アフガニスタンへの裏切り

ジョン・ピルジャー
2003年9月22日
ZNet原文

『ガーディアン・マガジン』に載せた記事で、ジョン・ピルジャーはタリバンから「解放」されたあとのアフガニスタンについて語る。彼は最新のドキュメンタリー「沈黙を破って」でその様子を映像に収めていた。観念的な自由を除けばほとんど何も変わっていない。アメリカが権力の座に付けた軍閥たちはタリバンと同じくらい悪辣で、コミュニティ全体を恐怖に陥れ、アフガニスタン女性の9割を抑圧下に置いており、西洋による再建の約束は空疎な約束にとどまっている。


2001年9月11日の攻撃のあと開催された労働党の会議で、トニー・ブレアは忘れられない言葉を述べた:「アフガンの人々に対して、我々はこの献身を為す。歩き去ることはしない・・・・・・タリバン政権が交代したときには、後継の政権が、確実に、広い基盤に基づき、全てのエスニック・グループを団結させ、皆さんを惨めな存在に貶めている貧困から抜け出す道を何か与えるようなものになるよう皆さんに協力する」。彼はジョージ・ブッシュの言葉を繰り返していたのだった。ブッシュは数日前に、次のように言っていた:「アフガニスタンの抑圧された人々は、アメリカとその同盟諸国の気前の良さを知ることになるだろう。軍事標的を攻撃している一方で、我々は、アフガニスタンで餓え、苦しんでいる男女と子供に食料と薬品、必需品を投下している。米国はアフガンの人々の友人である」。

彼らが話したことのほとんど一語一語が嘘であった。心配しているという宣言は、アフガニスタンとイラク征服への道を準備した残酷な瞞着であった。米英によるイラク不法占領が明らかになっている今、アフガニスタンの忘れ去られた惨劇---「対テロ戦争」の最初の「大勝利」---は、さらにショッキングなあかしである。

アフガニスタンを訪れたのはそれが初めてだった。生涯紛争地を訪れてきたが、このような状況は見たことがなかった。道のかわりに瓦礫の山があるカブールは、1945年直後のドレスデンを思わせた。人々は、援助を待つ震災の被害者のように倒壊した建物に暮らしていた。電気も暖房もなく、黙示録的な火が夜通し燃えていた。あらゆる武器の弾痕を刻んでいない壁はほとんどなかった。ラウンドアバウトでは車が横転していた。トロリー・バスのために作られた電柱はペーパークリップのように捻れていた。バスがお互いに積み重なっていた。ゼロ年を記念してクメール・ルージュが積み上げた機械のピラミッドを思い起こすものだった。

アフガニスタンにはゼロ年の感覚があった。私の足音が、かつては偉容を誇っていたディルクシャ宮に響いた。この宮殿は、英国の建築家の設計で1910年に建設されたもので、螺旋階段とコリント式の柱、両翼のフレスコは褒め称えられたものだった。今や洞穴のような廃墟となり、アシのように細い子供たちが小さな亡霊のようにそこから出てきて、30年前の様子を示す黄色い葉書を売ろうとしている。階段の下には、その前日に爆弾で吹き飛ばされた二人の血と肉が残っていた。これらの犠牲者は誰だったろうか?爆弾をしかけたのは誰だろうか?テロリズムに理解を示す軍閥の奴隷となった国では、この問題自体がシュールレアルだった。

100ヤード向こうで、青い服を着た男たちが一列縦隊でゆっくりと動いていた。地雷除去隊だった。この国には地雷が散乱していた。毎日毎時間、地雷が殺したり手足を失わせる人々の数が数えられる。以前カブールの大きな映画館だった向かいには忙しいラウンドアバウトがあり、不発クラスター爆弾「USA発の黄色いヤツ」が周囲にあるというポスターがあった。子供たちがお互いの影を追いかけて遊んでいた。義足を付け、顔の一部のない10代の男の子がそれを見ていた。地方部では、人々は、今でも、2年前、戦争時に米軍機が投下した黄色い援助パッケージとクラスター爆弾筒とを間違える。ブッシュがパキスタンからの国際救助コンボイを拒絶した後に投下した「援助パッケージ」である。

2001年10月7日以来、アフガニスタンに100億ドル以上が費やされた。そのほとんどは、米国により。そのうちの8割以上が、アフガニスタン爆撃と軍閥への支払いにあてられた。軍閥は、自ら「北部同盟」と名乗る元ムジャヒディーンであった。米国は、各軍閥に現金で何万ドルもを与え、トラック何台もの武器を提供した。戦争のとき、あるCIA職員はウォールストリート・ジャーナル紙に、「我々は可能な全ての司令官と接触している」と語った。つまり、お互いに戦うのを止めてタリバンと戦うよう賄賂を送ったのである。

これらの軍閥は、1989年にソ連が撤退してからカブール制圧を競って町を粉砕し、5万人の民間人を殺した、それと同じ軍閥であった。ヒューマンライツ・ウォッチによると、5万人のうち半数は、1994年の1年に殺された。アメリカのおかげで、アフガニスタンの実効支配は、ほぼ同じマフィアとその私設軍隊の手にわたされ、このマフィアたちは、恐怖と強請で支配し、ケシ貿易を独占して、英国の路上に出回るヘロインの9割を提供している。タリバン後の政府というのは見せかけである。来年予定されている選挙のような民主的見せかけにもかかわらず、実際には全く金もなく、その権限はカブールの門までようやく達しているかどうかといったところである。地方問題省の官僚オマル・ザヒルワルは、私に、政府は、アフガニスタンに提供される援助の2割以下しか手にしていないと語った。「給料を払う金さえ十分ではない。計画再建はなおさらだ」と彼は言う。ハミッド・カルザイ大統領はワシントンの子役人で、米軍特殊部隊の護衛ギャングなしではどこにも行かない。

一連の注目すべき報告---最新のものは7月に発行された---で、ヒューマンライツ・ウォッチは、「2001年にタリバン政権が崩壊してから米国とその同盟者により権力の座につけられ」「国をハイジャックシタ」「ガンマンや軍閥が犯した」残虐行為を記録している。報告書は、また、軍閥が支配する軍や警察が身代金目当てで処罰されることなしに村人を誘拐し私設刑務所に閉じこめることや、広範にわたる女性や少女、少年への強姦、日常的な強請、強盗、恣意的殺人を犯していると述べている。女の子の学校は焼き払われる。「兵士たちが女性と少女を標的にしているため、多くが家の中に留まっており、学校や仕事へ行くことができない」と報告書は書いている。

東部の町ヘラートでは、女性は車を運転すると逮捕される。女性たちは、身内以外の男性---タクシー運転手とであれ---と旅することを禁じられている。逮捕された女性たちは「貞淑テスト」を受けさせられる。貴重な医療の浪費である。ヒューマンライツ・ウォッチによると、「とりわけヘラートでは、女性や少女はほとんど医療を受けられず、訓練を受けた立会人のもとで出産する女性は1%以下である」。ユニセフによると、出産時の母親の死亡率は世界で最も高い。ヘラートはイスマイル・カーンの軍閥が支配している。米国国防長官ドナルド・ラムズフェルドは、彼のことを「魅力的な人物〔・・・・・・〕思慮深く、慎重で、自信に満ちた人物」であると賞賛している。

「前回この部屋に集まったとき」、「アフガニスタンの母親と娘たちは、働くことも学校に行くことも禁止され、自分たちの家に囚われの身となっていた。今日、女性は自由であり、アフガニスタン新政権の一部をなしている。そして、我々は、新たな女性問題相シマ・サマル博士を歓迎する」。これはジョージ・ブッシュが昨年の一般教書演説で述べた言葉である。頭にスカーフをした小柄な中年の女性が立ち上がり、わざとらしい大喝采を受けた。タリバン時代に女性の診療否定を拒んだ医師サマルは抵抗の本当のシンボルだったが、お世辞たらたらのブッシュによる専有は短命に終わった。2001年12月、サマルはボンでワシントン主催の「平和会議」に出席した。カルザイが大統領となり、最も残忍な軍閥の3人が副大統領となった会議である(捕虜の拷問と虐殺を非難されているウズベク人の軍閥ラシッド・ドスタム将軍が現在国防相である)。サマルはカルザイ内閣に入閣した2人の女性の一人だった。

米国議会の大喝采が静まるか静まらないかのときに、サマルはイカサマの涜神罪で告発され、追放された。タリバンと民族と敬神のしかたが違うだけの軍閥たちは、女性解放については、そのそぶりでさえ許容しなかった。

今日、サマルは常に命を狙われる危険の中で暮らしている。彼女には、自動銃を持った二人の恐ろしい護衛がついている。一人は彼女のオフィスの入り口に、もう一人は門にいる。彼女は黒く塗りつぶしたバンで移動する。「この23年間、私は安全ではなかった」と彼女は私に。「けれども、隠れたことも狙撃手とともに移動したこともなかった。今はそうしなくてはならない。〔・・・・・・〕女性が学校に行ったり働いたりすることを禁じる法律はもうないし、着物についての法律もない。しかしながら、現実には、タリバン政権のもとでさえ、地方部の女性が今のような圧迫を受けていたことはなかった」。

アパルトヘイトは法的には終わったのかも知れないが、アフガニスタンの9割近い女性にとって、新政権の「改革」---カブールに女性省を設置するといった---は、単なるお話にとどまっている。ブルカは今でも至る所で使われている。サマルが言うように、地方女性の苦しみは今のほうが一層絶望的である。というのも、超禁欲的なタリバンならば、強姦や殺害、同性愛を厳しく処罰したからである。今日とは違い、国のほとんどの地域を安全に旅することができた。

西カブールの爆撃で壊れた靴工場で、2つの村の人々が剥き出しの床に明かりもないまま集まっているのに出会った。したたり落ちる蛇口が一つあるだけだった。崩れたひがきの剥き出しの火の回りに子供たちがしゃがんでいた。その前日、子供が一人落ちて死んだ。私がついた日に、別の子供が落ちてひどい怪我をした。人々の食べ物は、お茶に浸したパンだった。人々の目は怯えた難民のものだった。軍閥が日常的に掠奪を行い、妻や娘や息子をさらって強姦し、返すにあたって身代金を奪うため、村からそこに逃げてきたと人々は語った。

「タリバンの時代、我々は墓地に暮らしていた。けれども、安定していた」と、キャンペーナのマリーナは私に語った。「中には、タリバン時代の方が良かったという人さえいる。それは、今日の状況がどれだけ絶望的かを示している。法律は変わったかも知れないが、女性はブルカをかぶらずに家を出る危険を犯すことはできない。自らを守るためにブルカを着けなくてはならない」。

マリーナはRAWA(アフガニスタン女性革命協会)の中心メンバーである。RAWAは、アフガニスタンにおける女性の苦痛を永年にわたって外部に訴えようとしてきた組織である。RAWAの女性たちは秘密裡に、ブルカの下にカメラを隠してアフガニスタンを旅し、タリバンの処刑や他の侵害を撮し、ビデオテープを西洋に持ち出した。「我々はそれを色々なメディアに持っていった」とマリーナは言う。「ロイター、豪ABCなどである。彼らは、ほお、これはすごいが、西洋の人々にとってはショックが強すぎるので放映することはできないと言った」。実際のところ、処刑シーンは、ついにチャネル4(英国)のドキュメンタリー番組で放映された。

それは2001年9月11日、ブッシュと米国メディアがアフガニスタンの女性問題を発見する前のことだった。マリーナは、西洋が支持する軍閥政権下の残虐さはそれと全く変わらないと言う。我々は秘密裡に接触し、彼女は身元を隠すためにヴェールを身につけていた。マリーナというのは本名ではない。

「ブルカをかぶらずに学校に行った2人の少女が射殺され、その遺体が家の前に置かれていた」と彼女は言う。「昨年、35名の女性が子供と一緒に川に飛び込んで死んだ。軍閥司令官たちによる強姦の嵐から身を守るために。これが、今のアフガニスタンである。タリバンと北部同盟の軍閥は、同じコインの裏表である。アメリカにとって、これはフランケンシュタインの物語だ。アメリカが怪物を作り出し、その怪物が反乱を始めた。アメリカが、ロシアによる侵略の際、これらの軍閥、オサマ・ビン・ラディン、アフガニスタンの原理主義勢力部隊を作り上げなかったならば、2001年9月11日に主人を攻撃することもなかっただろう」。

アフガニスタンの悲劇は西洋勢力の金言をはっきりと示す例である。すなわち、第三世界諸国は、それが「我々」にとっての有用性に厳密に従って解釈され取り扱われるという金言の。それが求める冷酷さと偽善はアフガニスタン現代史に書き込まれている。冷戦下の最も厳密に守られた秘密の一つは、米英による、軍閥とムジャヒディーンとの共謀であり、そしてタリバンとアルカイーダ、2001年9月11日の事件を引き起こすこととなったジハードを刺激するために米英が果たした決定的に重要な役割である。

1998年のインタビューで、カーター政権時代の国家安全保障顧問ズビグニュー・ブレジンスキーは次のように認めている:「歴史の公式見解では、ムジャヒディーンに対するCIAの支援は1980年に始まった。ソ連軍がアフガニスタンを侵略した後である。・・・・・・けれども、現在まで秘密にされているが、実際は全く逆である」。ブレジンスキーの進言に従って、1979年7月にカーターは、本質的にテロ組織であるところの組織を創設するために5億ドルの使用を認めたのである。その目的は、当時中央アジアのソ連共和国でのイスラム原理主義の拡大に深く悩んでいたモスクワを、感染のもとであるアフガニスタンの「罠」におびき出すことであった。

17年間で、ワシントンは、地上で最も残忍な者たちの一部に合計40億ドルもの資金を提供した。不毛な戦争でソ連を疲弊させ究極的には破壊することが目的であった。資金を受け取った者の一人グルブディン・ヘクマティヤルは、とりわけCIAのお気に入りの軍閥で、何千万ドルをも受け取った。彼の得意技はケシの取引、ヴェールをかぶることを拒否した女性の顔に塩酸を投げつけるといったことであった。1994年、彼は、首相にさせてもらうならばカブール攻撃を止めると述べて、首相になった。

その8年前、CIA長官ウィリアム・ケーシーは、パキスタンの諜報組織ISIが提案した、世界中からアフガンのジハードに参加する人々をリクルートするという計画に支持を与えた。1986年から1992年までの間に、パキスタンで、10万人以上の戦闘的イスラム教徒が訓練を受けた。訓練キャンプを監督していたのはCIAとMI6で、SASが将来のアルカイーダとタリバンの戦士たちに、爆発物製造をはじめとする地下技術を教えていた。指導者たちは、米国バージニア州のCIAキャンプで訓練を受けた。これはサイクロン作戦と呼ばれ、1989年にソ連が撤退した後も長く続けられた。

1898年インド総督だったカーゾン卿は、「諸国はチェス盤の一片のようなものだと思う」と述べている。「その上で、世界支配という偉大なゲームが行われる」。何人かの大統領の顧問を務め、ブッシュのギャングたちに尊敬される導師であるブレジンスキーも、ほとんど同じ言葉を書き記している。その著書「偉大なるチェス盤:米国の卓越と戦略地政学的要請」の中で、ブレジンスキーは、世界支配のキーとなるのは、対抗する勢力の中で戦略的な位置にあると同時に巨大な石油とガス資源を有する中央アジアであると述べている。「古代帝国のより野蛮な時代の用語に戻って言うならば」、「帝国の戦略地政学の主命題」の一つは「野蛮人が一つになるのを防ぐことにある」と。

自ら破壊を助けたソ連の灰燼を調べた導師ブレジンスキーは、一度ならず、感慨深げにつぶやいた:これが「少数の興奮したムスリム」を作り出したからどうだというのだろう?2001年9月11日、「少数の興奮したムスリム」がその答えを与えた。私は最近、ワシントンでブレジンスキーとインタビューしたが、彼は自分の戦略がアルカイーダの勃興を促したことを強硬に否定し、テロリズムはロシア人のせいであると述べた。

ついにソ連が崩壊したとき、チェス盤はクリントンに引き継がれた。ムジャヒディーンの最新の姿であるタリバンがアフガニスタンを支配していた。1997年、米国国務省官僚とカリフォルニアのユニオン石油社(Unocal)は、ワシントン及びテキサス州ヒューストンで目立たないようにタリバンの指導者たちを歓待していた。ヒューストンの豪華な家のディナー・パーティーという贅沢な歓待であった。タリバン指導者たちはウォルマートでの買い物と観光地へ飛行機で行くことを求めた。フロリダ州のケネディ宇宙センターや南ダコダのマウント・ラシュモアなどであり、後者では、岩に刻まれた米国大統領の顔を見上げていた。米国権力の機関紙であるウォールストリート・ジャーナルは、「今このとき、タリバンはアフガニスタンで平和を実現する力を史上最も持った勢力である」としゃべりまくっていた。

1997年1月、ある国務省官僚が内密な記者会見で、アフガニスタンが「サウジアラビアのような」石油保護領になることを望むと語った。サウジアラビアには民主主義がなく女性が虐待されていると指摘されたこの官僚は、「それは問題ない」と答えている。

米国の目的は、旧ソ連のカスピ海地域からアフガニスタンを経て外洋航海船が寄港できる港へとパイプラインを建設するという60年来の「夢」を実現することにあった。タリバンは、アフガニスタンを通るガス1000立方フィートにつき、15セントを支払うと提案された。これはクリントン政権時代のことであったが、この交渉を進めていたのはまもなくジョージ・W・ブッシュ政権を支配することになる「石油・ガス臨時軍政」の面々であった。その中にはジョージ・ブッシュ一世の元閣僚の三名が含まれていた。9つの石油会社を代表する現副大統領ディック・チェイニーや、当時シェブロン−テキサコのパキスタン及び中央アジア特別担当だった現国家安全保障顧問のコンドリーザ・ライスなどである。

これらの皮を剥いていくと、巨大なカーライル・グループのコンサルタントとして給与を受け取っているブッシュ一世を見つけだすことになる。カーライル・グループ傘下の164企業は、石油、ガス、パイプライン、武器を専門としている。ブッシュの顧客にはサウジの超富豪一族であるビンラディン家もいた(2001年9月11日から数日後、ビンラディン家は重警備のもとで米国を立ち去ることを許された)。

パイプラインの「夢」は、東アフリカで米国大使館2つが爆破され、アルカイーダが容疑者として浮かび上がり、アフガニスタンとの関連が出てきたことによって潰えた。タリバンの有用性はなくなり、困惑の対象となり保存に値しない存在となった。2001年10月、米国はアフガニスタンを爆撃し、昔の軍閥の友人たちである「北部同盟」を権力の座に戻した。アフガニスタンが「解放され」た今日、パイプライン計画がついに進められつつあり、元Unocalのジョン・J・マレスカが駐アフガニスタン米国大使として、それを監視している。

タリバンを転覆して以来、米国は、アフガニスタン周辺の天然資源を豊富に有する旧ソ連の中央アジア9共和国に13の軍事基地を設置した。世界中で、今や、化石燃料の主要産地すべての要路に、米軍が駐留している。米国宇宙軍司令部が「全方位支配」と呼ぶものである。

米国がカスピ海地域の資源への陸路を支配するために用いているのはカブール近くのバグラムにあるソ連が建設した巨大基地である。けれども、もう一つの征服であるイラクと同様、すべてがスムーズに行っているわけではない。ロッド・デービス大佐は、「基地から出ると必ず撃たれる」と言う。「我々にとって、外は戦闘地帯なのだ」。

私は彼に言った。「しかし、ブッシュ大統領は、皆さんがアフガニスタンを解放したと言っている。それなのになぜ、アフガニスタンの人々が皆さんに銃を向けるのか?」

「敵対的分子は至る所にいるのだ」。

「人殺しの軍閥を皆さんが支援しているときに、それは驚くことなのか?」と私は答えた。

「我々は、地方統治者と呼んでいる」(「地方統治者」として、ヘラートのイスマイル・カーンのような軍閥は必然的にカルザイの全国政府の一部である---居心地の悪い並びである。カルザイはカーンに何百万ドルもの関税免除を訴えた)。

タリバンを追放した戦争は終わらなかった。1万人の米軍兵士がアフガニスタンの駐留しており、戦闘ヘリと高機動多目的装輪車両で出撃して山の中の洞窟を爆破したり、南東部を中心に村を標的としたりしている。パシュトゥン人の中心部とパキスタン国境地帯にはタリバンが戻ってきている。どのくらいの戦闘が起こっているかを独自に知るすべはない。デービス大佐のような米国の報道官が「米軍は50人のタリバン戦士を殺した」といったニュースの報道源である。記者たちが何が起きているか知るには、アフガニスタンは今や危険すぎるのである。

米国による作戦の中心は、現在、バグラムの「拘束施設」である。そこでは、疑わしい人々が連れてこられ尋問を受ける。二人の元捕虜アブドゥル・ジャバルとハキム・シャーは3月、ニューヨーク・タイムズ紙に、100人にも及ぶ捕虜たちが「目隠しを付けられて立たされ、腕は上にあげられて天井に鎖で縛り付けられ、足かせをはめられ、昼夜何時間も動けない状態に置かれている」と語っている。ここから、沢山の人々が、グアンタナモ湾の集中キャンプに船で送られるのである。

こうした捕虜たちは、あらゆる権利を否定されている。赤十字が調査を許されたのは「拘束施設」のわずか一部であり、アムネスティは全面的にアクセスを拒否された。昨年4月、カブールのタクシー運転手ワシル・モハマドがバグラム---私は彼の家族にインタビューした---に「失踪」した。検問で、逮捕された友人の居所を尋ねた後であった。その友人はその後釈放されたが、モハマドは現在、グアンタナモ湾の檻に入れられている。カルザイ政府の元内務相は、私に、モハマドは、悪いときに悪いところにいたのだと私に語った:「彼は無実だ」と。さらに、モハマドはタリバンに対して抵抗した記録を持っていた。バグラムやグアンタナモ湾に閉じこめられた多くの人々が、米国が容疑者に支払う賞金目当てで誘拐された可能性が高い。

私はデービス大佐に、何故「拘束施設」に入れられた人々は、外国軍の捕虜になった米国人に求められるのと同じ基本的人権を与えられていないのか尋ねた。彼は答えた:「戦争捕虜の問題は、極左か極右どちらかが扱うようなものだ」。これが、ブッシュのアメリカが最近手に入れた帝国---実際のも仮想上のも---の領土に刷り込んだカフカ式世界である。ニューヨークの「グランド・ゼロ」で死んだ者たちと同じ価値を与えられない人々が暮らす土地の瓦礫の中から生まれ出た世界はこうしたものである。ビビ・マフルもそうした場所の一つである。この地は、2年近く前に米軍のF16による攻撃を受けた。パイロットは500ポンドのMK82「精密」爆弾を泥と石でできた家に投下した。その家にはオリファとその夫である絨毯織りのグル・アフメドが済んでいた。この爆弾はオリファと息子の一人を除く全員---6人の子供を含む8人の家族を殺した。隣の家の子供二人も殺された。

悲しみと怒りの刻まれた顔で、オリファは私に、モスクの前に遺体が置かれており、自分が遺体を見つけたときの状態が恐ろしいものであったと述べた。その午後中、彼女は遺体のかけらを集めて過ごし、「それを袋に入れ、後で埋葬できるように名前を付けた」。11人からなる米国人チームが、彼女の家があったところにできたクレーターを調べにやってきたと彼女は言った。米国人たちは榴散弾の数字を控え、彼女にインタビューした。通訳がドル紙幣で15ドル入った封筒を彼女に与えた。後に、彼女はリタ・ラザーにカブールの米国大使館に連れて行かれた。リタはニューヨークのツイン・タワーで弟を失い、アフガニスタン爆撃に抗議し犠牲者を慰めるためにアフガニスタンを訪問したのである。大使館の門から手紙を手渡そうとしたオリファは、「向こうへ行け、乞食め!」と言われた。


昨2002年5月、ガーディアン紙は、ジョナサン・スティールの調査結果を発表した。スティールの結論によると、米国の爆弾で殺された8000人に加えて、ブッシュの侵略による間接的な結果として、家を逃げ出し干ばつのさなかに緊急援助を拒否された人々を含め、最大2万人が死亡したかも知れないという。最近の大きな人道的危機の中で、アフガニスタンほど援助の手が少ないところはない。4分の1の人口であるボスニアでは、一人356ドルを受け取った。アフガニスタンでは42ドルである。アフガニスタンで使われている国際援助のうち、再建向けはたった3%である。米国が率いる軍事「同盟」が84%を使っており、それ以外は緊急援助である。2002年3月、カルザイはワシントンに飛んで、さらなる金を求めた。彼は、米国の民間投資家からさらなる金を約束された。そのうち3500万ドルは、計画中の五つ星ホテルの資金として使われる予定である。ブッシュが言うように、「アフガニスタンの抑圧された人々は、アメリカとその同盟諸国の気前の良さを知ることになるだろう」。


2001年12月上旬の段階で、ニューハンプシャー大学マーク・ヘロルド教授が数えたアフガニスタン人の死者数は3500人を超えています。不発弾による犠牲者の数は、その後も増え続けています。また、米軍が用いた兵器による放射能汚染も。2003年9月11日、ニューヨークの犠牲者たちに追悼の意を表すために世界一周のキャンドル・イベントのようなものが行われました。10月7日、米国のアフガニスタン爆撃二周年に、アフガニスタンで殺された人々への追悼の意を、同じ人々は表すのでしょうか。「アフガニスタンの死者たちには、黙祷も捧げられず、米国高官や芸能界の有名人が参加する追悼式典もなく、各国の元首から送られるお悔やみの言葉もなく、犠牲者の家族のための何百万ドルという寄付もない。こうしたことを一切含めないとしても、アフガンで米国が行った殺戮は、九月一一日をしのいでいるのである」(引用はW・ブルム『アメリカの国家犯罪全書』より、以下同)。

アフガニスタンで、2001年10月、米国の戦闘機がチョーカー・カレーズの農村に機銃を乱射して爆撃し、93名の一般市民を殺したとき、ペンタゴンのある職員は「これらの村人は、われわれが死んでほしいと思ったから死んだのだ」と言い放ち、米国防長官ドナルド・ラムズフェルドは「その村のことには答えられない」と述べています。

そして、米国のフォックス・ネットワークのある報道は、そもそもなぜ記者たちが一般市民の死者についてわざわざ報道しなくてはならないのかわからないと述べていました。司会者は、「私がもっている疑問は、歴史的に見て、一般市民の犠牲者というのは、定義上、戦争の一部なのではないかというものだ。これまで扱われてきたように大ニュースとされるべきだろうか」と言い、ナショナル・パブリック・ラジオのゲストもこれに同意して、「そうではないだろう。つまり、戦争は人々を殺すことなのだから、一般市民犠牲者は不可避だ」と答えています。

さらに、アフガニスタンの人々に多数の宣伝ビラがまかれました。2001年10月20日頃に投下されたビラには次のように書かれたものがあると言います。
タリバンの支配は楽しいでしょうか。恐怖におののく生活を誇りに思えますか。家族が何世代にもわたり暮らしてきた土地がテロリストの訓練場にされて幸せでしょうか。アフガニスタンを石器時代に引き戻し、イスラムに悪名を着せる政権を望みますか。テロリストたちを匿まう政府のもとでの生活を誇りとしますか。過激な原理主義者たちに支配された国に住んでいることを自慢できますか。タリバンはあなたの国から文化と遺産を盗み去りました。民族的記念碑や文化的遺産を破壊しました。タリバンは、外国人の助言に従って、武力と暴力、恐怖でアフガニスタンを支配しています。また、自分たちのイスラムが唯一絶対の真の崇高なイスラムであると主張します。タリバンは、実際には無知なのに、自分たちのことを宗教の専門家であると考えています。人を殺し、不正をなし、人々を貧困状態にとどめておきながら、それを、神の名のもとで行なっていると主張するのです。
再びトニー・ブレア:「アフガンの人々に対して、我々はこの献身を為す。歩き去ることはしない・・・・・・タリバン政権が交代したときには、後継の政権が、確実に、広い基盤に基づき、全てのエスニック・グループを団結させ、皆さんを惨めな存在に貶めている貧困から抜け出す道を何か与えるようなものになるよう皆さんに協力する」。

そしてジョージ・ブッシュ:「アフガニスタンの抑圧された人々は、アメリカとその同盟諸国の気前の良さを知ることになるだろう。軍事標的を攻撃している一方で、我々は、アフガニスタンで餓え、苦しんでいる男女と子供に食料と薬品、必需品を投下している。米国はアフガンの人々の友人である」。

そして米国ではこんなおもちゃが発売されたようです。

つい最近、英国労働党大会で、トニー・ブレアは、涙を流さんばかりの感情を込めて、「私は謝らない」、「私は自分のしたことを誇りに思っている」と述べました。国際法に違反したイラク侵略で1万人近い市民とさらに多くの戦闘員を殺し、劣化ウランによって多くの出生異常を引き起こし、多くの人々に放射能によるゆっくりとした死をもたらし、イラクの資源を掠奪すべく占領を進めている中で「私は自分のしたことを誇りに思っている」と述べる人物を、どのように評価すればよいのでしょうか。

こうした中、イラクには、日本の小泉首相が、憲法に違反して、国際法に違反した不法占領の手助けをするために、自衛隊を送り込もうとしています。自衛隊員を「棄てゴマ」のように扱い、何ら義のないどころかあからさまな犯罪に荷担してイラクの人々を弾圧する行為をさせるため、劣化ウランの影響を被る環境の中に、自分の勝手な政策と欲望に従って。川口外相は「米国は劣化ウランを用いたとは言っていない」と述べ、あたかもそれが劣化ウランが用いられなかったことを示す証拠であるかのように開き直っています。

アフガニスタン国際戦争犯罪民衆法廷の活動およびペシャワール会による紹介もご覧下さい。なお、本文書、苦手な文体で、通常でも乱れがちの翻訳が乱れています。すみません。

アフガニスタン侵略から2年が経ちました。

  益岡賢 2003年10月7日

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