木村愛二の生活と意見 2001年2月 から分離

「目には目」の悪循環を断つ徹底的な唯物論の思想構築を成し遂げる「希望」

(マルクス批判4)2001.2.1(木)(2019.6.20分離)

 今回はマルクス批判序説(その4)とする。前々回の(その2)では、東京大学教授・岩井克人の「ユートピアの消滅」論を俎上に載せた。ユートピアやエレホンに対応する概念としては、中国にも「桃源郷」(陶淵明『桃花源記』)がある。日本の浦島太郎の乙姫御殿は、それこそ、アフリカの神話、または民話にまで溯る物語である。言葉としては「夢」とか「希望」とかもある。今後は、「希望」を、これらのユートピア概念のすべてを含む用語に位置付ける。

 この問題と並行して、このところ、いやでも毎日、考えざるを得ないのは、パレスチナ内戦の行方である。これは応用編でもある。そこで、今回は、その双方を意識しながら、一挙に結び付ける思想、または、「目には目を」にはじまり「テロにはテロを」にまで至った悪循環を断つ「希望」を考察する。考察の順序として、「希望」を実現する手段と、到達目標とを、分けることにする。手段と目標とは、混同されることが多いのである。その混同が間違いと失敗の源であると、私は、考えているのである。

「ガザで70%以上がインティファーダを支持」の世論調査の意味

 パレスチナでは、またはその一部を無法に占拠する偽イスラエルの領域では、ナチ協力者の系統の極右シャロンが、自動小銃を前向きに構えた武装警官隊を先頭にして、イスラム教徒が管理権を持つ聖地に乗り込み、アラブ人を挑発した。事実上の内戦の開始である。民衆の抵抗運動として位置付けられる「インティファーダ」が高揚し、小石を投げる子供たちが、連日のように殺されている。

 私は、この状態を、何らの行動にも出ずに見逃す状態に我慢できず、昨年11月27日には、アメリカ大使館の前で、初の英語演説を敢行した。演説の中で何度も繰り返したのは、次の台詞だった。文法的に正確かどうかは、別に気に病まなかったが、日本語は駄目で英語が達者なスペイン系の南米人が、私の英語を聞いて理解し、次回には同行すると申し出たから、一応、国際的には通用する台詞であると自認している。

「毎日、私は、パレスチナからの悲しい報告を受ける。なぜだ。なぜ、私の孫の年頃のパレスチナ人の子供たちが、小石を拾い、彼らの小さな、か弱い手に握り締め、撃ち殺されるかもしれないことを知りながら、重武装したイスラエルの兵士に向かって投げ付けるのか。なぜだ?」

 Every day, I receive sad reports from Parestine. Why? Why the little Parestinian boys about the age of my grandson, pick up small stones, grasp them in their little week hands, and throw them to the heavily armed Israeli soldiers, knowing that they might be shot to death. Why?

 私は、誰が正しいとか、誰が悪いとかは言わずに、「なぜだ?」と、問い掛けることに重点を置いた。

 その後、今年の1月末の米軍放送に入っていたアメリカの公共放送、NPRの「ガザ」現地ルポでは、報告者が、「パレスチナ人の組織が行ったガザの世論調査では70%以上がインティファーダを支持している」と語っていた。確かに、支持率は高いようである。しかし、この数字を逆に読むと、残りの「30%弱」は、「インティファーダを支持していない」と、「パレスチナ人の組織」に対して、表明したことになるのである。

 私は、現地の詳しい実情を知らないから、評価を保留せざるを得ないのであるが、イスラエルの暴虐に対する憤激が沸騰している被占領地のガザで、仲間のパレスチナ人の組織から質問を受けて、「インティファーダ」戦術に反対を表明するのは、むしろ、個人的な勇気を必要とする行為なのではないのだろうか。まずは、自分が経験した労働組合運動の場合などと比較して考えると、通常、怒りが高まっている時には、いわゆる主戦論が勝ちを占めるものである。つぎには、支持率は高いとしても、「インティファーダ」に実際に参加し、生命の危険に身を晒す者は、ごく少数なのである。パレスチナ人口の70%の一斉蜂起にはなっていないのである。

「インティファーダ」や「自殺爆弾」に至る闘争を、熱烈に呼び掛ける宗教的な指導者もいるようだが、それらの宗教的な指導者たち自身は、最前線に立っているのだろうか。状況が違うと言われるかもしれないが、私自身は、1960年安保闘争で国会に突入した。そこで同じ学年の文学部の女子学生、樺美智子が死んだ。この危険な闘争戦術を決定した「ブント」指導下の全学連主流派のデモ隊を、当時は学習院大学の教授だった清水幾太郎が、煽りに煽った。国会デモの解散地点の渋谷の坂道で、いわゆる名演説調、自らが陶酔して、ぶちまくっていた。その清水幾太郎が、何年も経ずに、いわゆる「右」に移動して原稿料稼ぎをするようになったのだった。「ブント」は敗北を宣言して、直後に四分五裂した。私は、名演説で若者を死地に追いやりながら自分は切腹もしない糞爺や、無責任な「左翼」政治ゴロにだけはなりたくない。

 以上は、「希望」を実現するための手段の選び方に関する疑問である。パレスチナ解放闘争も、一種の植民地解放闘争なのであって、手段としては、先に指摘したガンディーの非暴力抵抗の有効性をも考慮すべきなのである。私自身は、日本における労働組合運動の経験から考えて、非暴力抵抗の言論による闘争を採用する。パレスチナ解放闘争における最良の言論闘争については、すでに何度も力説している。「ホロコースト神話」の暴露、粉砕である。

プチ・ブル穏健社会主義思想を排撃したマルクスの位置付け

 ただし、「日本における労働組合運動」そのものの位置付けも、そう簡単なものではない。私自身は、労働組合運動に実践的に参加した直後に、日本共産党への加入を誘われて加わり、結果として、労働組合運動と政党運動の混同を、避けようと務めても避け難い状況に陥った。この問題は、別途、労働組合の理論、および日本共産党論として、追及を継続しているが、ここでは、簡略に、基本的な問題点を指摘するに止める。

 私は、マルクスの『賃労働と資本』や『資本論』を読み、それが労働組合運動を強化する上での決定的に重要な理論であると考えた。ところが、当時、『資本論』を聖典としているはずのソ連や中国では、マルクスが示唆した労働者の「自由の王国」の夢とはまるで違う独裁主義支配が、その極に達していた。私が入った日本共産党でも、同様の傾向の中央集権支配が続いていた。私の脳裏には、この巨大な現実の矛盾への疑問が渦巻いていたが、目の前の「闘争」への対応に追われて、時間の余裕などあるはずもなく、身にふりかかる火の粉を払うのが、やっとの毎日であった。

 私は、子供の頃から仲間と一緒に遊ぶのが好きで、いわゆる年寄子供、または「ませた子供」というのが嫌いである。いわば「群れる」癖があった。だから、当然、何度も失敗を繰り返してきた。今では、その失敗の歴史こそが自分の人生であると、達観する心境に至った。

『資本論』体系、またはマルクスの思想体系についての長年の疑問に関しても、落ち着いて客観的に検討し直すようになったのは、50歳を過ぎて労働争議を解決し、やっとのことで、組織的なしがらみから自由になって以後のことだった。「亀の甲より年の甲」と言うが、やはり、自分が一定の年齢に達すると、それまでは先輩として位置付けていた人物に関しても、「三つ子の魂、百まで」の譬の通りに、その人物の個人的な歴史との関連を見抜く事ができるようになる。

 マルクスは、なぜ、「労働者階級」の概念にこだわり、しかも、その「労働者階級」こそが、きたるべき最終的な革命の担い手であり、その革命によって永遠の「自由の王国」が築かれるのだと、強調したのか。その答えは、今の私にとっては、実に簡単である。

 マルクスの初期の覚書き、『ドイツ・イデオロギー』は、当然、『資本論』体系以前の著述であるが、そこには、「新しい階級」が、「全社会の代表者として登場」し、「いっそう決定的な、いっそう根本的な、従来の社会状態の否定に向かって努力する」と記されている。自らは「プチ・ブルジョワ」であったマルクスは、自分自身の社会改革の「理想」を実現するために、「プチ・ブルジョワ」とか、「プチ・ブルジョワ的な穏健的社会主義思想」を排撃し、むしろ排他的に「労働者階級」を味方に選び、同時に、きたるべき革命が、「いっそう決定的な、いっそう根本的な、従来の社会状態の否定」でなければならないと決め付けたのである。しかし、この決め付けは、論証抜きの独断でしかなかった。

 以上のような『ドイツ・イデオロギー』の記述は、「初期マルクス」の信奉者、言い換えると、狂信的マルクス主義者たちに愛好されている。だが、そこにこそ、私は、マルクスの基本的な過ちの原因を発見するのである。マルクスは、プルードンらの穏健的社会主義者に打ち勝つためにこそ、その権力闘争の武器としての『資本論』体系を編み出したのである。

 プルードンらの理論に空想的な欠陥があったのは確かだろうし、マルクスの理論の中心となった資本主義の分析自体は正しかったのだが、その分析は、マルクスが「労働者階級」を味方に付けるための手段の役割を担ったのである。あえて糞爺とまでは言わないが、それでもあえて言うと、排他的に「労働者階級」を味方に選ぶマルクスに煽られた党派による排他的な陣営の構築の結果は、「いっそう決定的な、いっそう根本的な、従来の社会状態の否定」を怒号する武装革命への傾斜を深め、階級間の闘争だけに止まらず、いわゆる社会主義国家と資本主義国家との間の戦争まで招き、ついには、20世紀の世界を、血みどろの決戦の場と化したのである。この部分の私の意見については、後に、「ホロコースト見直し論の父」とされるポール・ラッシニエの文章を紹介しながら、深めていく予定である。

「希望」(魯迅『故郷』)を掲げて共有することの唯物的論拠

 ヨーロッパの革命の歴史についても、欧米コンプレックスの強い日本の自称文化人の間では、王様の首をはねたか否かを、いかにも革新的な基準であるかのように論ずる傾向がある。中国の革命にも問題点は多いが、私の評価基準に照らすと、唯一、清王朝の子孫の首をはねなかったことが、歴史的な評価に値する。儒教や仏教を生んだ東洋の思想と言えるのかもしれない。その意味では、ガンディーの非暴力抵抗も、やはり、東洋の思想の地平線上にあるのかもしれないが、そのガンディーも暗殺されたのだし、その後のインドでも、暗殺が続いているのだから、単純に、東洋の思想の方が西洋の思想よりも平和主義だと、言い切るわけにはいかない。

 中国の近代の革命思想を論ずるならば、欠くことのできない人物がいる。私は、拙著『電波メディアの神話』(1994)の「はしがき」で、「かねがねストレス解消用にときおり思いおこしている魯迅の文章」の一部を引用した。「魯迅は、短編小説『故郷』で、少年期のキラキラ輝く想い出と二十年後の幻滅をえがいたのちに、なおも子供たちの未来に希望を託す。その最後が、よく引用される一節である」

「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

「あるものともいえぬし、ないものともいえない」とあるのは、もちろん、日本語の訳文である。いずれにしても、文学的な表現なのだが、私は、自称「徹底的な唯物論者」として、「もともと」と言うのならば、「ないもの」に決まっていると言わざるを得ない。

「希望」を大和言葉にすれば、「ねがい」とか「あこがれ」であろう。マルクスの論説に歴史学的な色合いを加えたエンゲルスは、「原始共同体」の成員は「平等」だったと主張した。未来への「希望」を「あるもの」にする目的で、過去の「あるもの」を仮説したのであるが、最近の考古学的研究によって、その仮説は完全に崩れた。日本の縄文式土器の時代にも、いわゆる階級差別が厳然として存在していたことが証明されたのである。

 私は、いわゆる実例による論拠などを求めずに、「もともと」は「ないもの」としての「希望」を提案する。それが「正しい」などとは言わない。「正しい」とか「悪い」とかの基準も、人間が考案したものであり、「もともと」は「ないもの」だったのである。非暴力抵抗についても、同じことである。私は、それが「正しい」から、皆が従うべきであるとは主張しない。あえてえ言えば、それが私の好みなのである。