禁断の極秘文書・日本放送労働組合 放送系列
『原点からの告発 ~番組制作白書'66~』3

メルマガ Vol.3 (2008.02.05)

第1章 空洞化すすむ「国民のための放送」

1 提案・企画の採否(続き)

B 提案の蒸発

 教育第5分会の報告は、教育局の場合、定時番組や特集番組の別を問わ
ず、かなりの数の提案が落とされるにもかかわらず、その理由が明らかにされないことを指摘して、次のように言っている。

―― 普通、提案が落とされる理由については、ほとんど提案者へのフィード・バックがなされていない。⑤以降の段階で落とされた場合には、この傾向が一層顕著にみられる。説明があるにしても、「枠がなかったから……」というような不十分な埋由づけが行われるにとどまる。担当者の知らないところで、十分な理由もなく提案が蒸発している。提案者の企画意図がねじまげられたり、企画の臍をとられて、提案が担当者に戻ってくることもある。それについても十分な説明が行われていない。(教5)――

 「提案の蒸発」、これこそ、PDたちの制作意欲を減退させることによってNHKの番組全体のマンネリ化を招いている点で、告発し点検されるべき第一の現象である。

 前出の教育第4分会報告では、6月の試作提案60何篇かの採否の行方が不明なまま、さらに再度の提案が求められたケースをあげているが、これなどまさに蒸発現象の最たるものである。少なくとも「1番バッター、2番バッター」の噂が洩れ伝わってきた担当者はまだ救われる。なぜ「1番バッター」なのかという採用理由は、いかにも曖昧だが、少なくとも、自分の堤案は「まだ蒸発し終っていない」ことだけは知り得たからだ。

 再び、教育第5分会からの例をひくと、「9月。海外取材番組、長期取材番組、試作番組、文化の日特集、勤労感謝の日特集 これらの提案のうち落とされたもののほとんどが、十分な理由説明がなされていないとみてよいと思う」とのことである。

 提案会議が「提案者の趣旨説明会みたいなもので、ああそう、じゃ次、ってな具合に次々に提案を説明させられて、1、2の質問に答えるだけ」ということになってしまっているのはもちろん問題であるし(後に論ずる)、採否理由の伝達方法にも問題はある。

 多くの場合、PD代表出席者にその努力が乏しいからである。しかし、また彼らとしても、どうその理由を伝えてよいかわからないのも現実なのだ。

 さらにみじめなのは、地方局からの提案に対する扱いである。地方局からの提案には番組委員会後、一片の採否通知表が送られるのみである。提案題名を列挙した欄の右に採、否と記入されただけのものである。放送部長、担当副部長には、多少の選考事情が伝えられることはあり得る。しかし、それとても、前述のような白い霧の中にぼやかされているし、まして、地方局の提案PDにとっては、提案は蒸発どころか霧消してしまったとしか受け取り得ないことも多々あるのである。

 我々は「提案の蒸発」を問題にせねばならない。それはPDの権利ともいうべき提案を、公然と無視したことになり、密室の中で圧殺したのと同じことになるからだ。だが、我々は、「採否理由」のフィード・バック欠如というだけの理由からそれを言うのではない。問題はもっと深いところにあり、「白い霧の中の蒸発現象」は、つきつめていくと「黒い霧の中の蒸発」にもつながっているからである。これはおいおい明らかにされるだろう。

C ヘソを奪われた提案、核を失った企画

 教育第5分会の報告は、採否の理由がフィードバックされないだけではなく、企画意図に改変が加えられたり、「企画のヘソ」をとられて堤案者に戻ってくる場合にも、その埋由の明示がなされないことを指滴している。

 これも、きわめて大きな問題である。教育第4分会の報告も、前出の「白書討議の断片から」に続いて、その中に露呈している諸問題を、三つの視点から分析し追及しているが(すなわち、「くくり方」、「船頭多し」、「世論無視」)、その一つ、「くくり方」を論じた部分は、まさにこの弊害にふれている。

―― まず第1の問題点は、“くくり方”の問題。この試作提案「宇宙から来た観光団」が採択された(部の段階で)“客観情勢”の一つに教育局のある首脳が、“「宇宙人ピピ」のようなものがほしい”、とご執心だったという事情があるらしい。つまりその意向にあてこんでこの30数個の提案の中からそれに相応しい提案が採択されたと推測できるのである。それでも一向に差し支えないという見方もできるのであるが、ここで忘れてならないのは、この提案の成熟度であり、この提案の番組を番組たらしめる核、それがどれだけ重視されたかである。“宇宙もの”という大ざっぱなくくり方、それも“情勢”が要求したくくり方、それが先行して肝腎な番組の芯になるものを軽視、いや無視している点に注目しなければならない。そしてその上、編成がその“宇宙もの”を捨てて、“合成もの”というくくり方で現場へおろして、ついには“宇宙人がカッパになった”いきさつに至っては何をかいわんやである。番組の芯、核を重視するどころか無視して、提案にダメやチェックを出すから、まちまちの意見の中を提案が“波の間に間に浮き沈む”のであって、どういうふうにでも変更がきく核なし提案ができてしまうのである。

 そうしてできた番組に、個性や特徴、新鮮味がないのは当り前の話ということになる。提案の中の核を発見して、その核にいろいろの意見、アイデアを肉付けしていくならば意見は多い方がよろしい。しかし、それぞれの趣昧、まして誰かの意向を忖度しての意見がつけ加えられるのであれば、もはやその提案は提案者のものではなく、修正者のものになってしまう。だから、提案が採択された提案者は“作文屋だよ”というくらい、自分の発想とは違った提案を書かされるのである。こういう提案の扱い方の中に試作終了後、あの番組とこの番組をくっつけたようなものを、などという“見合結婚”を命ずる意識が既に潜んでいるのである。(「あすは君たちのもの」と「日本のこども」の合作は記憶に新しい。)番組はそういう便宜主義でうまくいくわけがない。」)(教4)――

 「提案のヘソ」の奪胎、「企画の核」の無視、その上になり立つ安易な「くくり方」分類や、ご都合主義の「見合結婚」番組。ここに見られるのは、番組というものの基本的認識の誤りであり、番組制作者というものの考え方の歪みである。これについてはさらに立ち入って論じられるが(本章2のA参照)今は各所にみられる事実の指摘にとどめよう。

 前出「お婿さん三代」に関した芸能第3分会の報告の中でも、「わずかに“若い河”の公開版を作れということらしいと漠然と推測」する状態などは「宇宙もの」「合成もの」的発想の「波間に浮き沈みする」教育局番組と同次元であろう。

 つまり、提案の中の「核」や「芯」を、即ち、ユニークさを見出そうという姿勢はなく、常に既成の「受けたもの」や「受け方」への寄りかかりしかない。しかも、それが体質化していることが重要な問題なのだ。

 既成番組への寄りかかりからしか新番組を考えない態度。加えてユニークさや、「核」を見出し、互に確認し、育てていこうとする姿勢の欠如。ここから発生するのは次のような事態である。

―― 『太陽の丘』の場合、企画部長は『若い季節』のようなもの、と発言したが、局長の意向はより教養番組的なものということであった。このため担当ディレクターは困惑し、再三上層郡の意見統一を求めて徹底的に制作意図を追究したが、納得する線が出ず、担当ディレクターはこの番組の演出を拒否した。結局は政治的説得により、当該ディレクターは演出を担当せざるを得なくなったが、このスタート時の上層部の意見の不統一には、いまだに大きな疑問と不満を抱いている。(芸3)――

 「若い季節」のようなもの、より教養番組的なもの、こうした発想体質からはもう一つの嘆かわしい現象があらわれてくるのも当然である。

D 「船頭多し」イコール「船頭不在」

 前記の芸能第3分会報告は「上層都の意思不統一」という言葉で、その不満を述べている。確かに、不統一は、あらゆるこうした企画決定の場において見られる。しかし、統一を得るための基盤、あるいは前提が存在しないのだ。なぜか。ユニークさや核を見出そうという姿勢があれば、そこには、一旦は意見や評価の食い違いがあっても、最終的には「上層意思の統一」が成立しうる可能性はあるはずだ。しかるに、それが不可能なのだ。「○○のようなもの」、「○○もの」的発想しか出てこないのは、個人的印象の価値づけや、「受けたもの」への好みの権威づけしか存在しないのは明らかである。

 「意思不統一」、それは、好みや印象を意見として表明するだけの、複数または多数の管埋職の集団=意思決定機関が持たざるを得ない必然的帰結である。

 こうした在り方の中に胚胎するもの、それはまた、半ば必然的に、無責任の体系であろう。

 教育第4分会報告は、「くくり方」論に続けて言う。

―― くくり方の問題の中で述べた「船頭多し」という現象は、第2の問題としてとり上げる価値があると思う。“船頭が多い”ということは責任者が争って船頭を志願し、自分の責任において船を指示進行させようという意欲の結果から生まれるのではなく、極言すれば責任回避からそうした現象が起こるといえるのである。つまり、自分の意見は一応述べるけれども断固とした決断を下すと、さらに上の人からダメが出た場合困る、ということから上の人の意見を提案者に伺わせに行く。そうするとその人もまた同じように振る舞い、またその上の人にというふうに発言者が段々と増えてしまって提案者はどの意見に従ったらいいのかわからなくなってしまう。だから、すったもんだの挙句、局長に直接、意見を聞いたら、提案者の当初のイメージと一番近かったというふうなことが起ってふり出しに戻ることさえあるのである。――

 芸能局でも、報道局でもいたるところ、この事態は共通である。冒頭に掲げた芸能局の報告が指摘している。企画部のチーフ・プロデューサーが、自分の意見を言わない、上層意思の把握をしない、上からの意思伝達がないといった諸点も、つまりは、「船頭多くして船頭なし」を裏書している。

 芸能第2分会の行ったアンケートの中、企画提案段階での「悪い点は?」という問に対して、「企画の採否の過程が不明朗」が46の回答を集め、次いで、「独創的な企画が通りにくい」(42)が1、2位を占め、「提案から実施決定まで時間がかかりすぎる」(23)、「企画意図がねじまげられることが多い」(13)、「企画の内容変更の過程が不明朗」(11)、「その他」(8)を圧していることの背後にも、この問題がひそんでいるであろうことは容易に推察できる。

 教育第5分会の報告も、「提案の蒸発」を論じてその原因の一つに、「提案された企画の是非決定権の所在が明確でない。また、提案決定が管理職相互の駆けひきや力関係によって行われ、提案それ自体の是非について十分に論じられていない面があるのではないか。行われていても、ケチのつけ合いにとどまっていないか。担当PDから、委託された(?)提案に対して、担当管理職が十分に責任を負っていないからではないか。要するに、提案についての職制の権限の範囲や責任が明確でない」と指摘している。

 NHKの業務の根底にあるべき、企画―提案―採否決定の段階に於ける、職制の義務放棄への批判が試みられる。「権限の範囲や責任の不明確」も、権限や責任を職制側が担おうとしないところから来ているものだからである。

E「枠がない」というカクレミノ――横行するおしつけ企画

 こうした無責任体制の中で、提案者に対して、職制が濫用するカクレミノに「枠がない」という殺し文句がある。

 業務量と定員のアンバランス、きりつめられた制作条件と制作意欲とのギャップ。その中で悩んでいるPDたちは、この「カクレミノ」のごまかしを察知しながらも、従来は黙視していた面は確かにある。「他の部局に少しは集中的な努力をしたい」、「少しは手のぬける番組がなくてはへこたれる」こんな「悪魔のささやき」が、それを許していることも認めよう。

 その上で、しかし、次の事実もまた、強く指弾されなくてはならないと考える。

―― 9月に行われた11月分の教養特集(自由枠)策案では部内の提案会議で『学問の後継者』『ケネディとアメリカ人』などが通ったが、局提案会議の段階で、あるいは共管番組提案会議(仮称)で没になっている。理由は「枠がなかった」ということである。枠がないというのは、十分な説明にはならない。例えば他の番組と較べて、ここが弱かったということが説明されなければならない。「枠がなかった」というのは、実は天下り番組やその種の行事関連番組などが、枠を占領しているからである。また最初に自由枠を何本必要としているというような目標の提示を職制は行うべきであろう。(教5)――

 つまり「枠がなかった」という言葉は、「提案の蒸発」の「カクレミノ」であると同時に、天下り番組や、おしつけ企画の横行という現実の暗黙の容認の姿勢をもうかがわせるに足るのである。

 「天下り番組」には様々なコースがあり、また問題も含まれているが、ここでは、典型的な一つの例として、某中近東国大使のTV出演希望をいれるため、去年は「土曜談話室」で、今年は「世界の窓」で、既に提案の通っていたものをつぶして、全然異質の英語インタビュー番組を組まされていることをあげておくにとどめよう。これは、昨年さる会議だったか会合の席上で、某重役がTV出演をひきうけてしまったがために、今年も、断りにくいという理由のためにだけ、実施されたものであり、担当者が一体何をTVで喋りたいのかたずねに行くことが仕事の第一着手となったというシロモノである。

 担当者やその周辺では、「来年もこのままではやらされるぞ」、「他の大使館あたりからもそんな申し出があったら断る理由がないじゃないか」と懸念している。

 ちなみに、この「土曜談話室」は、「売り込みを消化するという意味もあって作られた番組だから」という理由で、従来も、度々利用されてきた番組である。

 「売り込み企画」は、その理由だけで拒否されるべき筋合いのものでないことは当然である。よき企画を得るため、重要な話題を発掘するためには、「売り込み」への窓口さえ考えられてもおかしくないのかも知れない。しかし、おつき合いや、事大主義からの「おしつけ企画」の弊害は最近特にひどいことは確かである。(次段でもこの点にふれているので参照されたい。)

 また、「教養特集」などでは、日本賞関連番組、FAO関連番組、ABU関連番組等々が、多い時には月々何本といった程に他の提案との軽重の検討をまたず半ば当然のこととして電波にのることがしばしばであり、それが「枠がなかった」という理由にならざる理由のフィード・バックに、不可解な重みを与える役をしていることが多いのである。

 さらに言えば、とりあげた当初の時期には、それなりの意味もあったが今は既に意味の多くが失われてしまっている共賛番組行事関連番組などが、他の企画との軽重や、その月の担当者のローテーション(これは番組の質にかかわるものであるが)といった点から判断すれば、採択されないでしかるべき場合でも、単に、去年もやったんだし、とかあるいは、前からのイキサツもあるからというだけの理由で、枠を占領するというのは決して珍しいケースではないのである。去年から電波にのせられている「日本寮歌祭」などもその一例といえようか。旧制高校音痴ともいうべき、一部の人のエリート意識とアナクロニズムをしか感じさせないこの催しは現場からの提案ではないのにいつのまにかやることになり今年も中継録画により放送される。うちの寮歌をカットしないでくれという売込みが激しく、ゲストの人選にもいろいろ制約の多いこの番組には、ひとわたり各校が電波にのるまでは、来年も再来年もやらされ続けるのではないかとの不満が現場に強いのである。

 我々は、「やったって別に悪くないじゃないか」という理由だけで、ある種の番組が、枠の中で一種の既得権化していく傾向は、「枠がない」の言葉の操作による無見識―無責任の「提案の蒸発」の一種のうらがえしであるといいたいのである。

 我々は、今や、提案採否理由開示の原則を、番組制作の責任者の名と、国民の名において要求すべきだと考える。これは、現場の意欲増進とか、PDのフラストレーション解消のためといった、心理的配慮の要求なのでは決してない。ゼロへ向う蒸発を止揚し、豊かさへ向けて「核」から成熟していくためのダイナミズム(つまり文化創造)への唯一の方法であるからであり、それは、番組担当者=提案者の権利の要求であるからだ。他方それは、真の公正な放送実現のために必要な保障でもあるからである。経営責任とは、NHK存続のためのそれではなく、「国民のための放送と文化」のためのものであるからには、この原則の確立こそは、公正なる放送を実現する責任が、一部の管理職の慾意にまかされず、密室の中で行われないための、唯一の民主的な保障であることは明らかだからである。