木村愛二の生活と意見 2001年5月 から分離

ブラックパンサーなどのアメリカ黒人運動の暴力主義的ないしは威圧的体質への批判

2001.5.16.(水)(2019.8.7分離)

 先に、この「日記風」を、もっと軽く、もっと日記に近く、つまりは、できれば毎日でも記したいとの希望を述べたが、まるで実現しそうにない。電子手紙広場に参加していると、そちらの議論の方を優先してしまう。それを、こちらに転載するというのも、いかにも便宜的で、気が乗らない。

 そこで、思い切って、別途、電子手紙の自選特集を作った。そして、ここには、電子手紙広場に送るのには刺激が強過ぎる問題を記すことにした。

 こう考えた理由の一つには、インターネットを始めて直後の事件の経験がある。

 私と直接会って話したこともある同志社大学教授の渡辺武達とやらが、創価学会系の女性向け雑誌、『パンプキン』で私の悪口を書いていて(別途、わが電網宝庫に記事あり)、その阿呆が、民衆のメディア連絡会の電子手紙広場で執筆記事の宣伝をしているのを、発見してしまったのである。

 相手も雑誌に寄稿したり、単行本を出しているのだから、法的には、いわゆる「公人」の扱いとなる。執筆した責任を問い、質問するのは当然の行為なのだが、そういうことがまるで分からない前の管理人のM(公人扱いではないから仮名とする)が、「ネチケット」とやらに反すると、いきり立って、始末に負えない。

 馬鹿らしいから、一時、その電子手紙広場から退場した。しかし、考えてみれば、子供の遊びのような議論と情報交換の場で、大人の喧嘩が始まれば、驚く人もいるだろう。だから、これからは、そういう種類の意見は、ここで述べることにする。

まず第一が、アメリカの黒人運動のブラックパンサー党の問題である。

 ここで以下に再録する私の電子手紙は、電子手紙広場には送っていない。ごく一部の友人に警告として送ったのみで、その中で記した通りに、「私としたことが、意外にも遠慮して、皆様には、報告していないことなのです」という性質の内容である。

 なぜ、電子手紙広場に報告しなかったかというと、ブラックパンサー党幹部で、死刑囚の黒人、ムミアの問題を、自分のアイデンティティにして、ムミアの伝記、『死の影の谷間から』の共訳書出版で、ひと仕事した思いでいるような「彼」を、私が、わざと、いじめているかのように受け取られては困るからである。

「彼」も、今や、雑誌記事を寄稿し、共訳書を出ているから、「公人」の扱いで、実名を記しても良いのだが、実は、その実名が分からない。そのことも以下の電子手紙に記した。

 私は、パレスチナ解放運動の記事の中で、アラファトPLOに関して、その暴力主義を批判している。小石を投げることに始まるとはいえ、子供だけで1,500人(註)も死ぬ結果を招いている暴力主義的抵抗運動に対して、あえて批判の対象としている私が、ブラックパンサーからネイション・オブ・イスラムに至るまでのアメリカ黒人運動の暴力主義的ないしは威圧的体質への批判を躊躇うのは、筋が通らない。

註:米軍放送の中のアメリカ公共ラディオ報道によるアラブ側の数字。拙訳『偽イスラエル政治神話』p.257.では、イスラエルの人権同盟、ベートセレムの数字として17歳以下を233人としている。

 私は、やはり、1960年代以降に激化したブラックパンサー運動を、日本の赤軍派に類したものと考えている。さらには、その後に燃え盛ったアメリカの白人優越主義の狂気をも、その反動と位置付けており、行き過ぎの運動の犯罪的性質については、徹底的な批判を展開する予定である。その無反省を放置すれば、またまた、同じ愚行が再生産される可能性が高いからである。これも本当に困ったことだから、この件は、当面、親展で個人宛に送った電子手紙から、上記の「私としたことが、意外にも遠慮して、皆様には、報告していないことなのです」という部分の他にも一部を削除して、わが電網宝庫の中のここだけに直接入力して置く。


送信日時 : 2001年 4月 17日 火曜日 7:57 AM
件名 : Re: 『死の影の谷間から』 これは親展です。

 ご存じの通り、民衆のメディア連絡会の例会でのムミア報告の際、「ムミア支援のデモ」が、事件の現場で立ち止まりもせず、いささか議論になりました。

 あの怪し気なTY放送業界のそのまた苦界に身を沈めていた私は、映像記録の使われ方には敏感です。はてさて面妖な、と思ったものの、自ら偽名と呟き、5年牢屋にいたと呟き、その癖、ムミアへの関心を自らの体験と結び付けて語ろうとはせず、非常に攻撃的で無気味な彼とは、接触したくなかったので、黙っていました。

 ところが、その直後に、ニューヨークで開かれた「NATOを裁く独立戦争犯罪法廷」に参加した際、以下の三つの現象を見聞したのです。

 第一は、その法廷の主催者の国際行動センターの事務所の壁に、ムミア支援組織の粗末な横幕が貼ってあったことです。

 第二は、しかし、法廷(とはいっても実は寄せ集めの大衆集会ですが)では、他のあらゆる市民運動、国際運動、イラク、キューバ、ユーゴなどの大使、ごちゃまぜの発言があったのに、死刑囚という決定的に重要なはずのムミアの支援者の出番はありませんでした。午後になってから、法廷の後方にムミア支援者の資料販売用の机が設置され、他よりは大声の呼び込みでしたが、誰も近寄りませんでした。

 その直前、昼飯時、午前中に家庭内暴力問題を訴えた黒人女性が隣にいたので、私が、ムミアの支援でこちらにきた知り合いがいるが、と言った途端、彼女は、「ムミア、フン!」と、顔色が蒼く見える程の激しい怒りを示し、取りつく島もなくなりました。

 私は、ブラック・パンサーに詳しくないのですが、日本の全共闘時代と同じく、毛沢東の「革命は銃口から生まれる」発言を典型とする暴力主義時代の運動と分類しています。その暴力主義の反省が不十分な運動に対して、同じ肌の色の女性が、強い反発を隠そうともしないのです。

 できれば、気を付けて、実情を、お調べ下さい。