Noam Chomsky

カナダのドキュメンタリー映画「チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント」が、2007年2月17日から渋谷ユーロスペースで公開されます。 

これは2002年春に東京国立の居酒屋キノキュッヘでミニ上映会をやり、予想を超えた大反響にこちらが驚いた作品です。あれからもう5年、映画が制作されてからはすでに15年が経過しましたが、内容は少しも古びておらず(残念ながら、と言わねばならないのでしょうが)、むしろ日本ではその間の大きな社会や経済の変化によって、いっそう実感が伴ってきたと思います。  

日本での公開を実現してくださったシグロとは、佐藤真監督の映画『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(毎日映画コンクールのドキュメンタリー映画賞を受賞しました)の制作でお付き合いができたこともあり、今回の映画でも新しい字幕の作成に協力させていただきました。字幕も読みやすくなり、画面もクリアなデジタル映像で、この映画のよさがよく伝わるものになっています。じっさい、監督たちはナレーションをいっさい用いず(チョムスキーがおしゃべりですから)、みずからは映像の意図的なトリックを用いて語ろうとしているので、その仕掛けが十分に堪能できるようになりました。  

この映画では、チョムスキーという人物の生き方と思想が時代背景をふまえて描かれていますが、その生き方を描いていくうち必然的に、彼とアメリカのマスメディアとの関係が浮き彫りにされてきます。チョムスキーの発言に「過激」とか「極左」というイメージを抱いている方は多いかもしれませんが、そんなレッテルがつきまとうのはなぜなのか。社会的に発言する知識人のあいだでも別格扱いをされている(チョムスキーに発言させるのなら、「バランス」をとるために反対の立場の人も呼ばなければならない、といったようなメディア側の配慮)のは、いったいなぜなのか。彼のひとつひとつの発言は、思わずひざを打つほど的を射たものだと感じるにもかかわらず、それが「過激」な立場とされていることに、なぜ疑問がわきにくいのか。そのこと自体が、マスメディアのもつイデオロギー操作の端的な一例になっています。  

このことをインディー系の監督がとりあげ、作品として表現したのはすごいことです。ゼロから出発し、5年以上の歳月をかけて出資や助成をかきあつめ、多数の人々の協力をとりつけ、編集段階でも600人以上の人々の意見を反映させて完成させた、というこの映画には、オルタナティブ・メディアの精神が充満しています。マスメディアの実態を告発するだけでなく、それに対処する方法も提案し、それを実践するものになっています。映画には、バランスを一気にひっくり返す威力があります。これによって、チョムスキーの名声はさらに広がりましたが、本人がまっさきに苦言を呈しているように、結果的にチョムスキー自身がアイコンになってしまい、そこについてだけは不本意に思っているようです。いずれにせよ、必見の映画です。上映の詳細は、こちらのユーロスペースのページでご確認ください。

(2007年1月)

マニファクチャリング・コンセント:チョムスキーとメディア (1)

Manufacturing Consent: Noam Chomsky and the Media
監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック(カナダ、1992、16mm、165分)

 15の国際映画賞を受賞し、世界の300以上の都市で商業上映され、15カ国において全国ネットでテレビ放送された。カナダのドキュメンタリー映画としては最大の興行成績を記録。

マンハッタンのユダヤ系移民の家庭に育った少年時代から、大学生時代、大学教師、活動家という経歴をたどり、現在は歯に衣着せぬ社会批評家として世界各地で講演するようになったチョムスキーの姿を追う(講演、対談、テレビ出演など)。ただし映画の主役はそのような個人的側面ではなく、メディアについての彼の主張──印刷や放送メディアは暗黙のうちにすすんで権力に奉仕している──である。映画には、彼のあからさまな反体制批評に門戸を閉ざすABCやPBSなど米国一般メディアの実態が描かれる。映画の目玉の一つは、東チモールにおけるインドネシアの占領と虐殺についてニューヨーク・タイムズ紙がどのように報道してきたかを長期的に検証し、同時期に盛んに喧伝されたカンボジアのポルポト派による虐殺の報道と比較することによって、いかにそれらが「敵の虐殺行為には非難の大合唱、味方の虐殺には沈黙」という恣意的、選択的なものであったかを証明する部分。このようなメディアの「欺瞞の罠」にひっかからぬよう視聴者は知性を用いて自己防衛を図る方法を学ぶべきだとチョムスキーは呼びかける。

またこの映画は、視覚効果、音響効果、音楽的要素などあらゆる手法を駆使して、みずからの作為的な視聴者操作のテクニックに注意を喚起することにより、問題点をさまざまなレベルで同時に伝えようと試みている。商業放送や伝統的ドキュメンタリーの約束事やパーソナリゼーションがパロディ化されているが、それは論敵の言葉を皮肉なかたちで引用するチョムスキーの著述テクニックを映像の多重言語によって再現したものと監督は言う。

この作品に登場する有名ジャーナリストや批評家やインディー・メディア活動家

  • ビル・モイヤーズBill Moyers(ジャーナリスト)

  • ウィリアム・F・バックレー・ジュニア William F. Buckley, Jr (保守派コラムニスト)

  • トム・ウルフTom Wolfe(作家)

  • ピーター・ジェニングスPeter Jennings (ABCの看板キャスター)

  • ミシェル・フーコMichel Foucault(哲学者。普遍的な人間性なんてものがあるのかという点で両者がぶつかった、チョムスキーとの有名な対談),

  • ジェフ・グリーンフィールドJeff Greenfield (ABCのニュース番組ナイトラインのプロデューサー)

  • サラ・マクレンドンSarah McClendon (ホワイトハウス・ウオッチャー)

  • カール・E・モイヤー Karl E. Moyer (ニューヨーク・タイムズ紙の論説委員)

  • ロベール・フォリソン Robert Faurisson.(フランスの歴史修正主義者。チョムスキーは彼の言論の自由を擁護してバッシングを受けたことがある)、

  • デイヴィッド・バーサミアン David Barsamian(コミュニティ・ラジオの活動家。チョムスキーやサイードなど、社会的発言をする知識人とのインタヴュー多数)

  • マイケル・アルバートMichae Albert とリディア・サージェントLydia Sargent(Z Magazineを発行。インターネットサイトの ZNetを運営管理している人)

監督マーク・アクバーによるコンパニオン・ブックのまえがき(要約)

チョムスキーとの最初の出会いは1985年、トロント大学での彼の講演「世界戦争へと押し流す風潮」を聴講して心酔した。それまでにも反核平和運動をしていたが、チョムスキーがアイロニックなユーモアをこめて指摘する実証はどれも初めて耳にするものばかりで、自分の政治思考の枠組みを決定的に変化させた。講演の後に本人に直接質問をしたときの彼の態度に大きな感銘を受けた。

「質問がどんなに稚拙であっても、チョムスキーは瞬時にその意図をつかみとり(後にBBCの番組で見た)歴史学者のインタヴューに対応するときと同等のきちんとした返答を返してくれました。しろうとを見下すようなところのまったくない彼の姿勢に感動しましたが、それは後にわたしが撮影し目撃した数多くの場面でも繰り返されたものであり、「一般の人々」には自分が提起する問題をじゅうぶんに理解し行動する能力があるというチョムスキーの強い信念を反映したものでした。平等主義の実践なのです。」

その後1987年、出版社Dimitri Roussopoulousの招待でチョムスキーがふたたびカナダを訪れた(モントリオールのコンコルディア大学で公演)ことを契機に、ドキュメンタリー映画の製作を思い立った。映画とコンパニオン・ブックはともにチョムスキーやエドワード・ハーマン等による関連した著作への足がかりを提供することを目的としている。

当初、チョムスキーは意外にもこのようなドキュメンタリーやコンパニオン・ブックという形態の有効性には懐疑的だった。数多くの公演録やインタヴューを出版しているにもかかわらず、話されたことばの問題解明能力には限界があると考えていたようだ。だが、複雑で注釈だらけの著作とはまた別に、彼の平明な会話スタイルにはそれなりのメリットがあるはずだ。またチョムスキーは、問題をチョムスキーという個人の物語に還元してしまうこと(パーソナリゼイション)への懸念も表明していた。だが個人の経歴とその思想を分離することは不可能であるし望ましくもないと思われたため、彼の政治思想の形成に関連すると判断したものに限って伝記的要素も取り入れた。また、映画のなかで「スターのように扱われる著名人をつくりあげ、かれらの個人生活までもが重要性をもつかのように扱うような考え」にチョムスキーが疑問を表明するという場面を入れるというような工夫もした。

「この映画のなかでわたしたちが分析しようとしたのはチョムスキーのメディアに対する考え方だけでなく、彼とメディアとの関係でもあります。その関係は合衆国の内と外で大きく異なっています。チョムスキーの経験そのものが、反体制的な意見を唱えるものたちをメディアがどのように扱っているかを検証するための、一種のケーススタディとしてとらえうるものなのです。彼はべつにそのような役割を果たすように選出されたわけではありませんが、彼の声が聴かれないのならば自分たちの声も聴かれないだろうと考えるわたしたちにとって、彼は代弁者の役割を果たしているのです。」

この映画は、視覚効果、音響効果、音楽的要素などあらゆる手法を駆使して、それ自身の作為的な視聴者操作のテクニックに注意を喚起することにより、問題点をさまざまなレベルで同時に伝えることを試みている。商業放送や伝統的ドキュメンタリーにみられる約束事やパーソナリゼイションをパロディ化することは、論敵の言葉を皮肉なかたちで引用するというチョムスキーが記述でよく使うテクニックを、映像の多重言語によって再現したものといえよう。

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