ヴィクトリア・カレッジ

遠い場所の記憶




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(第八章)
一九四九年の秋、ヴィクトリア・カレッジに入学したわたしは、じきに十四歳になろうとしていた。当時は知る由もなかったが、カイロでのわたしの生活も最後の二年目にさしかかっていた。この学校で初めて、わたしはラストネームの「サイード」だけで通るようになった(エドワードの方は伏せられるか、さもなければ「E」と省略された)。ただのサイードとしてわたしが踏み込んだのは、ザキー、サラーマ、ムタヴェリアン、シャロームなど錯綜した起源を持つ多彩なラストネームで構成される、雑種混成の世界だった。これらのラストネームの前には各人のファーストネームが頭文字だけになって、C・サラーマとかA・サラーマというように、無意味とはいわぬまでも前後の脈絡もなく、ただぽんと添えられていた。二つのイニシャルを持つA・A・ザキーの場合などは、わざと順序を逆さにしてザキー・A・A (対空射撃Ack-Ackの略)と呼ばれ絶好のからかいの種にされたものだった。

学校が始まる前、わたしは医者になろうかと思っていると母に打ち明けた。お前の門出祝いに病院を買ってやることになれば父さんもわたしも喜しい、と母は応えて言った。そのプレゼントはカイロで購入されるものとわたしたちのどちらもが理解していたが、長期的な視野に立てば、予想される「将来」においてカイロがわたしたちの本拠地であり続けることなどありえないということも、同時にまたわたしたちにはわかっていた。当時カイロでは、美人妻を持つ大物名士たちを主な標的とした不可解な暗殺事件や誘拐事件が頻発していた。その背景にあったのは、肥満した好色な国王のたびかさなる夜の乱行と長期におよぶ欧州での休暇によってもたらされた国の乱れであった。それと並んで国を蝕んでいたのは、一九四八年のパレスチナ戦争における体たらくに対する国民の憤怒だった。不完全な装備と無能な将軍たちのもとでエジプト軍は手強い敵を前に雪崩をうって敗走し、まだ足元もおぼつかず完全独立さえ果たせていない新生国家エジプトを新たな窮地に追い込んだのである。ムスリム同胞団の急速な台頭は、わたしたちのようにエジプト人でもムスリムでもないアラブ人にとってはさらなる不安 の種であった。英国軍が撤退した先のスエズ運河地帯では現地ゲリラとの衝突が繰り返され、フェダーイーンfedayin[戦士]と呼ばれるゲリラたちが外国勢力と戦う英雄としてもてはやされた。これにより英国人の医師、看護婦、教師、役人などとわたしたちとのカイロにおける関係は、それまでにもましてギクシャクしたものになった。

このことはヴィクトリア・カレッジに足を踏み入れたとたんに実感された。そこは、中東におけるイートン校となるべく位置付けられていると、後に地理のヒル先生が説明してくれたような場所であった。アラビア語とフランス語の教師を除き、教師陣はすべてイギリス人であった。ただゲジーラ初等学校とは違なり、ここにはイギリス人の生徒はひとりもいなかった。学校はシュブラー地区にあり、ハッダード医師の診療所からもそう遠くない旧イタリアン・スクールの跡地に仮居していた。シュブラーはカイロで最も人口の密集した半スラム地区であり、わたしは父の車で送ってもらうことになった。入学の初日、正面玄関にわたしを一人降ろし、「しっかりおやり」といつもの励ましの言葉を残して父は運転手とともに走り去っていった。わたしは(ゲジーラ初等学校に続き)生涯で二度目の制服を纏うことになった。ヴィクトリア・カレッジの生徒であることを宣言する学童用ブレザー、灰色のズボン、青と銀の縞タイに帽子という(アビエリーノで購入した)一式に身を包みながらも、八時半の始業ベルまであと五分というあわただしい廊下の喧騒に少しずつ近づいていくにつれ、わたしには孤立感と 覚束なさがこみ上げてきた。ミドル・ファイブの教室はどこかとを尋ねようとわたしがおそるおそる覗き込んだ部屋は校長室だった。たまたまそこにいた親切な用務員(farrashファッラーシュ)が、廊下をさらに下った先の、生徒がうようよと群れている校庭の方をわたしに指し示してくれた。その一方の角に二部屋だけの小さな建物があった。「あれがそうだ。ミドル・ファイブ・ワン(一組)は左側だ」と用務員は言った。サッカーの試合、そこかしこに繰り広げられる取っ組み合い、ビー玉遊びに熱中する一団、ケタケタと哄笑する年長生の小グループなど校庭に展開する様々な集団の間を縫うようにしてためらいがちに進みながら、わたしは自分ひとりが新参者で異質であるように思われるこの場所に底無しの疎外感を覚えて大きく動揺した。

目的の教室に着いてみると、そこには小柄な少年がひとり机に向かって何やらせっせと書きつけていた。その傍らには分厚い参考図書が一冊置かれていた。また、二人の少年が並んで座り、静かに本を読んでいた。さらに別の三人が、互いの宿題をくらべあっていた。書きものに余念のない少年(彼はシュクリーというラストネームを告げて自己紹介をした)に、何を書いているのかとわたしはおずおずとたずねた。「行を書き貯めているんだよ」と彼はそっけなく答えた。それはどういうことかとさらに尋ねると、返って来た答えは、ここでの通常の罰則は電話帳や辞書や百科事典など殊さらに退屈な書物からおよそ五百行から千行ほどを抜粋して清書することなので、今のうちに一部を書き貯めておいて後々の負担を軽くするのだ、というものであった。どうやらこの学校は、これまでにわたしが経験したことのないような厳しい試練の場であるらしく、プレッシャーは大きく、教師は厳格で生徒は鋭敏で競争心が強く、挑戦や懲罰やいじめや危険がいたるところに充満しているようだった。とりわけ強く感じられたのは、自分の家庭や家族が用意してくれたものには、このような状況に対処する術などまっ たく見つからないということだった。本当に自分だけが頼りだったが、わたしにとっては未知で不慣れなその感覚も、威圧的な大組織(これまで通ったどの学校より十倍きい)にとっては取るに足らぬような微細な動きのなかに埋没しようとしていた。

アッパー・スクール(上級学年)は各学年とも二つに分けられ、聡明で勤勉な生徒たちは一組へ、やや成績の劣る者たちはダーウィン説による落伍者として二組へ振り分けられていた。このクラス分けによって、ロウアー・シックスの生徒たちはオックスフォード・スクール・サーティフィケートやケンブリッジ・スクール・サーティフィケート(高等学校卒業証書)の取得をめざし、選りすぐりのアッパー・シックスの生徒たちはA-レベル(上級レベル)試験を経て大学進学を目指すことになる。この生徒たちはみな花形スポーツマン、監督生、完全無欠の天才のようにわたしの目には映った。一般の生徒たちは普段から彼らを「キャプテン」と呼んでいたが、彼らのブレザーと帽子に付け加えられた銀色の玉縁飾りが、この肩書きにいっそうの真実味を添えていた。二人の首席生徒、キャプテン・ディディ・バッサーノとキャプテン・マイケル・シャルフーブは、はじめのうちこそ途方もなく遠い存在だったが、時が経つにつれシャルフーブの方は不快な存在として馴染みになった。彼はスマートな才気で名高く、下級生に対する高圧的なあしらいも同様にスマートで創意に富んでいた。

総勢一〇〇〇人にも達するヴィクトリア・カレッジの生徒たちをまとめていくため、学校当局は生徒全員をいくつかのハウスに分け、このハウスを通して帝国主義思想の植え付けを徹底しようと図った。わたしの所属はキッチナー・ハウスで、この他にクローマー、フロービシャー、ドレークなどのハウスがあった。それでもカイロのヴィクトリア・カレッジは全体としてアレクサンドリアにある本校ほど豪奢な学校ではなかった。地中海に面した夏の中心都に所在する本校は三十年の歴史を持ち、絢爛豪華な生徒名簿(ヨルダンのフセイン国王など)や堂々たる教師陣を誇り、すばらしい建物と運動場を備えていた。これに比べると、わたしたちのシュブラー・キャンパスは一時的な仮り住まいで、もとはといえば戦争中、寄宿制を原則とするアレクサンドリア本校で受け入れきれなかった生徒たちを収容するため貸与されたものだった。生徒の大半はカイロ市内からの通学生で、アレクサンドリア校の生徒に比べるとやや上流度が低く、洗練の度合いも劣っていたようだ。教室や集会所は薄暗く狭苦しかった。戸外設備は四面テニスコートや複数のサッカー場など見たこともないような贅沢さだったものの、 校舎全体には永遠の砂埃が居座っているかのようだった。

第一日目の授業が始まるのを待って所在なく立っているわたしの目前で、がやがやと話し続ける少年たちが教室の席を徐々に満たしていった。各人が書物や鉛筆や習字帖のぎっしり詰まった巨大な手提げかばんを抱えていた。この二十五人のクラスメートをつむぎ合わせている趣味と交友関係の網目は非常に濃密なようで、あとから一人だけ入ってきたわたしは当分よそ者のままだろうと思われた。だが意外にも、第一日目が終わる頃にはわたしはけっこうその場に溶け込んでいたのである。学級担任のキース・ガトリーはでっぷり太った白髪の男で、巨大な傷跡が顔面全体を斜めに横切っていた。ガトリーも他の英国人職員と同様オックスフォード大学かケンブリッジ大学の出身者で、戦争でエジプトに送られたまま帰りそびれたか、戦後の本国の就職難でエジプトに流れてきたかのいずれかだった。職員のほとんどは独身者で、生徒たちのうわさでは下劣な肛門性欲者であり、大勢の使用人の中から相手を見つけるには事欠かず、おそらくは年少の生徒たちさえ獲物にして禁断の欲望にふけるとされていた。ガトリーはカワールal-Khawalすなわち「おネエ」と呼ばれており、(品のない噂によれば)彼の恐 ろしい傷跡はポン引きとの痴話喧嘩の結果だそうだった。もちろん、こうした噂に幾分でも真実があったのかどうかは知る術もない。

こうした「背景」のほとんどは、はじめての英語の授業のあいだに明らかになった。その日の教材は『十二夜』だった。「愛の調べ」から連想するのはマスを掻く手のリズミカルな音だけという粗暴な十代の少年たちには、はなはだ不向きな戯曲だった。ガトリーはわたしたちに冒頭シーンの様々なせりふを声を出して読み解釈するよう要求したが、返ってきたのは騒々しい笑いと意味不明のたわごと、イリュリア公のセリフに対応する「古典的」な同義語として口にされた途方もなく卑猥なアラビア語だけだった。第一場に登場する「絶え入るような」とか「入場」とか「減退」などの語句にはことごとく剥き出しに近い卑猥な解釈が施されたが、近眼のガトリーには生徒たちの身振りがほとんど目に入らず、自分が聞いたつもりの内容に対し無気力な容認と曖昧な同意の頷きを与えるばかりだった。

生徒たちの絶え間ない応酬に参加するうち、わずか数時間の間にわたしの中から何年もかけて積み上げた真面目一本の教育が脱落していった。少年たちは残酷で冷淡で独裁的なイギリス人に対抗する「ワッグ」〔wog 有色人種、特にアラブ人を示す卑語〕としての集団連帯意識で結ばれ、それぞれに滑稽でときには障害を持つ教師たちに対抗していた。教師陣の大半は傷痍軍人であると考えられていたが、彼らの痙攣も跛行もひきつった反応もわたしたち生徒側のみじんも同情のない立場から言わせれば「当然の報い」だった。授業も終わり頃になって、ガトリーが突然ぬっと立ちあがった。病的な倦怠から覚めた彼は、窮屈なシャツと汚れただぶだぶズボンから大きな腹をはみ出させ、おしゃべりに熱中している二人の生徒の方によろよろと近寄っていった。のんきな少年たちは、災難の接近に気づきもしなかった。これに続いて展開したシーンは、それまで到底お目にかかったことのないようなものだった。ずんぐりとした巨漢が広い大きな腕を振り回し、ポケットにでも入りそうな二人の少年に襲いかかっていたのである。彼は転倒せぬよう気をつけながら時々殴打を浴びせたが、少年たちは「先生やめて 、ぶたないで」と思いっきり大きな金切り声を挙げながら敏捷に彼の攻撃をすりぬけていた。他の生徒たちは皆、教師の殴打を規則違反の二人から逸らせようと、この事故現場に集まってきた。

ガトリーの授業の後に続いたのは数学だった。一時間にわたってこれをわたしたちに叩きこむのはマーカス・ハインズという教師で、ガトリーが丸太のように鈍重で無気力だとすれば、こちらは針金のように屈強で神経質だった。ハインズはちょっとした才人気取りで、怠惰や杜撰な理屈を許さない毒舌がいかにも鋭敏な頭の切れを際立たせていた。少なくとも代数や幾何学には、わたしたちには「異国」の詩歌についてのガトリーの感傷的な彷徨が欠いている厳密さがあったので、短時間のうちにクラス全体が真剣に学習に取り組み始めた。だが、ハインズの静けさはガトリーの無気力よりも文字どおり「苦痛」であることがやがて判明した。ハインズは厚さ一インチもある板で片面を裏打ちした特製の大型黒板消しを携帯しており、隣とひそひそ話をしているような目障りな生徒がいれば不意に襲いかかり、この硬い武器で頭や肩や手に乱打を浴びせるのだった。代数の公式が呑みこめないことも私語と同等の大罪だった。初めてハインズの授業に出たわたしは、隣のジョルジュ・カルドーシュに三冊の教科書のうちのどれを見ればいいのかと尋ねたが、これがわたしの不運だった。ただちに、ハインズの黒板 消しがミサイルのようにわたしめがけて発射された。後列まで忍び寄ってわたしをぽかぽか殴るよりはたしかに効率のよい方法だった。わたしの犯した罪は比較的軽く、新入りということもあったので、警告的な処罰にとどまったというわけだが、それでも黒板消しはわたしの左目をかすめ、頬に紫色の醜いみみず腫れを残した。ハインズの虐待には誰も反抗しなかったので、わたしは反発をこらえて、ただ痛む頬をさすっていた。このように、わたしたちと彼らの間には明瞭な一線が引かれていた。

イギリス人でもエジプト人でもなく、しかしアラブの一員であるという資格において、わたしは生まれて初めて手に負えない生徒集団の一部となった。わたしたちと彼ら、すなわち生徒と教師の間には、越えがたい溝が横たわっていた。外国から連れてこられたイギリス人職員にとっては、わたしたちはうんざりする仕事の対象であり日々処罰されるべき不良集団であった。

学校案内という表題の小さなパンフレットがわたしたちを即座に「現地人」にした。校則一は、「当校では英語を使用する。他の言語を使用している現場を捉えれば厳罰に処す」と断定的に規定していた。このためアラビア語はわたしたちの避難所となった。犯罪とみなされた言語が、教師たちや彼らの共犯者である監督生たちの世界から逃れ、また年長の生徒たちが階級秩序と支配の実践を通して押し付けるイギリス流儀から逃れる場所を与えてくれたのである。校則一の存在があったればこそ、わたしたちはアラビア語を控えるどころかむしろ多く使うようになったのである。それはきわめて無根拠で勝手な彼らの権力の象徴と当時 (現在はそれ以上に) 思われたものに対する反抗の表明であった。以前に、わたしがカイロ・アメリカン・スクールで隠し通してきたアラビア語を話す能力が、ここでは誇り高い叛乱の意思表示となった。アラビア語を話し、かつ捕まらずにやりおおせること。さらに冒険するならば、授業中にアラビア語を使用し、学問上の質問に答えつつ同時に教師を攻撃するという方法もあった。一部の教師たちは特にこの手にはまりやすく、なかでも標的にされたのが哀れをさそうほど零落した(戦争神経症の犠牲者だったのかも知れない)歴史のモンドレル先生だった。基本的に関心が乏しく理解する気のない生徒たちを前にチューダー家の歴代国王とエリザベス朝の風習についてぼそぼそと事実を列挙する彼はしなびた子鬼gnomeのようであり、その倦怠に時折走る震顫が活気を与えていた。生徒の中には、彼の質問に答えて、まずは物柔らかな調子でアラビア語の悪態("koss omak, sir"コック・ウンマック・サー)をついておいて、その下劣な言葉の本当の意味(「おまえのかあちゃんのXXXX」)とは何の関係もない「適当な」翻訳(「先生、それは別の言い方をすれば…」)を直後に補うという手口を使う者もいた。わたしたちはまた、彼にアーケル・キルマakher kilmaをしかけてからかった。これは彼の話すすべてのセンテンスの最後の言葉をクラス全員で一斉に復唱するという遊びだった。彼が「エリザベスの治世で注目されるのは文化の興隆と探検である」と相変わらずの退屈な文句を述べると、それに続いてクラス全体が「探検である」とこだまのように合唱する。モンドレルはおよそ六回ほどこれを我慢するが、やがてこらえきれずに爆発し憤怒にぶるぶると震えながら怒号を放った。だがそれもわたしたちを面白がらせるばかりで、やんやの喝采を浴びただけだった。学期の中頃までには、彼はわたしたちとの意思の疎通をあきらめ、不機嫌に椅子に腰掛けたまま国王殺しとクロムウェルの革命についてぼそぼそとつぶやくだけになってしまった。

このように教師たちは、彼らの学問的な能力によってではなく、単に弱虫(モンドレルや地理のヒル先生のように)であるか強者(ハインズや時折はガトリーも)であるかによって判断された。アラビア語の授業は上級、中級、初級に分かれ、少人数の現地職員が担当していたが、わたしの見る限り一人を除いてすべて生徒に軽蔑されていた。彼らが学校の中ではっきり二流市民扱いされていたことも一因ではあったが、ファルーク国王への俗悪な愛国的賛辞に代表されるアラビアの詩歌を勉強することなど時間の浪費であるとわたしたちのほとんどが考えていたためでもあったようだ。 わたしの中級アラビア語クラスの教師はタウフィーク・エフェンディと呼ばれていたコプト教徒の紳士だった。彼の片割れで上級クラスを受け持つダブ・エフェンディは、言語の神聖に対する深い傾倒によって仲間内でただ一人、生徒たちから愛情はともかく尊敬は勝ち得ていた。タウフィーク・エフェンディは調子のいいお世辞屋で、副収入をおおいに必要としていた。彼は早くから「個人教授」の対象としてわたしに目をつけていて、いつのまにやら母に取り入り、まんまと週二回わたしの家庭教師として出入りすることに なった。複雑な文法規則をわたしに叩きこもうと五、六回行きあたりばったりの努力を試みた後(おかげでわたしはアラビア文学を疎んじるようになってしまい、再び熱心に親しむようになるまで二十年以上もかかってしまった)、タウフィーク・エフェンディとわたしは二人だけの内密な時間を書物についての談義(勉強するわけではない)に費やするようになった。これにより彼は必要な金を手に入れ、また我が家の召使頭アフマドが丁重に給仕するコーヒーとビスケットにもありつくことができるというわけだった。それが終わると彼は我が家を辞し、同じように無益であったに違いない別のレッスンに出かけていった。アフマドとわたしが常々からかいの種にしたのは、タウフィークの儀礼的な遠慮だった。彼はコーヒーとビスケットを差し出されると決まって辞退を申し出るが──「せっかくですが、わたしはもう友人とグロッピーで午後のコーヒーを済ませてしまいましたから」(グロッピーは繁華街にある流行りのカフェで、タウフィークはその常連を装おうと空しい努力を払っていた)──結局はいつも菓子を受け入れ、いかにも美味そうにズルズル、ムシャムシャと音をたてながら平らげてしま うのだった。

当時は気づかなかったが、ヴィクトリア・カレッジの生活には大きな歪曲が根底に横たわっていた。ここの生徒たちは、もう命脈が尽きてしまっていた(当時はまだ明瞭にならなかったが)イギリス植民地政策に基づいて教育された将来の「植民地人エリート」の構成員となることが期待されていた。わたしたちはイギリスの生活や読み書き、王室や議会、インドやアフリカ、エジプトでは(他の土地でもそうだろうが)絶対に使われることのない慣習や言いまわしを学ばされた。アラブ人らしくあることやアラビア語を話すことはヴィクトリア・カレッジでは違反行為とされたため、わたしたちはみずからの言語や歴史や文化や地理について然るべき教育を施されることはなかった。わたしたちはイギリス人の少年と同じ試験を受けさせられ、曖昧で決して手の届かない目標の後を追いかけながら授業から授業へ学年から学年へとつねに追いまくられ親たちを心配させた。ヴィクトリア・カレッジによって自分の昔の生活との繋がりが不可逆的に断ち切られ、アメリカ人である振りをするという両親の編み出した庇護術がもう通用しなくなったことをわたしは自覚していた。またわたしたち生徒はみな、たとえ彼 らの言語や文化をエジプトでは支配的と認めて学んでいるように見えたとしても、この危険でわたしたちに危害を加えかねない、傷ついた植民地帝国に自分たちは劣位の立場から対抗しようとしていると自覚していた。
没落しつつある植民地権力の化身が、校長のJ・G・E・プライスだった。その名前に林立するイニシャルに象徴されるような教育者気取りと尊大な態度は、それ以来英国人のイメージとしてわたしの中に定着してしまった。彼とわたしの父がどこで知り合ったかは知らないが、たぶんこの繋がりによって彼は最初わたしに愛想がよかったのだろう。黒い口髭を生やした小柄で引き締まった身体をもち、黒いテリア犬を連れて機械的な足取りで運動場を散歩するプライスは、遠い存在だった。教師や監督生や寮監にあまりに多くの権限が委託されていたこともさりながら、彼が健康を害して急速に衰弱していったこともその一因だった。病により何週間も書斎に閉じこも
った後、彼はついに辞職することとなった。

入学してひと月も経った頃には、わたしは仲間を扇動し揉め事を起こす問題児として悪名をはせていた。授業中に勝手にしゃべり、他の叛乱と非行の首謀者たちと結託し、常に皮肉で曖昧な返答を返した。このような態度をとることがイギリス人に対する抵抗の一形態であると考えていた。だが、それとは裏腹に、わたしは落第にからむありとあらゆる不安におののいていた。急に男らしくなりすぎた自分の身体に不安を抱き、性的に抑圧され、露見と落第をなによりも恐れていた。この学校のせわしない日課は並たいていではなかった。授業は八時半に始まり、昼食と運動の時間を挟んだだけで五時半か六時までぶっ通しで続く。それが終わると、今度は長い夕べの宿題が待っている。宿題は学校の書店で購入を義務付けられた小さな分厚いノートで管理され、これに毎日の課題を記録していくのである。九科目(英語、フランス語、アラビア語、数学、歴史、物理、科学、生物)で構成されるカリキュラムはぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。これらすべての締め切りを満たし試験に備えることなど到底できないと、わたしはじきに不安に陥った。

学期中のある日、わたしは昼休みに石を投げているところを捕まって、ねっとりした手の監督生によって懲罰のためにプライスの部屋に連れて行かれた。適当に家具を並べた大きな待合室では、プライスの秘書(ラグナードとしてのみ知られていた頑丈な体躯の現地人)が一つの机の向こうでせっせとタイプを打っていた。監督生が彼に何かささやくと、即刻彼はわたしを隣室に連行し、プライスの馬鹿でかい空のデスクの前に立たせた。「何だねラグナード、この生徒がどうしたというんだ」と病んだ校長は陰鬱に言った。わたしをそこに残してラグナードは机の向こう側にまわりこんで先刻監督生が彼にしたように、プライスの耳に何かをささやいた。「それは聞き捨てならない」とプライスは断言し、わたしに向かって「窓のところへ来なさい」と冷たく言った。「前にかがんで。そう、それでいい。さあいいぞ、ラグナード」わたしの目の片隅にプライスが部下に細長い竹の杖を渡すのが映った。プライスに首を押さえられ、わたしはラグナードが見るからに痛そうな笞を振り上げわたしの尻に熟練した打擲を加えようとするのを見た。

プライスは主の役目を果たすには体が弱りすぎたので、その仕事を代行させるため現地人を雇い入れていたのである。命ぜられたことは何でも淡々とてきぱき片付ける秘書の傍らで、校長は無言で一打ごとに承認の頷きを与えていた。やがてプライスは「今日はこれでお終いだ、サイード」とわたしに告げた。「退出してよろしい。二度と無作法はしないように」というのが彼の最後の言葉だった。校長のわたし室を出たわたしは、すでに先に抜け出して自分の机に戻っていたラグナードの前を通り過ぎたが、彼は何事もなかったかようにタイプ打ちに没頭していた。笞の痛みは酷かった。ラグナードはがっしりした男だが、その彼が本気で情け容赦なく殴ったのだ。その裏には主人の意にかないたいという気持ちもあっただろうが、恐らくまた同時に彼自身(西欧化した東方系ユダヤ人だった)の「アラブ」に屈辱を与えてやりたいという気持ちもあったのだろう(パンを肉汁に浸しているアルメニア人の生徒に向かって、彼が「Ne mange pas comme les Arabsアラブ人みたいな食べ方をするんじゃない」と言うのを聞いたことがある)。猛烈な怒りがこみ上げてくるなか、わたしは「彼ら」を苦しめてやると心に誓った。これからはもう捕まったりはせず、彼らのだれとも決して打ち解けたりせず、彼らがいやでも提供しなければならないものから自分で選んだものだけを身につけてやるのだ。
< 『遠い場所の記憶』(みずず書房)からの抜粋 :Copyright 2001 Misuzu>

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