ノーム・チョムスキーチョムスキーの発言も、ネット上に数多く掲載されています。ここで訳出したのは、内容は多少古いのですが、『ペンと剣』での議論と重ねあわせてみるとなかなか面白いと思われる一節です。いわゆる「歴史修正主義者」とは、ナチスによる組織的なユダヤ人の大量虐殺計画はなく、ガス室も実在しなかったと主張し、「ホロコースト」は「神話」であると否定する一群の人々のことですが、そのような主張であっても表現の自由は擁護されねばならないのだろうかという問題についてのチョムスキーの立場が述べられています。

Noam Chomsky

彼がそれを言う権利
HIS RIGHT TO SAY IT
The Nation, 28 February 1981

「フォリソン事件」へのわたしのかかわりを扱った 『ニューヨーク・タイムズ』の記事には、「デミタスカップの中のフランス旋風」 という見出しがついていた。その意図が、これらの出来事は「コップの中の嵐」と呼ぶほどの値打ちもないということを暗示することにあるのなら、わたしも大いに賛成である。しかし、ヨーロッパではこの件に関して大海のごときインクが費やされ、アメリカでもかなりの反響があった。この記事では事の次第が明らかにされないようなので、この事件についてわたしの立場からの基本的事実と、それに関連して浮上してくる幾つかの原則を確認しておいてもよいだろう。

1979年の秋、わたしはフランスの人文学者セルジュ・ティヨン(Serge Thion)から、ロベール・フォリソン)の 「身の安全と、法で保障された権利の自由な行使」を保障するようフランス政府に要請する書類に署名するよう頼まれた。ティヨンは、あらゆる形態の全体主義に反対してきたリベラルな社会主義者である。この請願書は、フォリソンの「ホロコースト研究」については何も触れておらず(同教授は、ガス室の実在やユダヤ人大量虐殺の組織的計画が存在したことを否定し、アンネ・フランクの日記の信憑性に疑問を提示したりしている)、それが 「フォリソン教授から言論と表現の自由を剥奪する動き」の原因となったことにもいっさい言及していなかった。また、同教授が、これまでどのような扱いを受けてきたかということについても具体的記述はなかった(フォリソンは、暴行に訴えるという脅迫を受けた後、リヨン大学での授業を差し止められ、さらには歴史の歪曲とナチズム犠牲者に損害を与えたとして告発されている)。

この請願書は、抗議の嵐を引き起こした。 クロード・ロワ(Claude Roy)は『Nouvel Observateur』に「チョムスキーの仕掛けた請願」はフォリソンの主張を擁護するものだと書いている。ロワによれば、わたしがそういう立場をとったのは、合衆国がナチスドイツと全く変わらないということを強調するためだったということになっている。『エスプリ』のピエール・ヴィダル=ナケ(Pierre Vidal-Naquet)は、問題の請願書は、「フォリソンの“判断”を、あたかも真実の発見であるかのように記述している」 という点で、「不謹慎きまわりない」と述べている。ヴィダル=ナケは、請願書のなかの「フォリソン教授は、みずからの発見を発表するようになって以来. . . .」というくだりを誤解しているのである。"発見"というのは、中立的な言葉である。「彼は自分の発見を世間に発表したが、それは何の価値もないピントはずれの歪曲であると判断された. . . 」 というふうに用いても、なんの矛盾も生じない。請願書は、フォリソンの研究の内容についてはいっさい評価を下していない。それは嘆願書が問題としていることとは無関係だからである。

ティオンはその後、この事件について純粋に市民の自由を擁護するという視点から短いコメントを書くようわたしに依頼してきた。そこでわたしはコメントを書き、その使い方については彼に一任した。このコメントの中で、わたしはフォリソンの研究については十分な知識がないので(率直に言って、さほど興味もない)それについての論議は差し控えると述べた。むしろ、わたしは市民的自由の問題に的をしぼり、かつてヴォルテール(Voltaire)がM. le Riche宛ての手紙に記した「貴殿の文章にはうんざりさせられますが、それでもわたしは貴殿が書き続ける自由は命をかけて擁護します」という有名な文句を、いまさらここで繰り返さなねばならないのか、と言うにとどめた。

フォリソンの説は、これまで出版物の中でたびたび明らかにしてきたわたし自身の見解とは正反対のものである(例えば、拙著『中東の平和?(Peace in the Middle East?)』(『中東 虚構の和平』 講談社 2005)で、ホロコーストは「人類史上もっとも異様な集団的狂気の噴出」であると記述している)。しかし、初歩的なことになるが、(学問の自由も含めた)表現の自由は、自分が容認できる主張だけに限定されるべき権利ではない。また、この権利は、誰もが軽蔑し唾棄するような主張についてこそ、特に積極的に擁護されねばならないものである。もともと弁護の必要もないような主張をかばったり、公敵による市民権侵害を非難する大合唱に参加するだけなら、誰にだってできるのだ。

その後、フォリソンがきたるべき法廷論争に備えて自己弁護を展開する書物のなかに、わたしのコメントが引用されることになっていることが判明した。それは本来わたしが意図したところではなかったものの、まったく不本意だったわけではない。ちょうどそのころ、反ファシスト作家として有名なジャンピエール・ファイユ(Jean-Pierre Faye)からわたしに手紙が届いた。彼は、わたしの立場には同意するものの、フランス国内の世論の現状からみて、わたしがフォリソンの言論の自由を擁護すればその主張を支持するものと受けとめられる可能性が高く、それゆえコメントは撤回してほしいと要請していた。わたしはその判断を受け入れると彼に返答し、例のコメントの発表差し止めを指示したが、ときすでに遅く出版は予定通りに行われた。

ファイユに宛てたわたしの手紙の一部は、フランスの新聞に掲載され、その後さまざまなところに引用されるもとになった。引用のなかには誤解に満ちたものも多く、突拍子もない解釈がほどこされているものも少なくなかった。例えば、わたしはフランスの反セム主義の風潮を発見して、ようやく主張を引っ込めたとか、フランスの新聞の切り抜きをもとに自説を修正しているとかいうものだ(後者については、この手紙のなかで、別の件でわたしがファイユに新聞の切り抜きを送ってくれるよう依頼したことがもとになっているようだ)。そもそもこの手紙は個人的なものであり、それに先立つファイユからの手紙を読まないかぎり、きちんと理解できるはずのない代物である。不明な箇所は電話一本で容易に解消できたはずである。

これに続く大騒動は、なかなか面白いものだった。社会主義新聞「ル・マタン」では、ジャック・ベイナック(Jacques Baynac)が、わたしの根本的な誤りは、 「表現の自由という大義名分のもとに、事実を歪曲する権利を擁護している」ことであると指摘した。ここで彼が言う "事実" とは、人民委員会とか宗教裁判所まがいの機関が決定したものを指しているに相違ない。わたしがこの原則について長々と論じているくだりは、 ル・マタン紙に掲載されたわたしへのインタビューを大幅に改ざんしたもので、原形をとどめている部分はわずかである。一方、ル・モンド紙では、エスプリ編集長 ポール・ティボー(Paul Thibaud)が、チョムスキーはそんな資格もないのに「フランス知識人のすべてをこき下ろし、 フランス全体を非難している」と書いている。 Corriere della Seraのパリ特派員アルベルト・カヴァラリ(Alberto Cavallari)にいたっては、わたしが 「フランス文化」全体を断罪したとまで主張している。この記事には、このような主張を裏付けるために用意されたでっち上げの引用が特に目立った。わたしが実際に書いたのは、次のような文章である。「一部のフランス知識人----もちろん、知的誠実さを堅持している大多数の人々にはあてはまらないことだが----については多少きつい批判もするだろう。しかし、その批判は特定の問題に限定されたものであり、それを超えたところまで適用されると誤解されてはこまる」 。ル・マタン紙の改ざんされた"インタビュー"でも、同じように限定を加えている部分が削除されており、フランスは「全体主義的」であるとわたしが記述したという彼らの主張に合うように、都合よく刈り込まれているのである。

カヴァラリはさらに「フランス文化」に対するわたしの敵意を説明しようとして、「強制収容所の語源は直接ルソー)に溯る」ことが言語学的に証明されるという説をフランスが受け入れないので、わたしがそれを根に持っている、というようなわけのわからない低次元の問題を勝手に並べたてている。ヌーヴェル・オブセルヴァトゥール (Nouvel Observateur)紙のジャンポール・エントーヴェン(Jean-Paul Enthoven)は、また別の角度から説明を試みている。わたしがフォリソンを擁護する理由は、わたしの「道具主義的言語学」である生成文法(generative grammar)によれば、想像できないものについて思考する手段は存在せず、従ってホロコーストという人間の想像を超えたものについては考えられないことになるからだ、とされている。エントーヴェンやカヴァラリのような人々は、わたしのフォリソン擁護は、極端な左翼主義者が極右勢力と手を結ぶという現象の典型例であると述べ、そのような風潮に対しておびただしい箴言警句を発している。ル・マタン紙のカトリーヌ・クレモン(Catherine Clement)は、わたしの奇行は、わたしが「ボストン子になりきって」おり、 「実社会の接触がなく、イーディシュ語が重要な役割を果たしているユダヤ系アメリカ人のユーモアが理解できない冷淡でよそよそしい人格」 であるためだとしている。ピエール・ディックス(Pierre DaixはLe Quotidien de Paris紙で、わたしが左翼思想を信奉するようになったのは、わたしの言語理論の生得主義が内包する反動性を 「払拭したい」 ためだったと主張している。他のコメントも、おおよそこのような調子のものである。

このような議論をする人々の器量がどの程度のものであるかといえば、上述のヴィダル=ナケの行動がそれを端的に示している。彼のコメントが誤解に基づくものであるというわたしの指摘を受けた後、彼はその記事を『Les Juifs, F. Maspero』という本に再録した。そこではわたしが指摘した一節は削除され、付記として「問題の誤謬は、草稿段階のものであり」 チョムスキーがそれを持ち出したのは不当である、という虚言が添えられているのである。

この事件に対する大多数の批評家の立場は、ル・マタン紙の「誹謗中傷に反対する会」のアブラム・フォルマン(Abraham Forman)に代表されるように、「この事件で問題とされるべきことはただ一つ、フォリソンが自著を出版する権利を奪われたかどうかである。しかし、その権利については否定されていない」というものである。しかし問題とされるべきは、フォリソンが暴力をちらつかせた脅迫によって大学での授業を差し止められたことや告訴されていることではないだろうか。言論の自由ならびに弁護人を自分で選ぶ権利という見地からフォリソンの弁護を引き受けたイヴォン・ショタール(Yvon Chotard)弁護士は、フォリソンを訴えている反ファシスト団体から除名処分をほのめかす圧力を受けているのである。

ファイユの予見した通り、多くの人々が、表現の自由を擁護することと表現された主張を擁護することのあいだに区別を設けることができないことを露呈した。それは何もフランスに限られたことではない。米国の『ニューリパブリック』紙のマーティン・ペレツ(Martin Peretz)は、わたしがフォリソンの研究に興味がないと発言したことをもとに、チョムスキーはホロコーストに対して「不可知論者」であり大量虐殺というものに「鈍感」である、と評価している。 ペレツはさらに、ある種の問題については議論に参加すること自体が品位を貶めるというわたしの発言をとりあげて、わたしが自分の敵に対しては表現の自由を認めていないと主張している。どうやら、わたしがあなたと議論することを拒めば、わたしはあなたの自由を制限していることになるらしい。わたしがそのような議論の例としてホロコーストを引き合いに出していることには、彼はわざと触れていない。

わたしがフォリソンの研究内容を十分確かめもせずに彼の表現の自由を擁護したことについては、多くの言論人が言語道断ときめつけている。だが、そんなおかしな理屈がまかり通るなら、評判の芳しくない主張の市民権を擁護することは、きわめて難しくなる。フォリソンはフランスのマスコミを牛耳っているわけではないし、奨学金を分配する権力を握っているわけでもない。従って、彼の著述に対しては、反論や酷評を発表する機会や手段はいくらでもあるのだ。すでに述べたように、彼の主張とは真っ向から対立するわたし自身の見解は、明らかな形で記録されている。 ある書物がいかに異様な主張を掲げているように映ろうが、少なくともその内容をきちんと吟味するまでは否定しないというのが理性的な人間の態度というものであろう。今回のケースでも、フォリソンが証拠資料として提示しているもの対し十分な裏付け作業を行ってからでなければ断罪はできないはずだ。わたしに対する非難のなかでもとりわけ異様なのは、フォリソンの研究内容を検討するという課題を拒んだことによって、600万人のホロコースト犠牲者に対する無関心をわたしが露呈したとする論法であろう。そのような批判が通るなら、わたしと同様にフォリソンの研究を調べてみることに興味がない人はすべて同じように批判されることになる。表現の自由を擁護するからといって、そこで表現される主張そのものを研究するという特別な責任が生じるわけでははないはずだ。わたしはこれまでも、弾圧を受けた東欧の反体制活動家を支援するため、請願書に署名するだけでなく、さまざまな形の支援運動をおこなってきたが、それに際して支援対象の個人的な主張に立ち入ったことはなく、多くの場合、知りもしないし関心もない(ときには彼らの主張に不快を覚えることもあるが、それは言論の自 由という問題とは完全に無関係なことなので、決して言及しないことにしている)。しかし、そういう姿勢をとったからといって非難された覚えは一度もない。

実際、解放や学問の自由を擁護するなかで従来わたしがとってきた立場は、今回の事件よりずっと深刻な物議をかもす可能性のあるものであった。ベトナム戦争のさなか、わたしは、たとえわたしの目には紛れもない戦争犯罪人と映る人々であっても、政治や思想的な見地から教職につく権利を奪われるということがあってはならないという立場を表明した。また、黒人が遺伝的に劣等であることを「証明」しようとする科学者たちについても、わたしは同様の立場を貫いてきた。 たとえこの国で黒人が不幸な歴史を背負わされてきたという事実があり、またそのような主張が人種偏見の持ち主やネオナチに利用される可能性があろうともである。これに比較すれば、フォリソンは、どのように評価されるにせよ、巨大な戦争犯罪の仕掛人だったとか、ユダヤ人が遺伝的に劣等だと主張しているとかいって非難されているわけではない。(市民的自由の問題とは関係のないことではあるが、フォリソンはワルシャワ・ゲットーの蜂起<April 19, 1943から4週間つづいたユダヤ人の蜂起>について「英雄的蜂起」と言及し、「正当な主張を掲げ」て「ナチに対し勇敢に戦った」ユダヤ人たちを賞賛している)。1969年当時のわたしは、大学において暴動鎮圧対策の研究が行われていることに対し、たとえそれが殺戮と破壊のために利用されていようとも研究を妨げようとすることは誤りではないか、とさえ述べている。この立場を今でも自分が擁護できるかどうかは、もはや確信がない。それにしても、物議をかもしやすいという点ではずっとスケールの大きいこれらの発言が、今回のような抗議の嵐を招いたことはただの一度もないのである。報復の恐れなく自由に表現する権利を否定し、その権利を擁護する者を憎悪するという風潮は、どうやら選択的に発生するものらしい。

パリの国際ペンクラブの対応も興味深いものだった。この団体は、反セム主義復活の風潮のなかでフォリソンの著述に世間の注目をうながす役割を果たしたという理由から、わたしの立場をおおやけに非難している。作家の表現の自由をめざして存在する団体が、フォリソンの弁明を世に知らしめたというだけの理由でわたしの立場を問題視するとは、おかしな話である。そもそもが、フォリソンに世間の注目が集まったとすれば、その原因をつくったのは、彼が告発されたという事実(この問題を世に知らしめるためと思われるが)、ならびに彼の人権に対するわたしの擁護をマスコミがスキャンダルに仕立てあげたことに他ならない。わたしはこれまで、フランスの出版物に前書きや献辞を書く機会を得たことも少なくなかった。しかし、それらはあまり読まれることのない無名の書物であり、その点ではわたし自身の著作も同じである。わたしの著作があまり読まれていない証拠に、例えばティボーなどは、わたしが 「ベトナムの解放を北の指導者の“善意”に委ねている」 などというでたらめを並べている。実際には、ベトナム戦争についてのわたしの記述は、大半が南ベトナム(後にはラオスやカンボジアも含め)の農村に対する米国の攻撃についてのものである。米国の攻撃は、民族解放戦線などが提案する中立化を牽制し、民族解放戦線が基盤としていた農村社会を破壊することを目的としていたのである。そのような米国の試みが成功したあかつきには、「必然的にインドシナ全域を北ベトナムの支配に委ねることになるだろう。なぜなら、それ以外の社会は生き残れなくなるからだ」 というわたしの警告は、いまにしてみれば的確な予言だった。

ティボーが示したような無知にもとづく事実の歪曲は、今回の事件の背後に横たわるひとつの真相を示唆している。これらの批判者たちの多くは元スターリン主義者なのだ。ティボーのように、ソルジェニーツィン(Solzhenitsyn)以前の「共産主義についての従来の解釈はすべて」トロツキー主義の枠組みのなかにあった(Esprit)などと書くことができる人々なのである。最近ようやく反レーニン主義的な批評の可能性に目覚めたこの種のインテリたちは、彼らの左翼的な前提には基づかない革命・反革命議論について、規則的な誤認をくりかえす傾向がある。例えばティボーは、レーニンやスターリンやポルポトが「社会主義の失敗」を証明したという自論にわたしが同意しない理由が理解できない。わたしがレーニン主義運動をまがりなりにも「社会主義」と関係があると見なしたことは一度もないということに、左翼や元左翼の知識人の多くは気づいていないらしい。わたしは反レーニン主義左翼の自由主義的な環境で育ち、ティボーなどはいまだに聞いたこともないような作品に子どもの頃から馴染んできたおかげで、彼らの最近の宗旨替えをそれほど評価していない。彼らのかかげる新たな改革 運動は道徳的にあやしく知的には浅薄なため、とても荷担する気になれない。そのようなわたしの態度を彼らの方では苦々しく思っていたらしく、そういうことが積もり積もって今回の虚言という形で噴出したのだろう。

ペンクラブが言及していた反セム主義復活の風潮、あるいは人種偏見に基づく暴力事件の発生については、人種主義的な衝突や抑圧を煽るために利用される可能性のある文献の出版に対して、どのような対応をとるべきかという問題が生じてくるだろう。その出版物の市民権を否定するべきなのだろうか。それとも、むしろこのような性質の悪い現象の発生要因をつきとめ、それを排除するように努めるべきなのだろうか。西洋民主主義の基本理念を堅持する人、われわれが対峙する諸悪の本質を真剣に考える人にとっては、その答えは明白であろう。

実際には、フォリソンのものよりずっと危険な「修正主義」が横行しているのである。たとえば、アメリカはベトナム戦争において犯罪は犯していない、罪があるとすれば「認識の誤り」を犯したことだけである、という主張を考えてみて欲しい。この「修正主義」はフォリソンのそれとは対照的に、メインストリームの支持を受け、知識人の大半が常に与してきた立場である。しかし、それがもたらしたものは短絡的で醜悪な政策の遂行である。このような主張を唱える人々は教育の現場から追放し、裁判にかけるべきではないのか。むろん、これは「抽象的」な議論である。もし、本当に権力を握っている人々が、フォリソン事件に見られるような一種のジダーノフ主義<Zhdanovshchina:冷戦時代のソビエトの文化統制政策>に走ったならば、処罰される対象は「ベトナム修正主義者」ではないだろう。

しかし、フランスの出版界全体が不条理劇を演じ、先に紹介したような見方一色に染まっていたというような印象は残したくない。『ル・モンド』や『リベラシオン』は正確な記事も掲載していたし、きっぱりと尊敬すべき態度をとった人々も多少は存在したのである。例えばアルフレッド・グロセール(Alfred Grosser)は、私の立場を誤解してはいるものの、「フォリソン氏が本人の身の安全を保障できないという理由からリヨン大学でのフランス文学の講義を差し止められたということは、非常に遺憾なことであると考える」と、Le Quotidien de Parisに寄せた記事のなかで書いている。

イタリアのリベラル左派紙リパブリカのバルバラ・スピネッリ(Barbara Spinelli)は、「この事件の真のスキャンダルは、万人が非難する思想であっても、さらには自らの意見とは正反対のものであっても、表現の自由は認めねばならないと公然と主張した人々が少数ながら存在したことである」と書いている。わたしの見方は逆だ。わたしにとってスキャンダルなのは、自分にはヘドがでそうな思想であってもその表現の自由は徹底的に擁護するとヴォルテールが200年も前に述べているというのに、いまだにこの問題を議論しなければならないということである。自分たちを虐殺した者たちの根本教義が後世に採用されたとなっては、ホロコーストの犠牲者たちも浮かばれまい。
Source: His Right to Say It, The Nation, 28 February 1981


modified: 25/01/2001