な答えを返した「父さんは黒めがねをかけていたけれど、ひどく紅潮しているのがわかったわ。でも、泣いてはいなかった」。涙もろいのが自分の欠点のひとつだったので、わたしはこれを父のうらやむべき強さの証と受けとめた。
< 『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright 2001 Misuzu>

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