木村愛二の生活と意見 2000年6月 から分離

「我は生き彼女は逝きし六月の……」歌詠みが目の前にいた昨晩

2000.6.22(木)(2019.6.7分離)

 昨晩、6.21.18:45~21:15、民衆のメディア連絡会の例会が中野商工会館で開かれた。講師は「人権110番」の千代丸健二さんで、演題は「無法メディアとわたりあう方法/オウム事件報道の裏側」だった。一時、肝臓を患っていた千代丸健二さんだが、迫撃取材のヴィデオも写し、相変わらずの過激さで、並み居る若者の度肝を抜いていた。

 終了後には、いつものように格安料金の大衆酒場、「赤ひょうたん」での懇親会。私の目の前には千代丸さんと並んで最長老の会員、山中正剛さんがいた。二人とも私より年長である。冗談が大好きの山中さんは「93歳」と何度も自称したが、確か、73歳のはずである。元成蹊大学の社会学教授で、昨年の例会では「テレビCMがつくり出す高齢者像」の題で話してもらった。その元になったのは、いくつかの記事で取り上げられた昨年、1999年3月の研究、B4判で16頁の「『広告の中の高齢者像」に関する調査研究報告書~テレビCMの内容分析~」であった。

 昨晩は、旧知の千代丸さんとの再会もあって、いつも以上に御機嫌で、歓談が続く内に、突然、天井を睨んで朗誦を始めた。「我は生き彼女は逝きし六月の……」

 私が、「それ、朝日の歌壇の歌でしょ。……六月の今年も雨は沛然と降る」と続けた。周囲にも同じ短歌を、さる6月14日の朝日新聞夕刊の記事で知っていた仲間がいた。一同ガヤガヤ。ところが、山中さんは、「これ、私の歌」と胸を張って、ますます御機嫌。私が、「何か、野蛮なペンネームでしたね」と言ったが、ご本人は、その時のペンネームを覚えていない。一同、つい最近読んだばかりの記事なのに、やはり覚えていない。本日、記事で再確認した。以下、この歌を大見出しに使った記事の冒頭のみを再録する。

「朝日新聞の短歌の欄には六月になると。ある人を悼む投稿が増える。

  我は生き彼女は逝きし六月の雨は今年も沛然と降る(1999年、世路蛮太郎)」

 私は、わが『憎まれ愚痴』読者からこの記事の切抜きをもらったので、さる2000.6.15.新宿ロフトプラスワンにて上映した自作ヴィデオ「1960.6.15./40年目の真実/語り手:木村愛二]の第一次改訂増補版に、この記事を加えていたところだった。以下、その一部を抜粋する。

「……樺美智子の遺影を配して、いくつかの想い出の歌を紹介していた。やはり、殉教者の扱いである。……確かに当日の夕刻から、初夏に特有の激しい雨が降った。……私も当日、議事堂の構内に入ったのだが、この前後の時期だけの闘争参加者だったので、詳しい背景事情については無知だった。しかし、歴史的かつ衝撃的な場面の目撃者として、この際、いくつかの謎解きに挑み、己の目で見た事実の背後関係を己なりに調べ直し、解釈し、遺言として残さざるを得ない気持ちに駆られた。謎には、小状況の謎もあり、大状況の謎もある。」

 私は、上記の短歌を見た時、同年代の詠み手なのかなと思ったのだが、山中さんは当時、「教授団」の一員として国会デモに参加していたのだった。やはり、その後の人生に強烈な影響を与えた事件だったと言う。その内、私の謎解きにも協力してもらおうと思う。