イラク爆撃報道批判 空爆下のバグダッドにて・伊藤政子(全文)

イラク爆撃報道批判 1998.12 空爆現地体験

緊急報告:空爆下のバグダッドにて

1998.12.16~12.22 (Sheraton Hotel 912号室)

はじめに

 私は、湾岸戦争終了後の1991年から、毎年1~3回イラクに通い続けています。経済制裁下で圧倒的に足りない医薬品等の救援物資を届けたり、日本とイラクの子どもたちの絵画や手紙の交換を通じて友情を育む手助けをしたりすることが主な活動です。毎回イラク滞在は1ヵ月強ですが、今回15回目のイラク訪問中に、アメリカ・イギリス両軍による武力攻撃に遭遇しました。イラクの中ではどんな様子だったのかをお伝えします。

攻撃前日 12月16日(水)

 今朝になって国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)委員長のバトラーが「イラクが非協力だからすべてのUNSCOM職員に引き上げを命じた」と聞きました。

 一昨日「UNSCOMがすべての調査を終えて帰国したから事態は好転するだろう」とイラクニュースが言っていて「なんでくり返し裏切られ続けているのに未だに信じようとするのだろう」とお人好しぶりにあきれていましたから、「やっぱりね」と思いながら情報収拾をしていました。

 午後になって、フランスのNGOのイラク駐在員がフランス大使命令で急遽今日中にバグダッドを引き上げると聞き、どうも様子がおかしいと思いました。

 2,3日後に、そのNGOと共同して私が日本から持ってきた物資を障害児施設に届けるという予定になっていましたし、彼は11月の危機のときもバグダッドに留まっていましたから。私は、情報が早く正確な知人たちに片端から電話をかけたり訪ねたりしてみました。イラク側では、個人的に親しい外務省や情報省の高官たちに、また外国人側では、本国と毎日連絡を取り合っているNGOやジャーナリストの人たちやアンマンーバグダッドを毎週往復しているヨルダン人の運転手たちなどでした。彼らは全員が「バトラーが突然引上げを命じただけで(アメリカは何も言ってないし)大丈夫、大丈夫」と言っていました。

 イラク人たちは地位の上の人も下の人も皆、経済制裁解除がまた遠のくと思い、心底がっかりはしていましたが、日々の変わらぬ暮らしに追われていました。イタリアのNGOの人は「今度アメリカがイラクを攻撃するときは、アメリカ軍は絶対化学兵器を使うと思うから、準備期間が必要だと思う」と言っていましたし、国連の職員たちもUNSCOMのメンバー以外、例えば人道物資配給監視要員など少なくとも100人以上は平常の活動を続けていました。

 それでも私は、UNSCOMの動きに何か不穏な気がして、今回イラクに連れてきたTVの人たちに、彼らへの責任もあり「万一攻撃があるとすれば、例年の如く断食月の初日か前日だろうから、予定を早めて断食の始まる前にイラクを出よう」と提案していました。

 夕方になって、イラク政府が「イラクの国土を4つの自治区に分け、それぞれに首長を置く」と言う決定をTVで発表しました。「もし戦争になって国土を分断されても、それぞれの地区で平常業務が営めるように」と言う理由を聞き、人々は「今までの危機でも何の準備もしなかった政府がこういう決定をするのは、アメリカが湾岸戦争のような戦争を起こすのかもしれない」と覚悟し、ガソリンスタンドにはガソリンを買いおこうとする車が長蛇の列を作りました。

 湾岸戦争初期に、米軍は通信・交通網を徹底的に破壊し各地を分断した上で「イラク政府は既につぶれた」と宣伝しました。その結果、例えば南部のバスラでは拠り所を失った市民たちがバスラにいた宗教の高位者(イラン人のシーア派の最高僧)に頼ったため、イランから多数のシーア派活動家たちがバスラに来ました。戦後、交通網が復興した時点で市民は政府が健在であると知り以前からの暮らしに戻ろうとしましたが、戦争による破壊と経済制裁のためイランから来た活動家たちを養う余力などありませんでした。行き場を失ったイラン人活動家たちは沼沢地に潜み、市民への強盗・略奪行為を働いていました。これが『内戦』の事実です。イラク内のシーア派の人々は、アメリカが『シーア派の保護』などというのは嘘だと思っています。米軍は戦争中、例えばシーア派の聖地であるカルバラで、シーア派の宗教上の大事な日をねらってシーア派の聖なるモスクを爆撃したりしたのですから。

第1次攻撃 12月17日(木)

 日が変わった深夜0:15頃、ホテルの自室で仕事をしていたら、突然に警戒警報が鳴り響き、ホテルの人がロビーに集まるように呼びに来ました。広げた仕事をしまってから階下に降りて行こうと思っているうちに、いきなりバリバリという飛行機の音とドーン、ドーンという爆発音が鳴り響きました。

 窓辺にカメラを持って飛んで行くとバグダッド市内(中心部から遠くないドーラという街)にある石油施設付近から大きな炎が上がりました。0:30頃でした。9階の私の部屋からはバグダッドの街がよく見渡せるし、必死でカメラを構えていたのですが、突然にバリバリ音がして街の明かりの上空に花火のように光が弾け、いきなりドーンと激突音が聞こえ、街の一ヶ所から炎が上がります。

 どこにその花火が上がるかが全く予測ができないため、とてもカメラでは追い切れません。その後から、方向違いにイラク側の迎撃の光がヒョロヒョロと走るのですが、こちらは高さも低く速度も遅いためCNNなど外国の報道の映像はほとんどイラク側のものでした。爆風が窓から激しく吹きつけてくるし、諦めて窓を閉めました。巡航ミサイルによる攻撃だったと後でCNNのニュースを見た人から聞きました。

 ニューバグダッドに住む私の会のバグダッド支部長のイラク人青年は「突然屋根の上をヒューンとミサイルが風を切って飛ぶ音がした1,2秒後にドガーンと爆発音がして、その後でイラク側の警戒警報が鳴ったんだよ」と言っていました。妻も子どもも姉妹や母も、皆震え泣きながら「私たちどうなるの」と彼にすがっていたそうです。

 誰にとっても突然だったのに、イギリスのTV局BBCだけは、アメリカの第1撃を正確に映像にとらえていたそうですが、つまりBBCはいつどこから爆撃が始まるかを知っていたということです。フランス政府も知っていたのでしょう。バグダッド駐在のWHOの医師も知っていたものと思われます。インタビューを申し込んでいたのに、16日に急遽国外へ出ていきましたから。

 その後2:30a.m.、3:00a.m.、4:00a.m.と同様の攻撃がくり返されました。1回の攻撃は10分から15分程度のものでしたでしょうか。3:30a.m.頃の攻撃では、正確な場所はわからないけど外務省や情報省のある官庁街の方向で炎のあときれいなきのこ雲が上がりました。通常のミサイルや爆弾でもこのような煙の上がり方をするものかどうか私は知りませんが、風の具合なのか、ここだけがそんな煙の上がり方でした。

 この攻撃によって、ANNの報道によると昨夜だけで45人もの人が亡くなったそうです。カラダやハイ・アデル(どちらもバグダッドの中の街です)では、直爆を受けた住宅や商店もあります。子どもを含め、何人もの市民が、予告さえなかった爆撃の標的となり、犠牲になりました。

 昨夜の爆撃による怪我人は、市内3ヶ所の病院に運びこまれました。そのうちの一つのアル・ヤルムーク病院だけでも、夜のうちには5人だった死者が一夜をあけた今日には14人(内、子ども1人)になっていました。怪我をした人たちも全身にやけどを負い、傷だらけの体から血を垂れ流し続け、目をそむけたくなる惨状です。経済制裁下の劣悪な医療状況で、重ねてのこの仕打ちです。日本なら助かる人も助からなくて当然です。ハイ・アルアデルの自宅を直撃され重傷を負った父親がふたりの娘たちの身を案じ続けていますが、誰もその子どもたちがすでに死亡したとは告げられずにいます。

 私だけでなく、今もこの国で救援活動を続けている諸外国のNGOの人たちは、カンカンに怒っています。彼らは口々に「(この攻撃は)罪もない人々への虐殺にすぎない」「アメリカは、何もないところから戦争を作り出す!」「人間の生きる権利を根こそぎ奪い尽くそうとする」「戦争と経済制裁とで苦しみ続けている人たちを殺し尽くそうとでも言うのか」と、非人道的な武力大国アメリカの横暴を責めています。

 現在イラクに残って救援活動を続けている外国のNGOは5団体程(イタリア、フランス、中東のキリスト教グループ、カナダや北米を中心とするイスラム教のグループ)ですが、それぞれの国からイラクへ派遣されているのは1人かせいぜい2人です。どこの団体も、徹底している反イラクキャンペーンのためお金集めに苦労しながら、イラクの人たちと力を合わせて子どもたちや市民のための活動を細々と続けています。

 すぐにNGOの皆で話し合い、抗議声明を出したのですが、外国の報道陣は取り上げてもくれません。

 昨夜の爆撃の被害は、その他に国内数ヶ所(バグダッド、バスラ、ティクリットなど)の大統領官邸(王宮)とイラクの衛星テレビの中継局や発電所(1ヶ所)、小麦粉の(配給のための)倉庫などでした。その倉庫には部分解除の合意による26万トンの米が調度届いたいたところでした。衛星テレビでは爆撃の始まる1-2時間前に、イラクの手によるイラク内の劣化ウラン弾とその被害についての(かなりしっかりした調査に基づく)1時間番組が放送されたばかりのところでした。私たちはそのビデオフィルムをもらう約束をしていたのですが…。アダミーヤに住むアル・リファイ元駐日イラク大使宅の近所の家の庭にもミサイルが着弾したそうです。幸いにも不発弾だったのですが、アル・リファイ夫人が「(不発弾だったことが)信じられない。奇跡だ」とくり返していました。

 爆撃直後からバグダッド市内全域で水が止まり、テレビも写らなくなりました。

 ラジオは放送を続けていますが、ニュースが遅いため、私たちは情報省のプレスセンターで情報集めをします。

 そこには衛星放送の設備があってアメリカのTV局CNNやイギリスのBBCなどの外国から入ってくる放送も見ることができます。また、外国の報道陣や彼らと一緒に被害現場を走り回っている情報省のガイドたちやイラク側のジャーナリストたちがいて、必死で自分たちの目や体で知ったことの突合せをしては、正確な情報を集めようとしているからです。報道陣だけでなくNGOはじめ自分で確かめたい人たちは、そこで知ったことをもとに現場へ飛びます。ホテルでもマネージャーが、従業員たちがそれぞれの居住地で見聞きしたことをもとに情報整理をしています。各職場や街でも同様です。

 私自身、夜が明けて爆撃が間遠くなってから、被害地へも直接足を運びました。カラダでは2軒の家と4軒の小さな商店がめちゃくちゃになっていました。バスを壊された運転手は、飛び込んだ大きな破片を振りかざしながら「これがアメリカのすることだ!」「世界の人たちに知らせてくれ」と訴えます。死んだり怪我をしなくてすんだ人たちだって、経済制裁下で家族に十分に食べさせることさえままならない中で、生計の道を絶たれ、家屋の再建などできようもなく、怒り以前に途方に暮れています。

 イラクの今朝のニュースでは、イラク全土での死者数は25人、負傷者数は75人でした。政府側の情報は、私たちがかき集める情報に比べ、明らかに遅れています。

 日中も、10:00a.m.、11:30a.m.に爆発音を聞きました。

日本からの電話取材

 午後フィルムを取りに一度ホテルへ戻ってびっくり。部屋に日本から電話がかかってきたのです。日本の家族にさえ私は無事だと連絡できずにいるのに、読売新聞からでした。話している最中にホテルのオペレーターが「日本から別の電話が入っている」と切り替えます。都合6本の電話が各新聞社やTV局から相次ぎ、2時間も話し続けました。

 全員が「市民たちは慌てふためいて買い占めなどに走っているのか」と質問します。9年目に入ろうとする経済制裁下での市民の暮らしのどこに、買い占めなどできる経済的な余裕があるというのでしょう。市場には以前より物があるようにさえ見えます。誰も買うことなどできないのですから。しかも予告もなかった突然の攻撃です。お金を借り集めたりする時間的な余裕さえありませんでした。

 諦めきっている人々は「(この8年に)くり返され続けてきたことと同じ(状況)。誰だって一度は死ぬのなら、経済制裁でジワジワ殺されるより、いっそ爆弾で一気に死ぬほうがまだ楽かも知れない」と諦めきって「私たちに答えられないこと聞かないで」と重い口を開きます。「戦争ー制裁ー戦争ー制裁ー戦争ー制裁ー戦争…、8年間ずっと続いている戦争だもの」。

 学校は今日から臨時休校になりました。思いがけず休みになった子どもたちは、こぞって街へくり出します。少しでも余計に稼ぐために…。官庁も、民間会社も、商店も、通常業務を行っています。どこに店を閉める経済的な余裕があるというのでしょう。せめて普通の生活リズムを崩さずに暮らすことだけが、庶民のささやかな抵抗のように私には感じられます。

第2次攻撃 12月17日(木)夜半~18日(金)朝

 今夜は昨日とは違う様相です。10:00p.m.飛行機の編隊が見え、いきなり激しい空爆を始めました。ちょうど私の部屋のベランダの前方、ティグリス川の対岸に大統領官邸の一つがあります。そこをくり返し攻撃するため、爆発音に伴う振動でホテル中が震えます。激しい爆風と煙が窓から部屋の中まで殴りつけるように吹きつけます。

 私は、何も持たずに部屋を飛び出しました。ロビーに降りるとマネージャーが「下へ、下へ」と手を振り回して叫んでいます。宿泊客たちが走っている後を追うと、そこは地下シェルターでした。

 私は、他の客たちと暖房もないホテルの地下に避難して、じっと攻撃のとだえるのを待っていました。そこには、100人以上もの宿泊客がいたでしょうか。隣国ヨルダンからの客、他のアラブ諸国からのビジネスマン、クルドのサッカーチームや今日結婚式をあげたばかりのイラク人カップルもいます。ラマダーンのために地方からバグダッドに出てきた家族もいます。コンクリートの厚い壁にさえぎられても、ホテルが揺れているのや、爆発音は伝わってきます。子どもたちは母親の胸に顔を埋め、5台しかないベッドのシーツにくるまり、鳴き声だけが聞こえてきます。子どもだけでなく、女性客たちも震え、泣き続けています。皆うつむきがちにすわり、ただ、じっと耐えています。

 私は4時間ほどそこにいながら湾岸戦争中のことを考えていました。ホテルだけてなく、病院など大きな建物の地下には緊急避難用の地下シェルターがあります。以前イラクの人たちに湾岸戦争中のことを聞いていたときに、医者たちが「毎日、患者たちを病院の地下へ集め避難していた。みんな泣き叫ぶのをなだめるのに必死で自分が怖がっている暇はなかった」「電気設備もなく、酸素吸入もできないシェルターの中で何時間も過ごしていたため、重症患者や保育器に入っていた新生児たちの多数が命を落とした」と語っていました。「ああ、こういう思いを何十日も続けていたのだ」と思いました。どんなに怖かったことでしょう。

 また、私の通い続けている白血病病棟の子どもたちのことも心配し続けていました。

「あの子たちも病院の地下に避難しているのだろうか」「さぞ怖がっているに違いない」「この寒い夜、電気設備もなく、危篤の子どもたちはどうなっているのだろう」あの子たちについていてあげられない私に、悔しさをかみしめながら、非道な攻撃に怒りが倍加します。

 第2次爆撃は、17日10:00p.m.頃から18日の2:00a.m.頃まで断続的に続きました。明かりの列が編隊を組んで動くのが見えました。どれもサウジアラビアの方向から向かってきました。英国が戦闘機をイラクに向けて飛び立たせたと聞きましたから、それだったのでしょうか。さらに3:00a.m.から4:00a.m.頃も激しい爆撃がありました。大きな炎が上がっています。

 非常識な日本の報道陣の質問は、爆撃でろくに眠る時間も取れないのに、波状攻撃の合間をみてまどろむと、時差も考えず夜中の3時、4時に日本から電話をしてきて「民家が爆撃されたというのは、イラク政府のプロパガンダだろう」などと言うのです。

 私から「爆撃が激しくて、とても怖い」というコメントを引き出したいのでしょう。怖がっている余裕なんてあるものですか!今、私が恐れているのは、イラクの子どもたちが、特に病気の子どもたちが、これ以上苦しみ、死ぬことだけです。

 この攻撃による被害は陰惨をきわめています。まず、バグダッド内のメディカルシティという国内の医療関連施設を集めた街にある、900床のベッド数を誇る国内一のサダム医科大学付属病院が近くに落とされた爆弾のあおりで機能不能になりました。病院長や医師たちの話では、大きな3つの破片がすごい勢いで病院を直撃し、爆風のあおりで病院が一瞬宙に浮き上がり、次の瞬間ズシンと地に落ちたそうです。病室の窓ガラスはすべて割れ、電気設備も水道設備も壊滅状態で、ひしゃげたシステムが垂れ下がっています。ショックで3人の患者がその場で息を引き取ったそうです。すぐに患者たちを地下シェルターに避難させ、一晩中何の設備もないところで輸血も点滴も酸素吸入もできず過ごさせたため、患者たちの病状は悪化し、特に重症者たちの状態は深刻だとのことです。この病院には第1次攻撃による怪我人も、運びこまれていました。

 夜が明けて攻撃が中断したところで駆けつけた私は、患者たちを他病院に転送するので大わらわだった院長に「日本政府は真っ先にこの攻撃に賛成したのだ。日本人としてどう思うのか。こんなことが人道上許されるのか」と食ってかかられました。めちゃくちゃになった病院の入口には、イラク有数の芸術家の手による美しいリリーフがそれだけは無傷で残っていました。

 この院長だけではありません。イラクの人々は、口々に私に言います。「僕たちが日本に何をしたというの!」

「何故(平和を愛する)日本人が、国際世論に反してまで私たちをこんな目にあわせるの!」ただでも惨状を目にして辛い思いでいる私に、人々は日本人としての責任を突きつけます。

 私が毎日通っている、白血病病棟のあるマンスール小児病院は、この病院の隣に建っています。子どもたちは、

 激しい振動と爆撃音におびえ、一晩中泣き叫んでいたそうです。皆すっかり衰弱し、高熱を出している子どももいます。「また、爆撃が始まって怖くなったら、私のことを考えて。私はあなたたちのことを思い続けているから」とくり返し話して、彼らに笑顔が戻るまでに何時間を費やしたことでしょうか。重体の子どもたちのいた個室の前には酸素ボンベが立っているだけで、すべて空っぽでした。私は、重体だった彼らの生死を確かめることなど怖くてできませんでした。

 同じメディカルシティ内にある厚生省も、窓ガラスが割れ、アルミニウムの桟がひしゃげ、天井が落ちています。直撃でなくとも大病院を壊滅状態に追い込む強力な威力の攻撃でした。

 その他にも、別の地区では私立アル・リカ産婦人科病院が爆撃を受けました。バグダッド大学の語学学部も、大学近くの爆撃のあおりで機能不能です。薬学部、化学部も痛手を受けました。国立の自然歴史博物館も、またカダミーヤにある綿花の工場も爆撃を受けました。アブ・グレイブという地区では小さな個人経営の電池工場や数多くの民家や商店が爆撃を受けたと聞きました。アブ・グレイブには、部分解除を含めイラクに入る医薬品のすべてを扱う大きな税関があります。

 国連の人道物資分配監視などの職員たちも全員、攻撃の激しさにヨルダンに脱出したそうです。

 今日の昼に、突然ヨルダン政府がイラク側国境を閉鎖しました。つまり普通にはイラクから外に出ることができなくなりました。外国人は例外でイラクから出て行けますが、イラク人運転手やイラクナンバーのタクシーではヨルダン国境を通過できなくなりました。私たちがイラクを出る場合は、ヨルダン人運転手のヨルダンナンバーの車がイラクに入ってくるのをつかまえて出れば良いのですが、通常私がGMCという大型タクシーを借り切るには100ドル程度で交渉していたのに、今は400~500ドルになっています。イラクのタクシー会社が並んでいる地区では、仕事ができなくなったイラク人運転手たちが一日中なす術もなく座り込んで時間をつぶしています。

第3次攻撃 12月18日(金)夜~19日(土)朝

 8:30p.m.に共同通信からの電話が入り、クリントンが第3次攻撃を始めたと発表したとのこと。でも、バグダッドの私の部屋からは、遠い爆撃音が聞こえるだけです。

 夜が明けてから確かめたところ、地方への攻撃が主だったようです。南のバスラでは、クリナ病院が爆撃を受けたそうです。湾岸戦争直後の1991年にバスラへ行ったとき、市の中心部から離れたこの病院も爆撃を受けたため機能せず、保健所に吸収されていました。2年後にようやく再建した病院だったのに…。つい数日前、私の同行者たちがこの保健所を訪ねたばかりでした。

 その他に、バスラだけでも3ヵ所の病院、3ヵ所の小学校、中学校、幼稚園、障害児関連施設などが被害を受けたそうです。部分解除の物資が出入りするバスラ港のオム・カスル税関も、石油関連の工場も爆撃を受けました。部分解除をしたといっても、戦争で徹底的に石油施設を壊された上に長びく制裁下で石油生産が思うに任せなかったのに、さらなる破壊です。何という仕打ちでしょうか。

 タミンでは、大学の学生寮が被害を受け10数人が死亡したと伝わってきました。きっと「この学生たちは化学兵器開発研究に携わっていた」とでもいう見解になるのではないでしょうか。

救援活動 12月19日(土)

 急遽、ここにいるNGOが全員で協力して被害者の運ばれたアル・ヤルムーク病院へ救援物資を届けることを決めました。人権無視の非道な攻撃に対する抗議の意味も含めた私たちの行動でした。

 CNNが取材に来ていたのですが、ニュースでは全く流れませんでした。

 被害者は第1次攻撃による人たちだけでなく、毎日各地から運ばれてきます。ハイ・アルアデルの自宅にいて被害にあった中学3年生の少女は、両足の大腿部から足首までの複雑骨折で、副木を当てた包帯の上にも多量の血が滲み出ています。「私は死んでしまう」とくり返し、泣き叫んでいます。「私は何にもしていないのに(アメリカの)兵器で殺されるんだ!」と泣き続ける彼女に「死んでしまうなんて考えてはダメ!怪我しただけで助かったんだから神様にありがとうって思って、がんばらなくちゃだめよ」と必死で話しかけました。ようやく気持ちを鎮めようとしている少女のかたわらで、親たちが「この子がこんな目にあう程のどんな悪いことをしたというの。ただ家の中にいただけなのに」と私を問いつめます。隣のベッドには大腿部に大怪我を負った2才の女児が横たわっています。アブ・グレイブの自宅に爆撃を受け、3人の兄弟全員が怪我をして病院に運びこまれたそうです。情報省などで聞いた場所よりはるかに多くの地域から、死傷者たちが運びこまれています。

 また、車で街を走っていたとき、イラク国旗でくるんだ小さな小さな柩を積んだ車が追い越して行きました。運転していた友人が「この攻撃で死んだ小さな子の柩だ」と言うので、「どうして攻撃による死者だとわかるのか」と問うと、「旗をかけているのは戦争による犠牲者だ」と教えてくれました。死者数が時間ごとに増えていきます。

 夜、3回目の攻撃を受けた後でようやく、イラク政府のラマダン第1副大統領による記者会見がありました。イラク側のどこに「民間人が犠牲になった」というプロパガンダを作り出す余裕があったというのでしょう。激しい攻撃とその攻撃による大きな被害の事実の方が、イラク政府のニュースよりはるかに先行しています。事実をイラクの人たちに身を寄せながら体験している私に言わせれば、離れたところにいて「イラク政府は(非道なことを)何でもやるし、人々は政府を恐れて本当のことは何も言えない」と思い込んだ目や耳で、アメリカ発のウソ報道を追認しながらする判断こそ、プロパガンダに覆われています。今回サダム・フセインがこの人たちやアラブの人々に何をやったというのでしょうか。罪なき民衆を問答無用に殺戮したのは、米・英の軍事力です。

 クリントンが「なぜ病院まで爆撃するのか」という記者の質問に「その病院には(化学)兵器の研究所があった」と答えたと聞き、怒りに言葉も出ません。サダム医科大学病院の被害は破片と爆風によるもので、あの爆弾の標的は、道の反対側にある今は使われていない旧防衛庁の建物でした。湾岸戦争中に徹底的に壊された建物ですが、いまだに再建のメドも絶たず(労働者に仕事を与えるために)細々と日干しレンガを積む程度の建設作業を続けているところだったそうです。標的にさえならなかった病院のどこに『化学兵器』があったというのでしょうか。『化学兵器』と『生物兵器』という言葉さえ使えば、事実はどうであれイラクに対しては何でもやれるということが定着してしまったように私には思えます。

 イラクの人たちは、人間の内には入らないとでもいうのでしょうか。日本の1,2倍の小さな国イラクにも大統領以外の2千2百万人の人々が暮らしています。彼らは私たちと同じに、女であり男であり、貧しい人であり富める人であり、子どもであり大人であり、障害者や老人であり、病人や恋する青年たちなのです。その人たちの頭上に爆弾やミサイルが予告もなしにばらまかれました。

 イラク政府が多量のミサイルを迎撃し撃墜したと発表しました。何機かは確かに撃墜されました。でもほんの数える程で、それこそイラク側のプロパガンダだと迎撃の様子を見ていたと私は思うのですが、そのニュースを聞いたイラクの人たちは、あんなに厭戦気分でいたのに大統領を好きな人たちだけでなく、本当に嬉しそうに、「俺たちが200機もアメリカのミサイルをやっつけた」と誇らしげに言うのです。理不尽な攻撃は、あんなに平和的な人々の攻撃性を育て、攻撃側への反感を育て上げるのだと目の当りにして、哀しくなります。「非武装こそ身を守る手段だ」と言い続けていた私に、「イスラエルが最強の軍事を持っている危険の中で丸裸になれと言うのか」と反論しつつ、共感してくれていた人たちなのに。

 私は断食に入ってこの空爆が休止したら、早々にヨルダンに戻ります。空襲のさなかにヨルダンまでの1000kmの長い道のりを行く危険を犯すより、ホテル内で避難しているほうが安全だと判断したからです。でも、外国人の私は自分の身の安全だけを考えて逃げ出すことができるけれど、この国の人たちは、子どもたちは逃げ出すことなんかできないで、ただおびえながら耐え続けているのです。この2日間に何人もの知人たち、例えばホテルのハウスキーパーから「マサコと一緒の写真を撮ってくれ。もし自分が死んだら思い出してくれるように」と頼まれました。なんと切ない覚悟でしょう。

 クリントンが外国放送で「イスラム教を尊重する。断食の尊さもわかっている。だから攻撃は夜しかしない」と言ったと伝わってきました。あきれてものが言えません。断食は食べない時間だけを意味するのではなく、断食月(ラマダーン)の1ヵ月全部に特別な意味があるのです。

 確かに断食月の間は日の出から日の入りまで一切の飲食を絶ちます。でもそれは、人間は(神の下)貧しい者も富める者もすべて平等であると改めて認識し、貧しくて食べることもできない者を思いやるための大切な期間なので、1ヵ月通さなくては意味がないものなのです。朝日の昇る前5:00a.m.以前から夕方5:00p.m.頃まで12時間以上、1滴の水も飲めず唾を飲み込むことも、たばこを吸うことも、キスすることもできないのはやはりかなりの苦行です。小さな少年から年配の方まで、男女貧富職種を問わず、みんなで1日ずつやり遂げ1ヵ月やり抜くので、日没後に毎日とる夕飯(もともとの意味のブレックファーストです)は親戚・友人を招待しあい、訪ね合い、「今日も断食をやり抜けたね」と励まし合うお祭り騒ぎです。断食の期間は酒屋も店を閉め、夫婦間の性交渉もできません。ダイエットとは違う神聖な意味を持つ行事です。

 何もわかってない発言をしながら、どの口をもって「イスラム教を尊重する」などと言えるのでしょうか。

第4次攻撃 12月20日(月)朝

 昨夜から継続して今朝になっても攻撃がありました。今日から断食月が始まったというのに、やめる気配もありません。昨日「ラマダーンの昼間は攻撃しない」と聞いたばかりなのに、言った端からくつがえしていきます。

 何故、世界のジャーナリストたちは、こんなに根拠の無いことを言いつのり、ころころ言ったことを変える人が、『化学兵器』『生物兵器』と言うと、それだけで真実味を帯びるような報道を流すのでしょう。

 私は、この4日間で、光や音だけで「あれは巡航ミサイル、これは戦闘機」と判断したり、どこの方角から来るからサウジアラビアの米軍基地からだとかアラビア湾に展開する空母からだなどと考えてみたりできるようになってしまいました。「たった4日間ホテルの窓から爆撃を眺めていただけで、お互いに兵器評論家になったみたいね」と同行の人たちと苦笑し合ったものです。イラクの人たちが、湾岸戦争中に各種の光や音や煙から、例えば劣化ウラン弾の実戦使用について名前も知らないまま憶測していたことも、こうして現実に体験してみると、

 かなりの確度をもった直感だと思えてきます。何しろイラクの人たちは、各方面の専門家も含め湾岸戦争当時でも1800万人もいたのですし、42日間も実体験を積まされていたのですから。

 今日の攻撃では、報道陣が滞在するアル・ラシッドホテルの近くにも被弾したと各国のジャーナリストたちが浮き足立って話していました。その他では、ワゼリヤ地区の住宅や旧国立図書館も爆撃の被害を受けました。労働福祉省の庁舎も、向かいにある発電所への攻撃の影響で破壊されました。ニューバグダッドにあるアル・バッカリ軍学校などが爆撃されました。

 イラクでは、湾岸戦争で徹底的に壊されたインフラを経済制裁で修理・整備することもおぼつかないため数年前から計画停電が行われており、今年の夏には1日に電気がつくのが2時間という地区だってあったのにさらなる破壊です。部分解除を含めたイラクへ入る物資をイラク側が管理する税関も各所で狙い撃ちされています。どこまで人の当たり前の暮らしを奪えば気が済むというのでしょう。

 労働社会福祉省は、生活保護や寡婦・障害者・老人の扶助を担当している役所です。

(蛇足ですが、何故日本のマスコミは『社会福祉省』を『社会問題省』と訳すのでしょうか。イラクが省の名前に使っているSocial Welfareという英語は一般に社会福祉と訳します。社会問題という意味のSocial Affairsとは違うのですが、「イラクには福祉などなく、問題は山積している」というさりげなくも露骨な世論形成を助けていると感じるのは、うがちすぎでしょうか)。

 この役所は、私の孤児院や障害児施設での活動も支えてくれています。先日も、省主催の『生活困窮下で学校をやめて増え続けるストリート・チルドレンたちに、どのような手を差し伸べられるのか』という会議に参加したばかりです。困難な状況の中でも現場で頑張っている人たちが、事態を打開しようと真剣な議論を交わしったとてもよい会でした。例えば、報告者が「小学生から売春をする少女が出ているが、その子たちを救うには学校を離れさせ収入になる仕事を与えれば良い」と提案すると、会場から非難の声がわき起こり「学校から追い出すなんてもっての他だ。学校でこそ、その少女たちに何が良いことで何が悪いことなのかを自分たちが教えなくてはいけない」とか「売春に追いこまれる少女たちよりも、その子たちを買おうとする男たちにこそ、買春は人権を踏みにじる非道な仕打ちなのだと徹底しなくてはいけない」という発言が相つぎます。「刑務所の囚人たちの人権はどうなっているのか」と質問が出たときも、議長が「それは自分たちの管轄外で今日の議題ではない」と制すると、大臣が議長に異議を申し立て、「現在刑務所に収容されている人の76%が窃盗犯で、刑期満了後のケア、特に就業訓練を受け入れる会社を増やすように偏見を排除する世論形成が重要課題だ」と議論を促すように発言します。大臣も、外国人の私も、現場の先生たちも、調査研究員やイスラムの高僧も大学の先生も、平場で真剣に子どもたちの現状を改善できる道を捜そうとする素晴らしい会議でした。当たり前だけど、労働社会福祉省は、経済制裁下で一番苦しんでいる人たちの身近にある役所です。そこが破壊されたため業務は滞り、NGOの(この省の管轄下の)活動も一時休止状態になってしまいました。対象になる最も弱い人たちは、支えの手が止まってどんな状況に追いこまれているのでしょうか。

 旧国立図書館に撃ちこまれたミサイルには、友人の元図書館長の話によれば『これは断食月のプレゼントだGift for Ramadan』との米兵による落書きがあったそうです。被害者の顔を見ないで済む攻撃は、爆弾投下する側の人々を限り無く残酷にできるのだと、改めて痛感しました。

「断食になれば攻撃は終わる」と信じていた人々は、断食の始まった今朝になっても続く爆発音に茫然としながら「アメリカの今までのやり様だって同じだった」「いつもイスラムの聖なる日をねらって攻撃する」と納得しています。

 ターリック・アジズ副首相は「軍人だけで68人の死者、180人の負傷者」と発表したそうです。民間人の死者数は、50人以上とか、68人とか、100人以上とか言われていますが、私自身の実感では確実に100人以上にはなっていると思います。負傷者は病院へ行かない人々も含めると数千人規模ではないでしょうか。

 悲しい事実も重ねて伝わってきます。サダム医科大学付属病院では、他病院に移送された患者のうち25人が亡くなったそうです。こんな数字は、直接の爆撃によるものではないので、どこからも出てきません。直接、間接の死者数は増え続けています。

バグダッドからアンマン(ヨルダン)へ帰る 12月22日(火)

 朝7:00.a.m.バグダッドを発ちました。アンマンヘ戻ります。

 クリントンが「断食の間だけは爆撃を休止するがイラクの出方次第で再開する」と言ったと聞き、こちらの人たちは断食後に確実に攻撃が再開されると考えています。「だってイラクが何を言ったって、何をしたって、いや何もしなくても、アメリカはやりたいんだから」と言うのです。

 こんな人たちを、私は見捨ててイラクを出ていかなくてはなりません。無力な私などにできることは何もないけれど、それでもあの子たちの側にいてあげるだけで、あの子たちはどれほど勇気を出せるかを知っているのに、

 私はあの子たちを無謀な攻撃の下に置き去りにして自分だけ安全圏に出ていくのです。くやし涙があふれて止まりません。

ヨルダン側の国境で

 ヨルダンへ出ていこうとする人々の車は、ほとんど見当たりません。反対に、「攻撃が終わった」と聞いて避難していた人たちが、ラマダーンをイラクの自宅ですごそうと大量にバグダッドへ戻って行きます。

 アンマンヘ出ていく人たちは、身なりや持ち物からは平均より少しお金がある人たちのように見受けられます。

 イラクの家を引き払い、一家で外へ出ていこうとしています。クルド語で会話している家族たちやキリスト教徒の母子もいました。ヨルダン入国手続きの済むのを待つ間、彼らと話したのですが、口々に「アメリカが戦争を仕かけて怖いから逃げ出すのだ。いきなり爆弾が落ちてくる。もう沢山だ」と言っていました。

 引き上げる欧州の記者にも逢いました。「どこを見たか」と聞くと「ガイドに連れて行かれた産婦人科病院と被弾した住宅地の道路だけ」で「イラク政府は民間施設と言っているけれど」と付け加えます。「ジャーナリストたちが、イラクのプロパガンダだと思うのも無理はない」と彼らと話して思いました。特に今回初めて、しかも後からイラクに入って来た報道陣は、言葉もできない上良いガイドも残っておらず、ガイドの判断で制限をされてしまったようです。まず自分たちで情報収集をした上で、イラクのシステムを理解し彼らのルールを尊重して「何処へ行きたい」「何をやりたい」と出せば大概のことは通るのですが、彼らは「現場に飛び込む報道魂」を最優先し、他人の感情お構いなしに自分たちの時間を最優先し「知らせることが使命だ」と知らせる中身や対象の人たちの感情を無視してごり押ししようとするから通るものも通らないのだと思います。

 もちろんイラク側にも問題はあります。やましいことがないのなら、メンツになどこだわらず何でも見せてしまえば良いと私だって思います。イラクには、特にこんなことがあるとCIAだって他のスパイだって沢山入ってきますが、味方になろうとしている人たちだって沢山いるのですから恐れずに出してしまえば良いと。

 また、情報省自身の問題もあります。報道の人たちは、一般に文化・情報省のプレスセンターの管轄下で動かなくてはならず、情報省勤務のガイドを付けなくてはなりません。(ちなみに、一般にイラク情報省といわれているのは、正確には文化・情報省、Ministry of Culture and Informationという名前で、世界の多くのジャーナリストたちが情報省と呼ぶのは文化・情報省のプレスセンターのことだけで、文化・情報省そのものをイラク政府の秘密警察が暗躍する政府直属の検閲機関というのは当たっていません)。ガイドたちは確かにタチの良くない人たちが少なくないのです。情報省のガイドの多くは、戦争以前は外国人観光客相手のガイドだったり外国企業を相手に仕事をしていた人たちで、外貨の余禄を一番取りやすかった人たちでした。制裁下で外国人が入ってこないイラクでは、一番外貨を持っている外国人と接触できる所が情報省なのです。ガイドをはじめ情報省の職員の中には、袖の下を要求するために「あれは禁じられている」「これはだめだ」と法律や規則以外のことも言い募り「自分が面倒を見てやるから」と外貨を得ようとする人たちも沢山います。

 実は、私の親しい友人が昨春から情報省の局長になりました。

 彼女はもともと小説家で、フランスでの生活も長く欧米にも沢山の友人を持つリベラルな人です。一方で平和運動に心血を注いでいたので、日本の平和行進やピースボートがイラクに立ち寄った折りにもその世話をしたりしていて日本人からは「平和おばさん」というあだ名で呼ばれてもいました。私は「イラクの土井たか子さん」と思っています。

 その彼女が今の地位に抜てきされたのは、彼女が新聞のコラムに辛らつな役所批判を書いたことがきっかけでした。

「今のイラクの窮状を打開するには、外国の人たちに理解してもらうことが不可欠だ。それなのに役所をはじめとして、わずかばかりイラクに入ってくる外国人から外貨を搾り取るしか考えていない。特に情報省は腐っている」という内容でしたが、それが大統領の目にとまり「中からの改革を」と公職に着くことになったのです。

 日本の役所だって中からの改革は大変ですからなかなか思うに任せませんが、それでも風穴は開いています。何処の役所でも中間管理職は、仮に運用でできることがあっても融通の利かない人が多いのですが、権限を持つ上の人たちはこちらが規則を踏まえた上で「イラクに害を為すつもりではない」との思いを分かってもらう努力をすれば、日本の役人よりはるかに柔軟に対応してくれます。

ヨルダンにて

 ヨルダンに戻ってから、バグダッドでも小学校、中学校、幼稚園なども被害を受けたと聞きました。イラクにいるうちに知っていれば駆けつけたのに。ここでは心配することしかできません。

 私は帰国までの間、私は誰彼なしに(タクシーに乗れば運転手に、買い物をすればスーパーの店員に)、バグダッドで見た惨状を私の写した写真を見せながら話しました。彼らの知ったニュースは、やはりCNNやBBCなど英米のTVが主だったからです。

 ヨルダンの人たちは、ニュースが近いだけに皆が皆、隣国イラクの人々を心配し、アメリカの横暴に怒っていました。でもそれ以上に、(和平合意後)ヨルダン政府がアメリカよりのスタンスしか取れなくなったことを、怒り、嘆いてもいました。「自分がヨルダン人だということが恥ずかしい。ヨルダン政府は無条件にアメリカの攻撃を支持した。何という恥知らずなのだろう。

 同じアラブ人として、イスラム教徒として恥ずかしい」とか「戦争反対の数千人規模の抗議デモをしたが、警備の兵士の隊列の方がデモ隊よりはるかに多く、沿道の人たちにデモをしていることを隠そうとした」「アメリカ大使館前を通るデモを計画したが、ヨルダン政府が許可しない。この国は自分たちの国だったはずなのに、いまやアメリカの顔色をうかがっているだけの飼い犬に成り果てた」などと話していました。

12月23日(水)

 ヨルダンのラジオニュースで、「バグダッド・アーダミーヤで爆弾が爆発した」と報じられました。アル・リファイ元駐日イラク大使のご近所の不発弾でないことを祈るしか、私には術がありません。


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