強制連行・強制労働

アジア・太平洋戦争において日本は、朝鮮人を中心に膨大な数のアジアの人々を強制的に連行して過酷な労働などを強いた。


●朝鮮人への「徴用」と「徴兵」

金世国(キム・セグ) 1926年生まれ
「通っていた尋常小学校から、教師に連行されました。少年少女約100人が働いたのは、和歌山県の紡績工場です。1年間に十余人もが事故で死んだんですよ」(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・平壌市)

金到隣(キム・チリン) 1924年生まれ
「1944年11月に『赤紙』で召集され、愛知県刈谷市で『農耕勤務隊』として農作業をしました。上等兵にクワで殴られて折れた指は、今も曲げることができません」(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・平壌市)

崔翼天(チェ・イクチョン) 1923年生まれ
「愛知県の『中島飛行機半田製作所』では、海軍機の組み立てをしました。誰かが仕事をしくじると、小隊30人全員が力いっぱい棒で叩かれました」。(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・咸興市で妻と)

安成徳(アン・ソンドク) 1929年生まれ
「仁川(インチョン)の『芝浦通信機』の工場で、13〜16歳の子供約200人が1日15〜16時間も土木作業をさせられたんです。ほとんどが栄養失調になりました」(撮影地=朝鮮民主主義人民共和国・平壌市)

金永吉(キム・ヨンギル) 1917年生まれ
「1942年に『徴用』され、サハリンへ来たんです。働かされたのは、恵須取にあった塔路炭鉱です。戦後も、年金生活に入るまで同じ炭鉱で働き続けました」(撮影地=ロシア・サハリン)

強制連行によってサハリンで暮らし続けてきた父親を、韓国の息子が訪ねて来た。敗戦後、日本政府はサハリンにいた日本人約30万人を積極的に帰国させたが、朝鮮から連行した朝鮮人約4万3000人は置き去りにした。(撮影地=ロシア・サハリン)

鄭商根(チョン・サングン) 1921年生まれ
「軍属としてマーシャル諸島へ連れて行かれ、米軍の爆撃で右腕の肘から先を失ったんです。故郷に戻っても農業ができないので、日本で廃品回収や古本屋をしてきました」(撮影地=日本・大阪)

洪鐘黙(ホン・ジョンモク) 1919年生まれ
「軍属として、『泰緬鉄道』の建設現場で連合国軍捕虜の監視をさせられました。私たちには何の権限もなかったのに、捕虜を虐待したとして戦後の戦犯裁判で死刑判決を受けたんです」(撮影地=日本・東京)



●朝鮮人女性への強制連行

李鐘淑(イ・ジョンスク) 1931年生まれ
「日本へ行って働けば女学校の卒業証書がもらえると聞き、富山県の『不二越』へ行きました。ですが給料は払われず、『87円76銭』と貯金金額を手帳に記入してくれただけでした」(撮影地=韓国・束草市)

金恵玉(キム・ヘオク) 1931年生まれ
「11〜16歳の少女約300人が、海を渡って名古屋の『三菱重工』へ行きました。そこで戦闘機の組み立てをしたんです。今でも悲しいのは、地震で6人の仲間が亡くなったことです」(撮影地=韓国・羅州市)



●「浮島丸」と「太平丸」

孫東培(ソン・トンペ) 1916年生まれ
「1944年5月に徴用され、青森県で飛行場建設をしました。戦争が終わり、帰国するために大湊で『浮島丸』に乗ったんです。8月24日、京都の舞鶴湾で船は爆発して沈みました」(撮影地=韓国・全羅北道)

朴載夏(パク・チェハ) 1923年生まれ
「乗っていた『浮島丸』は釜山へ向かっていました。陸地が見えるのでおかしいと思っていたら爆発しました。韓国へ行って報復を受けたくない日本人船員が、わざと爆破したんです」(撮影地=韓国・忠清北道)

黄宗洙(ファン・チョンス) 1926年生まれ
「朝鮮人の軍属1000人が小樽で『太平丸』に乗せられました。目的地の北千島パラムシル島の近くで、米軍の潜水艦に2発の魚雷で沈められたんです」(撮影地・朝鮮民主主義人民共和国・平壌市)

全(チョン)クムドル 1922年生まれ
「『太平丸』が沈んだ場所からはアライト島が見えていたので、その場所を今でも特定できます。北千島で体を痛めたため、故郷に戻ってからは定職に就くことができませんでした」(撮影地=韓国・春川市)


●先住民族の「日本兵」

台湾先住民族の元軍人・軍属とその遺族が、日本政府に補償を求めてデモをした。先住民族は「高砂義勇隊」などとしてフィリピンやニューギニアの激戦地に送られ、多くの死者・負傷者を出した。(撮影地=台湾・台北市)

サハリンに暮らす先住民族のウィルタとニブヒの青年たちは、日本軍によってソ連との国境警備やソ連領内での偵察活動をさせられた。日本の敗戦によって、先住民族56人がソ連軍に捕まりシベリアへ送られた。(撮影地=ロシア・サハリン)


●インドネシア人「兵補」

インドネシアを占領した日本軍は、インドネシア人青年5〜6万人を「兵補」という名の補助兵力として集めた。軍属であるのに日本軍の各部隊に配属され、インドネシアの外にまで送られて戦闘に参加した。(撮影地=インドネシア・スカブミ)

タイに暮らしているインドネシア人元「兵補」たち。敗戦後、日本はアジア各地に送った「兵補」を帰国させず、その国へ置き去りにした。そのため、インドネシアから遠く離れたタイには、帰国することができなかった人たちがいる。(撮影地=タイ・バンコク)

WEB写真展「戦争と日本」へ戻る