自治労音協通信

  3面 NO27号/98.5.15発行

 <音楽夜話>ブルーグラスを語るpart4

(自治労音協事務局長)松本敏之

 今回はいよいよBill Monroe and His Blue Grass Boysについて書きます。

Monroe Brothersの解散の後、ブルーグラスの父Bill Monroeは一時期ストリングバンドを結成していたとも言われていますが、一九三九年にCleo Davis(vo.g)、Art Wooten(f)、Jim Holmes(bs)らと結成したのがBlue Grass Boysを名乗った最初のようです(メンバーには他説あり)。このバンドは何回かメンバーを交替した後、一九四五年(前年という説もある)には、Lester Flatt(g.vo)、Earl Scruggs(bj)、Chubby Wise(f)、Cedric Rainwater(bs)というメンバーになり、今で言うブルーグラススタイルの演奏をするようになりました。

私の手元に、「ビル・モンロー・グレーテスト・ヒット」(CBS・ソニーレコードSOPC 57116)というレコードがあります。一曲目のKentucky WaltzはBill Monroe and His Blue Grass Boysの一九四六年の最初のヒット曲として知られていますが、バンジョーはなくかわりにアコーディオンの演奏が聴けます。したがって、一九四四年以前の録音なのではないでしょうか。同じくFootprints In The SnowとBlue Moon Of Kentucky(ゆっくりとしたワルツ)は、編成こそはギター、マンドリン、フィドル、バンジョー、ベースですが、ブルーグラス・スタイルにはあと一歩のように思えます。それに対して、Toy Heart、Little Cabin Home On The Hill、I'm Going Back To Old Kentucky、 Molly And Tenbrooksでは、典型的なアップテンポのブルーグラスが、Summertime Is Past And Goneではトリオコーラスによるブルーグラス・ワルツが、The Old Cross Roadではスローな宗教歌のブルーグラス・バージョンが、そしてBlue Grass Breakdownでは典型的なブルーグラス・インストロメンタルを聴くことができます。この時期のBlue Grass Boysの魅力は、まずLesterとBillとのデュオコーラス、そしてEarlのバンジョーだけでなくBillのマンドリン、Chubbyのフィドルと、ブルーグラスのソロスタイルの真髄が聴けることです。

一九四八年に、Blue Grass BoysはBill Monroeを除いてメンバーが相次いでグループを離れ、独自にFlatt, Scruggs And The Foggy Moutain Boysを結成します。Mac Wiseman(g.vo)、Don Reno(bj)、Birch Monroe(f)、Joel Price(bs)というメンバーに再編成されます。先にあげたレコードに入っているCan't You Hear Me Callin'はこの頃の録音です。しかし、翌年にはDon Renoもグループを離れ、独自のバンドの結成に進みます。

Bill Monroe and His Blue Grass Boysは実にメンバーの変化の激しいバンドで、一九五一年以来本拠地にしているBrown County Jamboreeでも出演するごとにメンバーの誰かが新しく入れ替わってるものだったとも言われています。Carter Stanley(一九五一年ごろ)、Jimmy Martin(一九五〇年〜一九五四年ごろ)、Sonny Osbone(一九五二年ごろ)、Bill Keith(一九六三年ごろ)らも一時期Blue Grass Boysで活躍していました。

Bill Monroe and His Blue Grass Boysのレコードは、一九四六年以降の録音のものはどれもお奨めです(一九五〇年代の録音でハモンドオルガンや電気楽器を使用したものもありますが、ブルーグラスを聴きたい人にはお奨めできません)。私の好きなのは、すでにご紹介したもののほか、THE HIGH, LONESOME SOUND(一九五〇年代前半の録音を中心に、Billのソロ・ヴォーカルものを集めた)、BLUE GRASS TIME(一九六六年、Richard Greene(f)、Peter Rowan(g)、Lamar Grier(bj)、James William Monroe(bs.vo)。このメンバーはBlue Grass Boysの頂点のひとつであり、とくに当時二十二歳のRichard Greeneのフィドルがすごい)、UNCLE PEN(一九六九年前後、Kenny Bakerのフィドルを中心にしたインストロメンタル曲集)などです。Brown County Jamboreeで開かれるBean Blossomフェスティバルのライブ録音も何種類か出ています。ライブの雰囲気が楽しめます。

話が少しそれますが、音楽の演奏スタイルとしてのブルーグラス(bluegrass)いうときは、間に「・」やスペースを入れないのがふつうです。それに対して、Bill Monroeのバンドの固有名詞としては、ブルー・グラス・ボーイズ(Blue Grass Boys)と「・」やスペースを入れることに決まっています。「bluegrass」を辞書で引くと、スズメノカタビラ属の草、それから、米国Kentucky州中部地方(bluegrassが豊富に生える)、と出てきます。しかし、Bill Monroeの出身地のOhio郡はKentucky州でも西部にあたります。バンドの名前がブルー・グラス(Blue Grass)というのも、そのためでしょうか。いずれにしても、Blue Grass Boysのスタイルをまねて演奏するグループが増えてきた一九五〇年代に入って、ディスクジョッキーなどが、Blue Grass BoysかどうかにかかわらずBlue Grass Boysのスタイルだよ、という意味でBluegrassと呼び始めたのでしょう。

シリーズの第二話で、The Carter Familyのリードヴォーカル兼オートハープ奏者の名前が間違っていました。Sara Carterが正しいようです。訂正しておわびします。

次回は、Flatt,Scruggs And The Foggy Mountain Boysについて書きます。 

(つづく)

私と音楽 パート2 『ボサノバはポルトガル語』

山本英二(新潟県職労)

エリス・レジーナは、ブラジルの美空ひばり(的な存在だと思う、たぶん)。ピョンヤンで行われた世界青年学生祭典に参加したとき、途中よったソ連(当時)のハバロフスクで、ソ連人のガイドの女性から、「ソ連の歌を知っていますか?」と聞かれ、「『100万本のバラ』。プガチョワの」と答えたら、「アーラ・プガチョワはソ連でNO1」と返されたことがある。僕は、エリスはきっとそれと同じなんだろうと勝手に思っている。

エリスはボサノバの歌い手ではない。声のタイプからしてもそうではないし、音楽性からも、ボサノバというMPB(ブラジルポピュラー音楽)の一ジャンルには収まりきれない程の幅だ。だからなのか、彼女が歌うボサノバの名曲はとても素晴らしい。先号に書いた「ばらに降る雨」や、「3月の雨」「コルコバド」(いずれもA.C.ジョビンの曲で、原題「ELIS&TOM」、邦題「ばらに降る雨〜アントニオ・カルロス・ジョビン/エリス・レジーナ・イン・L.A.」(PHILIPS社 PHCAー6)というCDに収録されている)は特にそうだ。繰り返しになるが、しかしだからと言ってそれが彼女のすべてでは決してない。「ウパネギーニョ」という激しい曲も、「巡礼」というしっとりした曲も歌いこなせる。

ただ残念なのは、彼女はもうこの世にいないということだ。82年に37歳の若さで亡くなった。僕が「日本」という国に住んでいても、またたとえブラジルにいたとしても、彼女の生の歌声を聞くことはできない。

エリスのことが長くなってしまった。話題を変えよう。

ところで、同じ曲でも歌い手によってだいぶ雰囲気が変わるように、同じ歌い手が歌っても、ポルトガル語と英語ではまるっきり違うものになってしまう。御存知のようにボサノバはブラジルで生まれた。だからもともと歌詞はポルトガル語(と言っても、ブラジルで話されているのは、ポルトガルで話されているのと発音が違っている。

だから当然ポルトガルでのポルトガル語で歌っても、やはり違ったものになるだろう)で作られている。それなのに、やがてアメリカ合衆国へと進出する段階で、英語の歌詞に作り替えられていることがある。「イパネマの娘」も「コルコバド」もそうだ。

これらのように、英語で歌われてもまあまあ許せる曲もあるが、しかしボサノバはポルトガル語と切り離せないもの。ポルトガル語の響きと曲そのものが一体となってボサノバを作っている。ポルトガル語だからこそボサノバなのだ。A.C.ジョビンのCDでも、2つの言葉が混在しているものがあるが、英語の方は味のなくなったチューインガムのよう。

僕はどちらの言葉も使えないので、歌を聞きながら意味を考えるなんてことはしない。だからなおさら曲の響き、雰囲気にこだわってしまうのかもしれないが、この違いはあまりにも大き過ぎると思っている。

(つづく)

第6回自治労音楽協議会総会報告

第六回自治労音楽協議会定期総会は、一九九八年四月二十五日、大音楽会終了後の午後四半時より、県庁総合庁舎会議室で開催されました。

代議員二十三名と傍聴者(青年部常任委員)、また新規加入の仲間も参加しました。当日119名のほとんどが、委任状参加となりましたが、議長に沖縄県本部那覇市職労の山城文雄さんが選出されました。

桑野会長の挨拶のあと、松本事務局長が、九七経過報告と決算報告を行い、拍手で承認されました。

また、九八活動計画および予算案も全員の拍手で確認されました。

1998年度活動方針(案)(1998年4月〜1999年3月)

1998年度活動方針(案)(1998年4月〜1999年3月)

1.自治労音楽協議会の組織を確立します

(1)自治労の組合員で音楽活動をしている人々に、音協加入を積極的に呼びかけます。

(2)各県、地連ごとの会員、サークル間の連絡をつくりだすとともに、できるところから県支部を結成します。

(3)幹事会を開催します。

(4)次期総会は、1998年の第32回はたらくものの音楽祭、第13回自治労コンサートと同時期に開催します。

(5)自治労との組織的な関係の確立を引き続きめざします。

(6)サークル活動の活性化をめざします。このためにも実態把握のため調査アンケートを引き続き実施します。

2.自治労の音楽・文化事業に協力します。

自治労の音楽・文化事業は次のようなものが計画されています。これらに積極的に協力し、会員の参加を呼びかけます。また、さらに音楽・文化事業を拡大するようはたらきかけます。

(1)第11回中央大交流集会(8月1日(土)〜8月3日(月)/山梨県山中湖/文化班は7月30日(木)〜事前合宿

(2)第1998回仲間の歌コンクール(5月20日締切)

(3)第14回自治労コンサート(99年)

(4)第19回青年女性音楽活動家養成講座(5月30(土)〜6月1(月)日/全林野会館予定)

3.日音協の事業に協力します。

(1)第4回日音協セミナー(97年度は未実施)

(2)ブロック別日音協合宿(98.6〜99.1月)

(3)第32回はたらくものの音楽祭(開催予定未定)

(4)機関紙『音楽運動』、歌集「うたのひろば」など出版事業

4.各地域で独自のコンサートなどを追求します。

当面、広島などで開催している自治労うたごえ祭典を各地に広げるとともに、サークルまたは県単位で自治労音協会員合同のコンサートなどをめざします。

5.自治労仲間の歌のCDを作成します。

会員の加入しているサークルや、作者が主体となってオムニバス形式でCDの制作をとりくみます。

編曲、録音等自治労音協でスタッフ体制をつくります。

枚数は、各サークル、個人の注文で増す刷りしますが、事前に参加者の必要枚数を集約し、コストを下げるよう検討します。

<1998年度役員体制>

会 長  桑野 功(北海道)

副会長  磯野友一(富山)、細川 剛(香川)、重田善吉(広島)

(ブロック選出 )

幹 事 渡辺裕美(北海道)、阿閉 智(北信)、山本英二(東北)、植木進(関東甲)、江崎健郎(東海)、岩田宏之(近畿)

 同  大霜幸治 (中国)、三好康夫(四国)、吉田斉子(九州)

事務局長 松本敏之 (栃木)

事務局次長 小川典子 (東京)、中山朗(埼玉)、吉田雅人(北海道)

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