ラダイトからボルサまで 第3章

~労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る~
1976年

第3章:地方的ヨコ組織からの出発
――アメリカの場合

2000.11.4 WEB雑誌『憎まれ愚痴』60号掲載

1.メカニクス・ユニオン

 フォスターは、1827年にフィラデルフィアで結成された組織を、中央評議会(労働評議会のアメリカ名)と呼び、これが「世界最初のもの」としている。

 この組織は、メカニクス・ユニオン・オブ・トレイド・アソシエイションズという長い名称を持っていた。フォーナー[●注14]がその成員として挙げているのは、大工、石工、石切り工、裁縫師、艤装工、沖仲仕、指物師である。驚いたことには、メカニクスの現代的な意味をなす「機械工」は、むしろ、まったく含まれていない。

注14:Philip S. Foner, History of the Labor Movement in the United States, International Publisher, New York, 1947.

 メカニクス・ユニオンは、手工業者、職人の大同団結を意味するのであって、これを「機械工」組合などという職業別的ないしは産業別的な組織と紛らわしい訳名で表現してしまうと、まったくの誤訳となるのである。

 フォーナーは、また、このメカニクス・ユニオンを、アメリカの労働者による最初の全市的規模の同盟体としており、職種(トレイズ)の違いを超えた結集を目指すものと強調している。フォスターは、これとは別に、コモンズ[●注15]の主張を取り入れて、この1827年のフィラデルフィアのメカニクス・ユニオンをもって、世界最初の中央評議会(Central Council)と記したのである[●注16]。

注15:出典は、John R. Commons and Associates, History of Labor in the United States, New York, 1918. とあるが、原著に接することは出来なかった。
注16:なお、フォーナーによれば、これより4年前の1823年に印刷工の同職組合がニューオーリンズで結成されていた記録があり、その結成会場は「メカニクス・ホール」であった。つまり、この1823年以前から、メカニクスを名乗る幅広い手工職人たちの共同のホールが設立されていたことになる。

 ところが、以上のような意味でなら、すでに指摘しておいたように、1818年のマンチェスターにおける「博愛協会」もしくは「博愛ハーキュリーズ」が先駆をなしており、同じ年にロンドンでこれに習って、メカニクスの共同体が創られている。1829~1834年のトレイズ・ユニオンは、さらにその形態を強めている。しかし、たとえばウェッブ夫妻が、それらの組織形態を今日の労働評議会につながるものとして、イギリス労働運動史の中に記していなかったがゆえに、それらはヨコ組織として認知されていなかったのである。これまでは、各国史における評価が、そのまま並列的に採用されていたわけである。

 いずれにしても、世界各国の労働組合組織を総合的に再評価するためには、これでは片手落ちと言わざるを得ない。よって、本稿においては、コモンズの考え方をイギリス労働組合運動史にも適用し、1818年のマンチェスターにおける「博愛協会」の設立をもって、世界最初の地方的ヨコ組織の誕生としたのである。

2.再び「トレイズ・ユニオン」

 フィラデルフィアのメカニクス・ユニオンはまた、フォーナーによって、アメリカ労働組合運動の本格的な出発点とも主張されている。すなわち、アメリカ労働組合運動は、同職組合的な段階を一挙に飛び越えて、最初から地方的ヨコ組織の結成を遂げたのである。[●注17]

注17:4フォーナーによれば、1823年に印刷工の同職組合がニューオーリンズで組織された記録があるが、その結成会場は、メカニクス・ホールであった。つまり、それ以前に、幅広い手工職人の共同のホールが設立されていたようである。

 1831年には、この流れを汲んで、ニューイングランド・アソシエイションズが生まれる。その成員は、メカニクスの他に農民(農業労働者か?)その他となっている。

 1833年には、ニューヨークの大工職人のストライキに、職種を超えた支援活動が行われ、その成功を土台として、ニューヨーク一般トレイズ・ユニオン(General Trades Union of New York)が結成された。全市的規模のトレイズ・ユニオンである。この組織運動は、1829年~1834年のイギリスのそれと、まったく歩調を同じくしている。当然、用語も含めた国際的な相互交流がなされたのであろう。

 同じ1833年には、フィラデルフィア・トレイズ・ユニオン(The Philadelphia Trades Union)も結成されており、1827年のメカニクス・ユニオンはその先駆としての歴史的役割を果たし終えたようである。

 トレイズ・ユニオンは、その内部に職種別の支部(societies)を持つことになっていたが、フィラデルフィアで3支部40名で発足した組織は、1836年に50支部1万名を数えるまでに発展した。また、この年になると、アメリカ全体で、少なくとも13の都市に全市的なトレイズ・ユニオンが数えられた。

 なお、フォスターは、これらのトレイズ・ユニオンについて、地方的労働評議会(Local labor councils)という表現を用いている。

3.全国的結集を目指すもの

 1866年には、全国労働同盟が結成された。

 フォスターは、この全国組織結成大会の代議員について、全代議員60名の内、「38名は地方的な労働組合から、6名は8時間制同盟から、12名は地方的労働評議会から、3名は全国的組合から」[●注18]参加したとしている。これに対して、「全国的な労働組合の大半は超然として参加しなかった」というのであるから、この全国的な結集については、圧倒的にヨコ組織の方が熱心だったことになる。

注18:『黒人の歴史』では、「43の地方同盟、11の同業者会議、4つの8時間同盟、1つの全国組合と1つの国際組合を代表する68名の代議員」となっている。

 このアメリカの全国同盟の結成は、1866年という年代が示すように、南北戦争(1861~1865)の終結後の新しい波を象徴する動きであった。同盟は、「人種、性または信仰にかかわりなく、全労働者階級を組織する」という原則を宣言した。

4.黒人を含む労働騎士団

 1869年にはフィラデルフィアで、労働騎士団(Knights of Labor)という一見古めかしい名称の組織が誕生した。ウェッブ夫妻は、この組織が1834年のイギリスの大連合(既出:Grand National Consolidated Trades Union)に似ていることに注目している。

 労働騎士団は、「民族、性別、信条または皮膚の色にかかわりなく、すべての部門の尊敬すべき勤労者を一つに結集する」という目標を掲げた。団員の10%は黒人だった。時あたかも、奴隷制の廃止と北部工業資本家の全国制覇の時代であり、労働騎士団は新しい労働者層の心をつかんで、未曾有の組織拡大を続けた。

 1886年までに労働騎士団は、15の州および地方の会を持ち、約60万人という当時では世界最大の労働者団体となった。

 同じ1886年には、その5月1日に8時間労働を要求する大ゼネストが決行され、メーデーの起源となった。まさにアメリカ労働組合運動の最大かつ爆発的な高揚期のひとつである。その前段をなす1870年代は、連邦政府の軍隊と会社の武装守衛、暴力団と対決する戦闘的なストライキの時代であった。

 1877年の鉄道ストライキでは、社会主義者に指導された労働者が、セントルイス市を一週間占拠した。ブルジョワ新聞は、「これはストライキではなくて革命だ」と騒ぎ立て、以来、すべての大都市に州兵隊本部が設置されるようになった。

 労働騎士団は、このような時代を背景として、同様の組織方針を持ち、50万人を組織し、同様の戦闘的な闘争を繰り広げ、ありとあらゆる手段による弾圧の対象となったが、1年で崩壊した国際的先輩、イギリス大トレイズ・ユニオンに比べれば、はるかに長い期間を持ち堪えた。この騎士団が消滅したのは1890年とされているから、約20年は続いたことになる。

 崩壊の原因は、第一に、熟練工の離反と現在まで続くアメリカ労働総同盟(AFL:1881~)の結成であり、第二に、主要幹部の腐敗と失敗にありとされている。

 AFLは、当初から明らかに、イギリスのTUC型の職業別的かつ穏健な労働組合運動を目指していた。次の項目で紹介する「世界産業労働者組合」は、その組織綱領で、AFLを「反動的職業別組合主義」と批判していた。

 それでも一時は、AFLと労働騎士団との合併の努力がなされたとあるから、もしもヨコ組織型のトレイズ・ユニオン、労働騎士団が、あと数年の余命を保ち、全国的センターに合同することができたなら、つぎの章で歴史的な経過を見るフランスのCGT型の組織構造に転生し得たのかもしれない。しかし、事実経過は逆の方向を辿った。労働騎士団は、AFLと「取っ組み合い」とまで表現される抗争を繰り広げながら、自滅してしまったのである。

5.世界的ワーカーズ・ユニオン、IWW

 もちろん、アメリカの労働組合運動は、AFLの反動的な組織方針に牛耳られっぱなしになったわけではない。

 1905年には、AFLの反動的官僚支配に反対する勢力が、より大きな構想を掲げて、世界産業労働者組合(Industrial Workers of the World. 以下、IWW)を結成した。このIWWの組織方針は、先に見たイギリスのワーカーズ・ユニオンのそれであった。イギリスでも、現代につながるTUCのタテ組織型官僚支配に批判的な勢力が、ヨコ組織型の一般組合を嵐のような勢いで結成し、ワーカーズという用語を使っていたのである。ここでも当然のことながら、国際的な連携を見るべきであろう。

 アメリカ発のIWWも、イギリスのトレイズ・ユニオン以来の理想、職業の枠を超え、さらには産業の枠を超えたワン・ビッグ・ユニオン、単一大組合計画を熱烈に支持していた。

 IWWはまた、外国生まれのアメリカ労働者を、積極的に組織化した。さらに、その名の示すとおりに、世界組織を目指し、イギリスの植民地諸国やラテン・アメリカに進出した。その点から見ると、IWWは、AFLのみならずイギリスのTUCに対しても、組織的な挑戦を行ったことになる。

6.「産業的」組織とサンディカリズム

 しかし、IWWに関して、もう一つの注目すべき点は、ここで初めて、「産業的」(Industrial)という表現が組織名の中に登場することである。しかもこの表現と、フランスからもたらされたサンディカリズム(直訳は組合主義)の思想潮流とが、アメリカで合流していたのである。

 IWWの結成総会に参加した総数9万人の成員を擁する34の組織は、いずれも社会主義者の指導下にあり、サンディカリズムの傾向を帯びたと記録されている。組織綱領は、先にも述べたように、AFLの「反動的職業別組合主義」に真っ向から反対するものであって、「産業的に組織」することが強調されていた。そして具体的には、ワーカーズ・ユニオンなどの発想で、職業ばかりか産業の枠をも超えたワン・ビッグ・ユニオンの組織化が進んだのである。

 つまり、「産業的」(Industrial)という表現は、決して、産業「別」に分けて組織化するという意味ではなかった。この用語を採用した人々の脳裏にあったのは、まず、労働者が各産業ごとに分かれて存在するという状態ではなくて、むしろ逆に、すべての労働者が、今や国際的な独占体を形成し、帝国主義化しようとする産業(Industry)の黒い影に対して、共通の階級的基盤で結集すべきであるという考えであった。

 ついで、ウェッブ夫妻は、このIWWと、イギリスの1834年の大トレイズ・ユニオンが「いちじるしく類似している」と主張しているが、その比較の主要点は、「地方および中央の組合の連盟からなる産業の共和国という同じ概念」などである。この概念は、オーウェンの共同組合計画に起源を発するものであって、後年、「空想的」の評価が加えられはするものの、資本主義的生産様式の否定を目指し、未来に産業の共和国を建設するという思想を、明白に表現しており、地方分権的な発想が強かった。

 IWWとサンディカリストの運動は、イギリスのTUCにも強烈な影響を与えた。1910年には、TUC加盟と未加盟の職業別組合の間で、産業的な大合同運動が展開された。この大合同運動を消極的に観察する場合には、「職業別」のタテ組織を「産業別」のやや幅広いタテ組織に整理したという誤解が生まれかねない。

 ところが、歴史の核心的な事実は、そうではなくて、この大合同運動が展開された1910年から1915年の間に、TUCの加盟組合員数が約165万人から約268万人へと、一挙に100万人以上も激増しているころから明らかなように、従来の職業別の枠を超えて、婦人労働者を含む不熟練労働者の大量組織化が進んだのである。

 この大量組織化運動を積み重ね、その成功の力を駆って大合同運動の推進に当ったのは、ワーカーズ・ユニオンであり、一般労働組合運動であった。それらの新しい型の労働組合運動は、本来、全国的なワン・ビッグ・ユニオンを目指していたのであるが、現実的妥協として、中間的な組織形態に到達したのである。

 しかし、すでに述べたように、ワーカーズ、ジェネラルなどの名称は、今もなお各産業の組合に残っており、一般労働組合そのものも発展したのである。1917年に結成されたイギリスの全国一般労働者連盟は、総計80万人以上の組合員を擁していた。

7.イギリス・アメリカ型とフランス・イタリア型の中央結集方式

 だが、イギリスとアメリカでは、ヨコ組織型のワン・ビッグ・ユニオンへの指向は、大きく見れば以上のように、タテ型組織への合同ないし吸収、結果として消滅の方向を辿った。これに反して、フランスとイタリアでは、この指向が、組織的にも現代につながっている。

 時代背景としては、1905年のロシア第一次革命の失敗、1917年の第二次革命の成功、日露戦争、第一次世界大戦のみを挙げて置くが、いわゆる帝国主義戦争と社会主義革命の時代であった。この時代背景の下で、労働組合運動の各国における中央結集と国際的な連帯の動きが活発化したのであり、当然のことながら権力との関係が組織形態に刻まれたわけであるが、本稿では、ウェッブ夫妻の論評を簡略に紹介するにとどめる。

 ウェッブ夫妻は、1934年のイギリスの大トレイズ・ユニオンと「いちじるしく類似」した組織として、アメリカの労働騎士団、IWWの他に、フランスのCGTを挙げている。そして、この型の組織が、「治安判事や国の大臣たちの心に、まったく大げさな恐怖心をまき起こしたのであった」、と述べている。つまり、ヨコ型の組織は、特に弾圧の対象となったのである。

 なお、アメリカでは、その後、AFLに対抗して、より戦闘的なCIOが結成され、第二次世界大戦後にAFL-CIOとして合同するが、1947年当時の数字[●注19]が発見できた。

注19:Labor Dictionary. P. H. Casselman, Philosophical library, New York, 1949.

 このLabor Dictionaryによると、1947年当時、AFLは、104の全国および国際組合、4つの大産業部門、1234の直接加盟地方組合、49の州連合、768の市中央組織からなり、CIOは、39の全国・国際組合、36の州産業組合評議会、230の市・地区評議会からなっている。つまり、アメリカの場合には、全国中央組織に州・市・地区のヨコ組織が直接加盟している。この点では、イギリスのTUCよりは、フランスのCGT型に近い要素を持つ。


第4章:革命の落とし子・ブールスは生き残った―フランスの場合

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