木村愛二の生活と意見 2003年9月 1件のみ

敗戦後58年目の夏の終わりにわが精神の基本の歴史感覚の大陸的かつ非日本的なる違いを強く意識し振り返る

2003年9月5日(金曜日)

 最近では、「帰国子女いじめ」と言えば、理解され易くなったが、私は、この「狭い日本」に戻った9歳の春から夏に掛けて、小学校4年の「編入生」として、実に野蛮な日本の田舎の村の餓鬼どもからの集団攻撃を受けた。もちろん、断固、戦い抜いて襲撃を撃退し続け、教師からは、「喧嘩太郎」の渾名を付けられた。野蛮も野蛮、北九州の山の中だから、子供の喧嘩では、小石を投げ合うのが常だった。

 しかし、感覚の違いは、大陸風の中国から島国風の日本の田舎の村への「帰国」だけの問題ではなかった。私は小柄だったが、北京の「国民学校」3年の夏の敗戦から帰国までの体験で数年分の精神的成長を遂げ、精神年齢では、彼等よりもずっと年上、しかも、典型的な九州弁の彼等とは全く対照的に、ほぼ完全な日本の標準語を話す「異国人」であった。

 いわゆる「外地」の日本人の子供の社会では、学校教育が優先し、それぞれの親が身につけてきた地方の訛りの影響を消し去るのであった。それがまた、九州の田舎の村で反発を買う原因にもなったのだが、私は、彼等に、体力以前の問題として、精神的に勝っていたのである。私は、今もなお、ほとんどの日本の「村社会」育ちの悪餓鬼どもと、同じ条件で対決し続けている。「ホロコーストの大嘘」に関する不勉強な癖に傲慢な偽善系左翼どもとの戦いは、その典型である。私の最大の精神的武器は、非常に簡単、「軽蔑」である。

 私は、8歳の当時から、大陸を俯瞰する歴史地理感覚を身に付けていた。北京からの帰国の途中で、当時はほとんど全部の漢字にルビが振ってあった『三国志』(吉川英次郎)の相当数の巻を読み通していた。以下は、最近連載を始めた当時の追想である。若干、脚色してある。

---------- 引用ここから ----------
http://www.jca.apc.org/~altmedka/profile-boya00.html
SPES(東京大学文学部英文科学生同人誌)1960年7月号初出
時代の始まり ― 少年“A”の物語  征矢野愛二郎

(その1)僕等は侵略者の子供達だった

(2003.9.2)

 僕は東京行の汽車に乗っていた。それは敗戦の混乱が最早、無秩序の故の生気さえも失って、大人達の眼の中には絶望か、さもなくば、薄汚い欲望しか見出せなくなっていた時期であった。ごたごたしたホームを一生懸命に走って、やっと見つけた座席は、後から乗り込んだ復員服の若者に割りこまれて、肘掛けに胸を押しつけねばならぬ狭さになった。だがこれは、僕が小さかったのだから仕方がない。離れて坐っていた母も、妹をあやしながら、そうなのですよ、と頷いていたのだった。

 しかし、その小さな僕が傍目もふらずに読みふけっていた本に眼を止める大人達の虚ろな表情はどうだっただろう。もしその中の誰か一人でも、あの本について、それとも僕の熱心さについて、一言でも口を開いてくれたなら、僕は昂然と頭を上げて何かを答えたに違いない。それがもし、大人達の興味を引かなかったとしても。

 その本は三国志だった。そして僕にとっては、チカラさんの遺品でもあった。

「中隊長、大きくなったらこの本をやるからな。これを何度も読んで三国志の英雄達に負けない立派な大人になるんだぞ、ええか。」

 チカラさんはこう言って僕の頭を撫で、自らもその英雄の一人であるかのように雄々しく胸を張り、太い眉を上げるのだった。

 そのチカラさんは死んでしまった。だが僕は何巻もの重い本を持ち帰ったのだ。

[後略]
---------- 引用ここまで ----------

 その後、東京とはいっても、当時は都下と呼ばれた北多摩郡の外れの調布町のそのまた外れの多摩川べりに住み、そこで、小学校の高学年の頃、当時のベストセラーだが、ザラ紙印刷の粗末な製本の『大地』(パール・バック)の分厚い3巻物を読み通した。北京の郊外の「大地」の広さの実感を持っていた私は、さらに、『三国志』の歴史の近代版とも言うべき『大地』によって、中国大陸の歴史の概略の実感を得た。

 中学校2年の頃には、杉並区に移住し、そこで、父方の叔父が残した戦前の発行の10数巻の分厚い『世界文化史大系』を読み通した。H.G.ウェルズの『世界文化史大系』と言うと、現在は、同じ題名の薄っぺらい岩波新書だったか、文庫だったか、似ても似つかぬものと思う人が多い。しかし、戦前には、大著全体のいくつかの版が発行されていたのである。以下の検索結果が出る。

---------- 引用ここから ----------
全言語のページからウェルズ"世界文化史大系"を検索しました。
約39件中1-25件目・検索にかかった時間0.10秒

http://www.asyura.com/2003/bd24/msg/889.html
第一章 西洋哲学の光と闇 ~西洋思想概説~(週刊日本新聞)

 西暦前五世紀、都市国家アテネは、ペルシャの大軍を破って、繁栄と栄光の絶頂に達すると同時に、間もなく、衰退と没落の道を転げ落ちてゆく。

 ソクラテスはアテネの衰亡期の人であり、毒薬を飲んで獄死した。

 前四世紀、プラトンがそのあとを継ぎ、アリストテレスと、マケドニアのアレキサンダー大王による大帝国が出現する。

 「アテネの思想家達は全く、最初の現代人と言ってよい。彼等の考えた疑問は今尚我々の考える疑問である。」(北川三郎訳「世界文化史大系」第四編第二十二章「人間社会に於けるギリシャ思想の意義」)、と、H・G・ウェルズは批評した。

 「彼等は疑問を起こした、そして何等の解決にも達しなかった。」

 「而して今日の我々もギリシャ人のこの疑問の大部分に対して未だに其解決を獲得し得たとは称せられない。」(同上)、とのH・G・ウェルズの言は、西洋人の常識であろう。


http://www.furuhoncenter.com/list/002002_002.html
商品リスト(目録)
中分類歴史
小分類世界史 
 ウェルズ世界文化史大系 全12巻
北川三郎
大鐙閣
昭和2年
No.502718,000円 (←2019.8.13追記:№と値段の区切り不明。18,000円と推測)
A5版、12冊セット、中少折りシワ・シミあり、箱少イタミ・シミ・汚れあり
---------- 引用ここまで ----------

 上記の内、「週刊日本新聞」情報は、ちょっと「やばい」。私より1世代は上の著名な「反ユダヤ主義者」、太田龍が主宰者の新聞だからである。

 しかし、太田龍は、「反ユダヤ主義者」として売り出す以前、フルシチョフによるスターリン批判の直後に、「第4インターナショナル日本支部」革命的共産主義者同盟とやらの指導部にいたことがあるらしい。この「同盟」は、いわゆるブント系の主要部分を吸収した。太田龍に、この程度の衒学的な歴史の知識があっても、不思議ではない。

 私は、『世界文化史大系』を読み通しはしたが、その後は一度も読み返したことのないので、細部の記憶は呼び起こせない。それでも、歴史のことになると、かすかな記憶が、そこかしこに木霊する。

 今から30年前に最初の単行本、「奇書というよりは珍書」と、旧友の康芳夫から冗談を飛ばされ、しかし、いまでは「予言的中」を誇り、現在は電網で無料公開中の『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』を発表することができたのも、それらの歴史的知識と地球規模の地理感覚があればこそだった。

 今また、911事件以後、イラク「戦争」と、その後の世界を俯瞰する目、紙背を貫き、行間を読む心眼は、以上のようなわが人生と、切っても切れない関係にある。私は、わが人生のすべての局面で蓄えた経験と知識を総動員して、今の世界を俯瞰し続けているのである。これは、わが終生の「業」(ぎょう、ごう、本務、特に悪い報いの因となる悪行)なのである。地獄の「業火」に焼かれても消えない「自業自得」の「宿業」なのである。

 以上。


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